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紹 介:


     二二六事件:青年將校の意識と心理



須崎愼一『二・二六事件──青年將校の意識と心理──』

(吉川弘文館、2003.10.10第一刷/2004.5.1第三刷) 2800円+税


  著者は 1946年東京生れ。私より16歳若い人です。一橋大学社会学研究科博士課程を終え、文学博士號を持ち、神戸大学国際文化学部で教えています。


  『二・二六事件』 (岩波書店、岩波ブックレット、1988年)、『日本ファシズムとその時代──天皇制・軍部・戦争・民衆──』 (大月書店、1998年) などの著書があります。


  私は、昭和十年代の日本を「ファシズム」と規定する学者を信じないのですが、本書は面白かった。紹介に値します。


  日本は「ファシズム」ではなかった:

  ファシズムは「指導者」と「運動」が不可欠です。日本には、「指導者」も「運動」もなかったから、日本を「ファシズム」という人を信用しないのです。


  もう一つ、オーガンスキーの『政治発展の諸段階』(福村出版)の影響もあります。

  彼は、ファシズムとナチズムを、經濟発展段階の差と、そこから生ずる課題の差で区別します。


  ナチズム=高度工業社会運営の行詰りに対応した独裁。従って課題は国民福祉であって、工業化ではない。

  因みに、私は ヒトラーの 治世12年を平和期 の 6年と戦争期 の 6年に分け、前半 6年でドイツは世界初の福祉国家になったと考えます。但しヒトラー の 統治構想の中に、内= ユダヤ人排撃・外=東方 (ポーランド・ソ連) の領土征服という対立抗争要因を含んでいたので、戦争とその拡大により自滅しました。


  ファシズム=一段階下の農業社会の工業化を課題とする国で生ずる独裁現象。伝統的農業従事者群の勢力が強く、そこから抵抗を受けて工業化がもたつく隙間に、調停者の形で独裁者が登場する「もたつきの政治」です。

  經濟発展が停滞し、膠着状態の下で生れるので、独裁ではあるが、行使できる権力は極めて限られている。つまり、「有効な施策を打ち出してほしいという願望から登場するが、もたつき現象の産物なので、有効な対策は打ち出せず、政治は停滞するのです。

  発生するのは中進国の イタリア (ムッソリーニ)・スペイン (フランコ)・中南米(アルゼンチン の ペロン etc.)など。


  日本は違います。日本に、工業化に抵抗する根強い伝統的農業従事者群は存在しませんから。

  そして日本の工業化のもたつきは、「農業従事者の工業化への抵抗」ではなく、資源不足と貿易戦争での先進諸国の圧迫が原因です。特に、世界大不況後の「持てる国」の「持たざる国」への圧迫が酷かった (cf.池田美智子『対日経済封鎖──日本を追いつめた12年』日本経済新聞社、1992.3.25)。そういう先人の苦労を知りもせず、「日本は侵略した」と先人を罵る「不肖の子孫」が多いのが、戦後日本の実情です。


  さて、本題に戻って──


  須崎さんの『日本ファシズムとその時代』は未読なので、彼の「日本ファシズム論」の評価は、それを読んでからのことにします。

  ともかく、本書は優れた研究書です。読むに値します。


  本書の特徴は、二二六事件を起こした青年將校の「意識と心理」を「二二六事件裁判記録」 (東京地検記録課で限定公開)を中心に、彼らの証言・手記を元に探っていることです。


  彼らの証言を読むと、彼らの思想が「バラバラ」なことが判る。

  通説「陸軍部内での皇道派と統制派の派閥闘争」が間違いと判るのです。


  別の通説、「北一輝・西田貢の思想的影響を受けた青年將校による蹶起」でもない。

  蹶起趣意書の起草者であり、蹶起の中心人物であった野中四郎大尉は、西田貢にとって「一面識もない」人物でした。


  ところで、私からの注意:

  証言も手記も日記もすべて「人の記録」です。これは慎重な檢討 (クリティーク) が必要です。記憶違いもあれば、意図的なはぐらかし発言もあり、引用は慎重を期す必要があります。

