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新潟県佐渡島の片野尾地区の鯨塚をゼミ生とともに訪ねて

細川隆雄(愛媛大学教授)


車のなかで、話をしているうちに、前方に墓のようなものが見えた。

「あれっ? あの墓が鯨の墓ですか?」とゼミ生のAくんがいった。

「いや、もうちょっと、行って、あれは人間のお墓ですよ」と案内をしていただいている佐渡を知りつくした郷土史家のBさんがいった。

路傍に、花が添えられている祠が目に付いた。ガラス戸があって実に綺麗に管理されていた。わたしは車の窓から頭を出して写真をとりながら、「これは、教材用に、いい写真になります。神仏をあがめる気持ちがあらわれていますねえ」とつぶやいた。

「そうですねえ、路傍の祠は、日本の原点ですねえ。神仏へのねんごろな気持ちの表れですねえ。百万遍なんかも、そうですよ」とBさん。佐渡では、海岸べりにおおくの祠があり、海の安全、大漁祈願の善宝寺信仰も強いという。

「あっ、あそこ、道標に鯨の墓と書いてありますねえ」とわたし。

車は海岸の広い道から狭い道へと入っていった。

「そうそう、これ、鯨塚の入口です。この細い道が旧道です」

わたしたちは、山際に車を止めて、鯨塚に通じる細い坂道をのぼった。民家の屋根越しに、鯨がきたであろう佐渡の海を見渡した。

「この道の下側の家は昔から、あったのですか?」

「はい、ありました。元々は、船小屋みたいになってました」

歩きながら、Bさんは、鯨塚にまつわる伝説を説明してくれた。

江戸の末期、片野尾の浜に、寄り鯨があがった。メス鯨であった。寄り鯨が上がる前夜、大家の宇治彦五郎さんの夢枕に、女の人が出てきてねえ、実はわたし、ご縁があって、あした、お会いすることになるでしょう。そのさいには、ねんごろに、かばってくださるようお願いします。隠し所(下腹部)を見られたくないというお願いでした。そうして、朝、起きてみたら、大きなナガスクジラが浜に上がったのです。万延元年、12月30日でした。宇治彦五郎さんは、夢枕の女の人との約束通りに、家から蓆をもってきて、隠し所を見せないようにしました。約束したように、ねんごろに対応したのでした。この寄り鯨については、もうひとつ、予兆を示すお告げ的な、言い伝えがあるのです。これも、巨大鯨があがる前日に、地蔵院のおぼうさんが不思議な経験をしたのです。雨が降っていないのに、地蔵院の階段がびっしり、濡れていたのです。おぼうさんは、これは何か、異変が起こると思いました。この場合も、隣接の村どうしで、この寄り鯨の所有権争いが起こった。どちらが先に発見したとか、縄をかけたかという争いであった。さきほど行った椎泊地区の鯨塚の言い伝えと同じような争いが起こったのです。結局、話し合いで、頭の方がこちらの村、片野尾、しっぽの方が隣の月布施村がもらうということになった。それで、鯨を弔うために、あご骨を塚として建てて、祀ったのです・・・


鯨伝説についての話を聞いているうちに、前方に、鯨のあご骨らしきものが見えてきた。わたしたちはいささか興奮しながら、早足で、骨の下に行った。

「ああ、ごつい骨やあ、でかいなあ」


古今東西 資源あらそい――佐渡の冬 天を突きさす 鯨卒塔婆  (ほっそん)


片野尾の鯨塚。巨大鯨の年輪を感じさせる顎骨表面の凹凸。

写真 片野尾の鯨塚。巨大鯨の年輪を感じさせる顎骨表面の凹凸。


あご骨は、雑草の生えた斜面に、卒塔婆のような形で、突き刺さっていた。その下には、この鯨の戒名が書かれた木製の立札があった。「海王妙見信女」と記されていた。新潟県が設置した説明板には、「漂着した鯨は、肉や脂などの現物配分のほか、鯨肉や鯨油が払い下げられ、それが入札されて、村にとって、大きな臨時収入となった」と書かれていた。

