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> コラム > 伊原吉之助教授の読書室


伊原註:『関西師友』平成20年9月号掲載の「世界の話題」No226 です。

     「読書室」掲載に際して少し増補してあります。




   昭和天皇と廣田弘毅



      廣田弘毅の悲劇


  若い知友が「出てますよ」と知らせてくれたので、早速買って読みました。

  服部龍二『広田弘毅──「悲劇の宰相」の実像』

  (中公新書、2008.6.25 初版/7.15再版、 860円+税) です。

  著者は昭和43年 (1968年) 東京都生れ、京大法学部卒、神戸大学大学院で政治学博士取得。現在、中央大学綜合政策学部准教授。

  専攻=日本外交史・東アジア 国際政治史

  すでに著書が沢山ありますが、『幣原喜重郎と二十世紀の日本──外交と民主主義』 (有斐閣、2006年) があり、何れ読みたいと思います。


  私の廣田評は、近衞文麿と並ぶ「支那事変を泥沼化した責任者」です。


  廣田弘毅に関してよく読まれたのは、下記の二冊です。


  城山三郎『落日燃ゆ』 (新潮社、昭和49.1.20/2.28二刷) 850円

  北川晃二『黙してゆかむ──広田弘毅の生涯』 (講談社、1975.4.25) 1100円         

  北川著の帯には「軍閥に抗した悲劇の宰相」とあります。

  廣田弘毅は軍閥に抵抗などしていない。少なくとも甚だ弱い。

  この二冊とも、廣田弘毅評価では偏った著作です。

  問題點(石射猪太郎が『外交官の一生』で書いた問題點、軍部に妥協的で殆ど抵抗しなかった點)を素通りしているからです。


  戦後、廣田の知友、特に外務省関係者が總力を舉げてまとめた『広田弘毅』 (広田弘毅伝記刊行会、昭和41.12.1) 2000円、は資料が多く、バランスのとれた良書です。


  因みに、廣田弘毅の生涯前半を見る上で、長谷川 峻『山座圓次郎──大陸外交の先駆──』 (時事新書、昭和42.6.1,250円) は必読文献です。明治人は、心身をすり減らして国家に献身したことがよく判る本です。

  山座圓次郎がもう少し長生きして、昭和の初めまで外交官で居たら、日本ももう少し安泰であったものを!


  ところで、廣田弘毅の最大の問題點は、先に触れたように、生涯前半の有能で毅然とした外交官の姿と、外相・首相(つまり政治家)になってからの沈黙勝ちで流れに身をまかす無抵抗な生き方が、「これが同じ人物か」と訝しくなるほど違って見えることです。


  その辺をどう評価しているか、と興味を持って読みました。


      廣田首相の要請


  廣田内閣は、二二六事件の後始末内閣です。

  元老西園寺公望が強く推した近衞文麿は、大命降下を押返して辞退します。

  そこでお鉢が廣田弘毅に回ってきたのです。


  本書で重大な発見をしました。


  六月号の「世界の話題」で私は、昭和天皇の議会開院式(5月4日)の勅語に「朕ガ憾ミトスル所ナリ」というお言葉があり、橋本徹馬が「朕の不徳」と仰せらるべきであった、こんな原案を作った輔弼の臣がいけないと批判したことを書きました。


  本書は、このお言葉が廣田首相の強い懇請による、と書きます。

  廣田自身が東京裁判の尋問調書でそう述べているのです。


      天皇に強く要請した


  原田日記にもその旨の記述があるという著者の指摘に従って『西園寺公と政局(五)』 (岩波書店、昭和26.9.5第一刷/昭和42.11.30第二刷) を見ると、63頁にこうありました。

  開院式直前の4月30日の朝、原田熊雄が会った時の廣田総理の言葉です。


  「陛下は二二六事件について『自分の不徳の致すところだ』と仰りたいお氣持だ。

  「政府はさう言つて戴きたくないのだが、陛下はどうしてもさう仰らないと氣がお濟みにならんといふ御樣子が見える」


  さらに、甘露寺受長『天皇さま』 (講談社、1975年) 198-199 頁にも、次の記述があります (私は未見。筒井清忠『二・二六事件とその時代』ちくま学芸文庫、2006.10.10,284頁参照) 。

