「第二の開国」と「自由な新聞」の実態-岡本教授の時論・激論

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海南タイムズ 平成二十三年十月


「第二の開国」と「自由な新聞」の実態

京都大学法学博士  岡本幸治


  敗戦後の日本は、「第二の開国」を経験した。「第一の開国」は言うまでもなく明治維新。開国して日本は新たな前進を遂げた。だから開国はいいことだとされている。日本国民が期待して政権の座につけた民主党には「我々が第三の開国をやる」と力んでいた首相がいたが、ろくな業績がないままに消えていった。「第三の開国」はスローガン倒れの模様だ。では米国占領下において推進された「第二の開国」は良いことづくめであったのか。例えば「言論報道の自由」に関してはどうであったか。


  米国は建国以来自由を国是とした国であり、対日占領期にも自由化をたびたび唱えている。終戦の年の九月十日には、日本政府に対して「言論及び新聞の自由に関する覚書」を出し、二十七日にはそのための措置を具体化して「直ちに新聞及び通信の自由に対する統制を撤廃せよ」「新聞などがいかなる政策や意見を発表しても処罰してはならない」などと命じている。十月四日にはもっと広範な分野に渡る「自由の指令」を発し、「思想、宗教、集会及び言論の自由」に対する制限やその維持を図るあらゆる法令規則を廃止せよと厳命している。これによって戦後の日本は自由を回復し、軍国主義の日本は民主と平和の日本になった。明治維新に次ぐ第二の開国は、自由民主の米国の指導によって実現した、というのが戦後教育で育った日本人の「常識」になっている。


  ところが実態は大きく異なっており、GHQは早くから厳しい検閲を実施する体制を整えていた。日本人の思想動向に綿密な調査を行ったCIS(民間諜報局)は電話の盗聴まで行っている裏組織として、占領直後から活動した。GHQの表組織の中で他の部局に先んじて九月に作られたCIE(民間情報教育局)は、とくにマスコミを対象とした言論の統制・管理・誘導を行う上で中心的な役割を果たしている。


  当時の新聞で、九月十九日・二十日の二日にわたり最初にCIEによって発禁処分を食らったのは朝日である。朝日新聞が「新聞及び言論の自由に関する覚書」に違反したとされた記事は二つあった。第一は、鳩山一郎が「新党結成の構想」という寄稿文において、原爆の使用や無辜の国民殺傷(六十以上の都市を標的にした米軍の無差別爆撃を指す)が国際法違反、戦争犯罪である、と述べたこと。第二は日本軍がフィリピンで犯した暴行を近頃大々的に発表しているが、それは米軍の暴行事件(占領直後の横浜などで米兵による強姦・強盗事件などが多発していた)を覆い隠すための報道ではないか、と疑問を呈したこと。これらが「真実に反し公安を害する」「連合国に対する虚偽または破壊的批判」と判断されたのである。これは朝日だけでなく、当時占領軍にとって都合が悪い事実も報道していた日本のすべてのメディアに対する見せしめ効果を狙ったものであるが、「お上によって配給された自由」の本質をよく示している。


  この効果はてきめんで、日本の新聞はこぞって新権力者の前にひれ伏した。とくに十月八日に記事の事前検閲制が実施されると、新聞は進んで社内の情報を提供しGHQにすり寄って、発禁処分を免れることに汲々としたのである。志那事変以降軍部にすり寄って戦争遂行に協力していた朝日は、その後CIEから、占領政策に協力的なリベラルな(左巻きの)模範的新聞という評価を受けている。戦後の日本を「第二の開国」と礼賛している日本人の中に、こんな事実を知っている者が果たして何人いるだろうか。