骨の横には、何やら石碑のようなものが、3つ、設置されていた。巨大鯨の命日に、1回忌、3回忌、・・・の法事がおこなわれ、念仏記念塔として設置されたのであろうか。数字の3になにか意味があるのであろうか。Bさんによれば、月布施村にもう1本のあご骨も祀られていたが、行商をしている薬屋が目をつけて、村人と譲ってくれと交渉して、買って行った。近くの地蔵院の和尚さんが戒名をつけて、供養したとう。

「むかしは、海から、この白い骨が見えた。海上からの目印にしていた。上部の方がだいぶ欠けて、短くなった。雑木もこんなに茂っていなかった。家内の父親なんかねえ、明治20年生まれやけど、若いころ、この沖にスケトウダラの延縄漁に来て、このあご骨が見えたといってましたねえ。地表目標にしたんです」

「これは、鯨の墓と呼んでいいんですか?」

「そうですねえ、鯨を供養するために、卒塔婆として祀ったことは間違いないでしょう。ここには、鯨塚と表示されていますがねえ」

「ここに、万延元年12月と書かれていますねえ、幕末ですか?」

「慶応のまえです、嘉永のあとですねえ」とBさん。

「そこに、さる、てん、と書かれてあるのは、さる年という意味です」

「海王というのは、海の王としての鯨という意味ですか?」

「そうそう、海王妙応信女、海の王である鯨が妙に、つまり、すぐれて応じるという意味ですねえ、信女ということで、メスですねえ。ほぼ30メートルの巨大鯨であったと伝えられています。」

顎骨の地上部の高さをメジャーで測った。ほぼ4メートル30センチであった。地下の部分は1メートル弱あるという。右側の顎骨か左側か、特定することはできなかった。

鯨の種類は、シロナガスであったという。そもそも、鯨を供養するために、この場所を選んだ理由は何なのですかねえ、と質問したが、この点については、よくわからないということであった。ただこの場所は辻になっており、道祖神的な役割があるのではないかということであった。外界から村に、害悪、邪神が入り込まないように、海の王としての鯨の顎骨を立てたのであろうか。


天へとつづく 畏敬の念――道祖神 村をみまもる 鯨塚         


わたしたちは、あご骨の下で、記念写真をとって、あらためて、あご骨を見上げた。

「それにしても、大きい骨やなあ、見事ですねえ」とゼミ生のCくんは言った。

「元々は、倍くらいの大きさがあったそうですよ。さっき、お話しましたように、12月29日に、夢知らせがあったのです。翌日、鯨が上がったとき、あまりに鯨が巨大だったので、みんながひるんで、海に飛び込んで、ロープをかける者がいなかったそうです。それで、お告げを受けた彦五郎さんが、海に飛び込んで、おがんで、ロープをかけたと聞いております」

「正月まえで、村が困窮しているときに、鯨が来たのではないですかねえ?」とわたし。

「そうかも知れませんね。そういうことが底辺にあったのかも知れません。前日にお告げがあったということは、鯨が救済にきたのかも知れません。鯨油がたくさんとれたと言いますから、村は大きな恵みをうけたことは間違いありません。まさに、鯨1頭7浦潤うですねえ」