  二二六事件の第一報は午前5:40 甘露寺侍従より伝わったのですが、そのとき昭和天皇はこう呟かれたそうです。


  「とうとうやったか──」……「まったくわたしの不徳の致すところだ──」


  さて、元へ戻って──


  廣田首相は、粛軍をやり易くするため、二二六事件を非とする強いお言葉が入るよう「懇願」して入れて戴いたのです。


  二二六事件のとき、内大臣秘書官長として只一人天皇に勧告する立場に立った木戸幸一が忠臣を逆賊にする一方的鎮圧を進言したこと (七月号) 。


  なお、ここで木戸幸一が鎮圧を進言した証拠を挙げておきます。

  『木戸幸一關係文書』 (東京大学出版会、1966.11.30) 106頁


  之より先、私は二十六日の朝、湯淺宮内大臣、廣幡侍從次長と最初に善後處理について會合したる際に、「此際最も大事なことは全力を反乱軍の鎮圧に集中することである。内閣は責任を感じて辞職を願出で來ると思はれるが、若し之を容れて後継内閣の組織に着手することとなれば、反乱軍の首脳はもとより、反乱軍に同情する軍部内の分子は之を取引の具に供し、實質的には反乱軍の成功に歸することとなると思ふ。であるから此際は陛下より反乱軍を速に鎮定せよとの御諚を下されて、此一本で事態を収拾すべきであり、時局収拾の爲めの暫定内閣と云ふ構想には絶対に御同意なき様に願ひ度い」と意見を開陳した。兩氏も之には全く同感で、宮内大臣より陛下に言上したところ、陛下の御考へも全く同じであつたので、此事を後刻宮内大臣より聴いて安心した。


  この決定を、筒井清忠は「昭和史の分岐点を劃する決定的な政治行動」と讃えています (上掲『二・二六事件とその時代』 284頁) 。


  宮廷が木戸幸一の「叛乱軍鎮圧路線」で固まったことを受けて、廣田弘毅が「粛軍」推進のため、一方的鎮圧を合理化する「お言葉」を勅語に入れて戴くよう要請して、軍部独走に道を開くこと。


  この分裂路線が結局、米英相手の戦争に突入させ、敗戦に到ること。


  この線を辿ると、昭和の敗戦の責任は、木戸幸一と廣田弘毅の二人に重くかかってくることになります。


      陸軍には抵抗不能か?


  さて、最初の疑問、有能な外交官が後半生、軍部の横車に流され、無気力な人間になった……ように見える點の解明です。


  著者も、後半生の廣田に「もどかしさ」を感じます。

  改善のため何か企てても、ちょっと抵抗されるとすぐ引っ込むからです。

  廣田のこの消極的行動は、組閣に始まります。

  吉田茂を参謀役に組閣を始めた廣田は、二日間で組閣を終えますが、寺内壽一陸相から横やりが入ります。

  牧野伸顯の女婿吉田茂・自由主義の急先鋒朝日新聞社の副社長下村宏・軍需産業により巨利を得て政党を支援する中島知久平らは排除せよ、政党政治家を減らせ、等々。

  その後、何度も横槍が入ります。


  最後に、藤沼庄平書記官長が明日の新聞に「組閣遂に成らず、軍部、組閣を阻止」と発表する、と寺内陸相に通告し、やっと鉾を収めさせて組閣に漕ぎつけます。


  この、出発點に於ける陸軍に対する妥協的態度が、首相になってからも廣田弘毅につきまとうのです。

  廣田自身は、軍部が独断専行している間は、「成行に任すほかない」と言います (刊行会『広田弘毅』 319頁) 。


  服部龍二は、『広田弘毅』の「あとがき」に曰く、


  廣田は「軍部に抵抗する姿勢が弱く、部下の掌握もできずにおり、そしてポピュリズムに流されがちであった」「肝腎なところで熱意を失いがち」と。

  なぜそうだったかは、彼は書いていません。


  これに対する最も妥当な釈明は、刊行会の伝記作成に参与した守島伍郎さんの言葉でしょう (刊行会『広田弘毅』 642頁) 。


  曰く、軍部に正面から反対すると、解任か暗殺で排除される。

  苦しくとも職に留まり、妥協しつつ抑制し善導して行くしか道はなかったと。


  そうなると、問題の根源は、「軍部が横やりを入れる事態」がなぜ生じたか、です。

  軍部が権力を握ったあとの反対や抵抗は、二の次の問題だからです。


  かくて再び「大正の間違い、昭和を殺す」という「昭和史の流れ」の探求に戻ります。

(08.8.8/9.8増補)