政治理念における「鹿鳴館型舶来性」の問題 - 岡本教授の時論・激論

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海南タイムズ  平成22年1月


政治理念における「鹿鳴館型舶来性」の問題


大阪国際大学名誉教授          岡本幸治


  新年を迎えた。目先の問題処理に追われている日常生活からしばし離れて、政治における理念の問題について考えてみたい。自民党は保守主義を理念とする保守党であるとされているが、永年政権の座にあって利権配分に勤しんでいるうちに、理念の問題はどこへやら、専ら利権「呆守党」になり下がって愛想を尽かされたというところがある。


  それに対して、政治にはそれを指導する新たな理念が必要だと主張して、高々と「友愛」を掲げて登場した鳩山民主党に、自民党にはない清新な期待が寄せられたのである。


  さてこの「友愛」は、フランス革命のスローガンであった「博愛」を言い換えたものだという。このスローガンのもとで革命政権によって愛用されたのが、実は政敵の大量処刑を効率化するギロチンという首切り包丁であったという話はさておくとしても、二十一世紀の日本の指導理念として十八世紀末の西洋の理念を拝借して得々としているという基本姿勢に、僕は現代政治家の理念的貧困を痛感している。


  戦後の日本は「第二次鹿鳴館時代」から始まったと言ってよろしかろう。


  明治の文明開化時代に花開いた「第一次鹿鳴館時代」においては、そのモデルは西欧であったが、第二次の敗戦後においては、理念の輸入先が米国とソ連に移動した。米国の自由(民主)主義、ソ連の社会(民主)主義がそれである。戦後の日本政治は長らく「保守対革新」の構図で説明されてきたが、政治理念に着目すれば、保守は米国モデル、革新はソ連モデルの輸入販売業者からなっていたと言えるのだ。二大政党の名前を見ると、今日でも「民主」の上に「自由」がつくかつかぬかの違いでしかないのは、甚だ示唆的である。


  ソ連モデルは二十世紀末に本家のソ連が崩壊して権威を失墜し、わが「革新」は社会主義の衣を捨てて「環境と平和」に衣替えをして生き残りを図っている。理念の冷戦は米国の圧勝に終わった。その後はグローバリゼーション(地球化)の名の下に米国型自由主義が地球を闊歩した。米国の一極支配は、政治のみならず理念の世界においても圧倒的なものとなったのだ。


  小泉自民党も嬉々としてそれに従った。ところがこの二年ばかりの間に世界が経験したのは、米国型自由主義の経済的表現である「ゼニコロガシ資本主義」には、大きな問題があるということだった。自由の空間が拡大すればするほど、人々は豊かになり幸福になるという米国式現代神話には、大きな限界のあることが露呈されたのである。


  以上の簡単な説明から学べることは何か。それは、舶来輸入の「鹿鳴館音頭」を踊っておれば、日本人も永遠にハッピーという近代的妄想から醒めよということだ。自国の政治理念を、欧米「先進国」のどこかから借用して間に合わせようという、主体性のない発想から脱却せよということだ。欧米の近代理念がそれぞれに問題点を抱えているということはすでに明らかになっている。鹿鳴館時代の遺物である「バナナ政党」(外は黄色だが中身は白い)に安住するな。キョロキョロと目を西に向け、舶来品を輸入して得意になるという生き方を卒業して、脚下照顧せよ。日本という国家の指導理念は、日本の豊かな伝統文化の中から抽出するという「創造的」作業に取り組みなされ。これは本来、呆守党から日本保守党に脱皮すべき、自民党の抱える根本課題なのである。