「村が困っているとき、巨大鯨が乗り上げたという話はよくあるんです。ゼミ生とともに創った創作紙芝居くじらのはかのストーリーもそのような話なんです」とわたし。

「おそらく、先生、だから、これだけ立派な御まつりをしたんだと思います。明治、大正と御まつりを続けました。毎年、百万遍の御まつりをねえ」

あご骨の右側に風化した石碑を指さしてAくんがたずねた。

「あの3つの石碑は何ですか?」

「あの周りで、百万遍のおまつりをしたんです」

Aくんが雑草の生えた斜面を登って、石碑のそばに行った。

「Aくん、石碑に何か書いてありますか?」とわたし。

「何か記されていますけど、風化していて、全く読めません」

「石碑には、梵字がはいっていたと思うんです。佐渡みかげ石というやつで、はがれやすい石なんです」

鯨のために石碑を建てて、百万遍、お経を唱える、これほどの手厚い鯨供養は、この漂着鯨への感謝の大きさ、地域の人々の信仰心の強さを伺わせるものであった。

「このあご骨の卒塔婆、もうちょっとで、倒れそうですねえ」とAくん。

「そうですね、ポキッといったら、大変です。ケースで保護するなり措置が必要ですねえ。これは、ここに立っておって、値打ちがあるんで、帰ったら、風化しないように補強すべきだと然るべき関係者に言います。これは貴重な文化財だから」

「以前に調査した長崎五島列島の有川にある鯨のあご骨の鳥居はFRPでまいてましたねえ」とAくん。

トンビのピーヒョロ、ピーヒョロの鳴き声が聞こえた。

わたしたちは、浜辺をぶらぶらと、巨大鯨が発見されロープをまかれて引き上げられた浜まで、歩いてゆくことにした。漁村のたたずまいを観察しながら、歩いていると、「秘公懐の館 互多楽」という看板のかかった建物が目についた。なにか民俗資料館のような感じのする建物だったので、入口のところまでいくと、犬がワンワン吠えた。すると、家のご主人があらわれた。わたしたちは佐渡の鯨塚調査にきたことなど、ご主人のDさんと家のまえで、立ち話をした。立ち話の様子をうかがいながら、その黒い犬も安心したのか、クンクンと臭いをかいで、突然の来訪者にたいする警戒を解いて、わたしたちを受け入れてくれた。犬好きのAくんと友達になったようだった。

佐渡のいろいろな民俗資料を趣味で集めてきたということであった。突然の訪問であったが、Dさんは資料・展示品の説明をふくめて、親切に、もてなしてくれた。古い柱時計、ミシン、昭和初期に使われたであろう生活道具、壺、さら、掛け軸などの骨董、兜、古刀などの武具、古いプラモデルや人形、幻灯機、地元でおこなわれる歌舞伎の衣装、3丁目の夕陽ではないがなつかしい昭和のセピア色した写真の数々・・・。佐渡おけさを全国に宣伝するために作ったのであろう、おけさ踊りの等身大のおおきさのマネキン人形も展示されていた。朱鷺の模型もあった。鯨関係の資料は残念ながら、なかった。

私設民俗資料館?の一室に囲炉裏のついた座敷があった。どうぞどうぞ、座敷に上がってください、ということであった。囲炉裏を前にしての昔話は格別であった。片野尾地区の生活の移り変わり、信仰心、佐渡おけさのこと等について、しばし雑談した。囲炉裏をかこんで、地元の魚をつつきながらちびちび酒でも飲み、片野尾の民俗談義ができたら最高だなあと思った。囲炉裏の生活が昭和20年代まであったという。元警察官で年金生活をしているDさんは趣味で地元片野尾の民俗資料をぼちぼち収集していったという。この囲炉裏は、近所の人たちをもてなす場にもなっているという。互いに大いに楽しむ、「互多楽」という粋な名称が納得できた。もう少しゆっくりしていってくださいということであったが、わたしたちは予定があるので、おいとました。

このあと、わたしたちは、片野尾地区の区長さんにご足労いただいて、巨大鯨が引き上げられたという浜である三艘間(さんぞうま)で、鯨がどのように引き上げられ、どのように解体されたかについての言い伝えを区長さんから聞いた。言い伝えの解体地点は、その当時、浜だったというが、今では、コンクリートが打たれ、道になっている。浜側には、真新しい平屋の建物がある。昔の岩の一部が残されており、そこを台座のようにして、金毘羅大権現、秋葉山大権現と併記された石碑がたてられていた。地元の人は金毘羅さん、秋葉さんとして信仰している。秋葉さんは火ふせの神様であるという。

