原発と原爆は「絶対悪」であるか?-岡本教授の時論・激論

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海南タイムズ  平成23年5月


原発と原爆は「絶対悪」であるか?


大阪国際大学名誉教授    岡本幸治


  三・一一大震災のマスメディア報道は、福島原発がらみが最近にわかに多くなってきた。これまで原発反対を唱えてきたのは左捲きグループに多かったが、私に送られてきた情報メールで興味を引かれたのは、保守派で人気のある竹田恒泰氏が、「原発絶対悪」論を展開しているというお話である。講演を聞いた者が彼を「反原発原理主義者」と批判したのに対して、竹田氏がメールでこんな反論をしている。


  「本当はなくしたいけど、なくせないから原発を推進するという考え方を<必要悪>。一方、いかなる理由があろうとも、一定の確率で労働者が死亡することを前提とする産業で  しかも神の土地を汚す可能性あるものは運用してはいけないという考えを<絶対悪>と呼んだのです。」「私が言う絶対悪とは、必要な理由があろうとも認めてはいけないもの、という意味です。」その例として彼は「皇統を断絶すること、伊勢の神宮を派客すること、意味なく人を殺すこと」なども例示している。


  <絶対悪>という日本語には、その存在自体が悪であり容認できぬものという強い意味合いがある。竹田氏は現在稼動して文明生活を支えている多くの原発を直ちに停止せよと言うほどに強い観念論者ではないので、彼の言う<絶対悪>とは結局のところ、<相対悪>の中で悪のレベルが高いもの、という程度に理解しておけばよいのであろう。「一定の確率で人が死ぬことが確実なもの」は、銃器、刀、飛行機、車、バイク、鉱山、海底油田の類から家庭ガス、石油コンロ、手術、「良薬」に至るまで、我々の身辺にはいろいろ転がっている。


  「観音頭を巡らせば即ち夜叉」。慈悲の化身である観音菩薩でも恐ろしい夜叉となる。文明社会とは、地球上のあらゆる存在の中で煩悩の突出して盛んな人間が便利快適を求めて築き上げた「煩悩社会の集約」であり、善と悪との大化合物なのだ。煩悩の程度が他の生物に近かった原始社会に戻ることがもはやできないとすれば、煩悩の伴侶である悪から完全に逃れる術はないだろう。悪に対しては悪によってしか身の安全を保てないことすら珍しくはないのが、浮世(憂き世)の現実なのだ。


  この点で、原発の兄弟である原爆の「絶対悪」論について考えてみることは無意味ではあるまい。最近元インド大使であった榎泰邦氏の『インドの時代』(出帆新社)を読んだ。そこでは「インドの核問題」を扱っている。彼は言う。広島と長崎の悲惨な被爆体験を持つ日本の国民は「原爆絶対悪」に立っており(そうかな?)、日本は国連総会でも九六年以来毎年非核提言を提出して多くの加盟国から賛成を得てきた(決議のみ!)。彼はそれを誇りとして、「核なき世界の実現」を悲願とする日本のあり方を肯定している。


  日本はインドに対し度々NPT(核不拡散条約)に入れと説得してきたが、今や核保有国として認知されているインドは、安保理常任理事国の核保有には手をつけないで、後発国だけの手を縛るような不公平条約に加盟する気はない。「絶対悪」であるはずの米国の核に依存しながらおのれの安全を確保しようとしている日本が、単独で自国の安全を確保しようと努めているインドを批判できるのか。「原爆絶対悪」の信者であるこの外交官は、これに対してまともな説得ができない。哀しいかな、「唯一の被爆国」を売物にしている「センチメンタル絶対悪」論の限界がここにある。