「昔はここに、善宝寺さんも祭ってあったんです。それがねえ、今は善宝寺さんは最終的には向こうに移転しました。今は、善宝寺さんの御まつりは彦五郎さんが個人的にやっているんです。昔は村が管理して、善宝寺まつりをやっていました」

「このおおひらやま(大平山)の沖で漂着鯨をみつけ、となりの月布施集落と最初は所有権争いをしたが、最終的には、この浜に引き上げ、ここで捌いたのです」と区長さん。

「解体した場所は、この地点で間違いないですかねえ」とわたしは念をおした。

「いまは、道路拡張のために破壊されましたが、あそこに大きな岩があって、あそことこの岩との間に、鯨がひきあげられ、鯨の長さは、あの地点とこの岩との間に‘かかった’、と伝えられています。」

「じゃ、どうするか、巻き尺で、はかってみますか」とBさんがいった。

わたしたちは巻き尺で計測してみたが、やはり、一方の岩がすでに壊されており、精度の高い計測はもはや困難のように思われた。区長さんが示した地点を計測したが、15メートルにも達しなかった。もはや、埋め立てられていて、大きな岩のもともとの根っこがどのような形状になっていたのか、岩と岩との間に鯨がかかったというのはどういう状況をさすのか、確認することができなかったので、鯨の大きさを正確に現場で検証するのは、もはや不可能であった。

現場検証をしたあと、わたしたちは、鯨が上がる前の日に、夢枕に立ったと伝えられる、雨も降らないのに濡れていたという、山側中腹にある地蔵院本堂への階段を、感慨深く上った。

「この階段は、江戸時代から、そのままで、のお、こけむしとる」とBさん。

「ああ、この階段は、そのまま??」

「へっとる、自然に、あまだれで」とBさん。


鯨伝説の地蔵院本堂へのすり減った階段

写真 鯨伝説の地蔵院本堂へのすり減った階段


わたしたちは、区長さんに案内されて、すり減った階段を一気に息をきらせながら本堂まで上がった。鎮守の森という風情で、杉林の中にはいるとなんだか霊気がただよっているように感じた。

「この地蔵院は、だれが管理しているんですか?」

「ここは今、おぼうさんが定住しておらず無人になっています。で、おばちゃんたちが来て、真言宗の人たちが中心で、朝来て、お堂をあけて、お掃除して、お花や水をかえて、お参りします」

わたしたちはお堂に入ってお参りした。鯨の過去帳・位牌は、今は檀家総代が管理しているということで、確認することができなかった。地蔵院は片野尾88か所霊場巡りの起点になっていた。片野尾88カ所霊場は、片野尾出身の尼僧が四国霊場の各寺の霊砂を持ちかえって、その砂を奉納、村人たちの奉仕、寄付によって、明治12年に開設されたという。小さな石祠に仏像が安置された小さな漁村のミニ霊場である。わたしたちは、阿波1番の霊山寺から、いくつかをお参りしたが、花立てには真新しい花が供えられていた。佐渡では、真言宗の信仰も根強いという。四国讃岐が生んだ空海という人物の影響力の強さを再認識するとともに、ここでも、人々の信仰心の強さをうかがい知ることができた。強い信仰心があるからこそ、寄り鯨をありがたくいただいたあと、ねんごろに鯨塚をたて、おまつりしたのであろう。

信仰心とは広くは、森羅万象、海、山、川、いや小さな虫、小さな花にまで神霊を認め、いろいろな恵みをもたらしてくれる大自然を恐れ敬うという、縄文時代から面々とつづく日本的精神性といってもいいであろう。空海なる人物も日本各地の山岳・原野に伏し、神霊との一体化を試み、一定の霊力を体得したのであろう。


しずかさや 霊気ただよう 地蔵院 くじら伝説 日本のこころ 


(「鯨塚からみえてくる日本人の心3」農林統計出版2014年より)