  二二六事件関係者の一人、大藏榮一は、著書『二・二六事件への挽歌』 (読売新聞社、昭和46.3.10) 280頁でこう言います。


  近頃、多くの人たちがこの事件につき執筆し、その著書がよく目につくが、内容に我慢ならぬ間違いを犯しているものが多い。問題は遺書や公判記録、または憲兵隊・警視庁などの調書、其の他第三者の手記を引用する時の引用の仕方である。私にも経験があるが、取調べを受ける場合、周囲の諸状況を考えながら嘘を言ったりぼかしたりすることが多いので、その字句をそのまま判断すると、とんでもない誤った結果を招來するのである。


  須崎さんの引用の仕方には、大筋で問題はないようですが、この引用問題はかなり慎重な處理を要する大事な問題だと、念を押しておきます。


  さて、本書は四つの区分けから成ります。


  第一、青年將校運動とは何だったのか

  第二、青年將校はなぜ決起したのか

  第三、二・二六事勃発

  第四、「解決」へのプロセス


  須崎さんは、最初に「青年將校たちはなぜ維新を考えたか」と問います。

  私は、「軍縮と大正デモクラシーと、米騒動に発する庶民の生活苦の軍隊への跳ね返り」と考えておりますが、須崎さんは、契機を四つ並べます。


  1)陸軍及び士官学校内の腐った空気への反撥

  2)対外的危機意識 (米国・ソ連)

  3)庶民の窮状への反撥と、共産主義への脅威感

  4)時流──政党政治・金権的風潮・日本人の在り方──への反感


  この 4契機につき、個々人の場合を証言をもとに検証して行きます。


  青年將校運動の発足は、昭和六年、1931.8.26 の日本青年館での会合、と特定されています。

  三月事件と、滿洲事変・十月事件の間です。


  運動出発の最大の條件:

  同年12月の犬養毅内閣の発足に伴い、荒木貞夫陸相が誕生したこと。

  菅波三郎は、昭和維新 (國體顯現運動としての青年將校運動) が「明朗なる展開前進を開始したり」として、青年將校運動の スローガンを 3つ併記します。


  「至誠上長を説け」

  「上下一貫左右一体」

  「荒木陸相の支持推進」


  ──団結して上長を盛立てよう、との呼び掛けです。


  陸軍はこうして鎭静しますが、海軍青年將校と血盟団の井上日召が収まらず、直接行動に訴えます。二月に井上準之助 (前藏相・民政党) 暗殺、三月に團琢磨 (三井合名理事長) 暗殺、五月に五一五事件 (犬養首相暗殺) 。

  五一五事件により、憲政常道 (国会多数派による組閣) が崩れ、海軍青年將校運動も壊滅します。


  この時期、陸軍の青年將校運動は、「軍上層部を鞭撻推進して国論を維新に導く」ことと、「青年將校の啓蒙を通じて下士官・兵を啓蒙する」ことに徹します。静かなのです。

  「特権階級打倒の直接行動」は 「時機が熟するまで棚上げ」です。


  軍上層は、機密費から運動資金を與えて育成します。

  理由=青年將校運動は、「他の政治勢力に対して陸軍の言い分を通す『抜かぬ宝刀』として役立つ」からです。

  だから、陸軍中央は、青年將校を人事上でも優遇しました。

  運動する青年將校を遠くに異動させない「配慮」をするのです。


  この關係が崩れ、機密費の提供・人事の優遇が外され、運動の弾圧に向かうとき、青年將校は直接行動に走ります。


  結局は、予算分捕り合戦:

  須崎さんは、昭和維新とか國體の顯現とかいうが、結局は「兵器の充実」「軍事費の増額」が陸 軍中央・青年將校を通じての主要要求だった、といいます。

  「二二六事件の最大原因は、軍事費増大要求であったと言える」と。

  だから軍部予算を抑えた高橋是清藏相が惨殺されるのです。


  軍上層と青年將校の蜜月時代が去り、青年將校運動弾圧に向うのは、下記の人事異動のあとです。

  昭和九年、1934.1. の 陸軍大臣の交代 (荒木貞夫→林銑十郎)

  それに伴う同年3.の 陸軍省軍務局長の交代 (山岡重厚→永田鐵山)


  軍中央の方針転換:


  舊方針:

  青年將校運動を優遇育成して他の政治勢力に対する陸軍の「抜かざる寶刀」として利用しようとした荒木時代の遣り方


  新方針:

  青年將校運動という不正規な運動を「統制」し、軍の正規の統制下に入れて、軍中央 (省部の幕僚) 中心に陸軍の主張を認めさせて行く方向に転換した、のです。


  1934.11.に発生する11月事件 (士官学校事件) は、その転換點です。

  片倉衷少佐 (参謀本部員) と辻政信大尉 (陸士本科生徒隊中隊長) が、士官候補生を使って スパイ行為をさせ、村中孝次・磯部淺一・片岡太郎らを逮捕・免官する事件です。


  昭和十年、1935.7.16には、眞崎甚三郎教育總監が罷免されます。

  折からの天皇機関説問題に関して35.4.6,「國體明徴の訓示」を陸軍に通達したことが、一木喜徳郎宮内大臣追落しを狙った政治的動きと受取られ、天皇周辺の反撥を呼んだための罷免です。

  反撥する青年將校は、この罷免を「統帥権干犯」だとして猛反撃します。


  眞崎罷免直後の 8.12, 相澤三郎中佐が白昼、陸軍省軍務局長室で永田鐵山を斬殺します。

  この相澤公判で公判闘争・秘密文書の配布が、所謂「統制派」対「皇道派」の対立として喧伝されます。


  そして、第一師団の滿洲派遣の内命です。

  滿洲派遣は、青年將校の戦死の機会が多いものでした。

  第一、匪賊 (抗日ゲリラ) 討伐で死ぬ。

  第二、五ヶ年計画による武装充実著しいソ連軍との軍事衝突で死ぬ。

  第三、部下の下士官に後から撃たれて死ぬ。


  同志將校にも解せなかった「蹶起時期」:

  大藏榮一は戦後の昭和24年、大岸頼好と会って、二人で「なぜ、あの時期にやったか、どうしても納得できない」と言って二人でああでもない、こうでもないと論議しています (大藏榮一『二・二六事件への挽歌』292頁)。

  大藏が 2ヶ月前まで東京に居た時まで、運動を相澤公判闘争に集中することで意見が一致していました。

  それに、「慎重であった村中・安藤・香田らが、どう判断して決行に踏切ったのか。第一師団の滿洲派遣が近づきつつあったことが理由らしいが、それにしても……」と考えあぐねたのです。

  しかし、やはり「滿洲派遣」が強いきっかけになったようです。

  「どうせ死ぬなら、内地で國家革新運動をやった方が遥かに有意義だ」 (栗原安秀中尉)


  そして、恰好の目標を、高橋是清藏相が與えていました。

  昭和十年、1935.11.26、閣議での発言でこう言って軍部予算を抑えます。


  日本は天然資源尠く、國力豊かならざる國だから、予算も國力に応じたものをつくらねばならぬ。世界を見渡して日本を後援する國がどこにあるか。予算は國民の所得に応じたものをつくらぬと、いざ鎌倉という時、敵國に対し、十分な応戦が出來ぬ。内地の國情を見るに、實に氣の毒な人もあり、年々の災害によって民は痛められ社会政策上考慮すべき問題が多々ある。若しこれ以上軍部が無理押しすれば遂には國民の信を失うこととなるのではないか。最後に陸海軍に各々一千万円づつの復活要求を認めるが、これ以上はとても承認する訳に行かぬ。


  青年將校は、高橋藏相の発言を目の敵にします。

  「私達の維新完成を常に妨げてきた既成勢力」 (香田清貞)

  「軍部が多額の予算を獲得すれば國民の怨府となるだろうと放言し、軍民離間を企て……」 (磯部淺一)

  「皇軍に対する財閥・政党等の反撃」 (栗原安秀)


  須崎さん曰く、「栗原手記の線で二二六事件を定義すれば」──


  高橋発言をきっかけに、「上長を推戴して維新へ」を基本スタンスとする青年將校運動が、「君側の元老重臣ブロック」を何とかせねばどうにもならぬという軍上層部の「意」を受け、このままでは「日本の將來危うしと信じ」て起こした事件。


  私がもう一言付け加えると──


  事件を起こせば上層部が受止めてくれるという感触を得て起こした事件。


  この「感触」があったから、事件を起こしただけで、その後始末を自分らでせず、ひたすら上層部の善處を「待った」のです。


  因みに、永田軍務局長暗殺後、軍務局長は今井清に代り、陸相も林銑十郎から川島義之に代ります。

  川島陸相は、昭和11年、1936.1.15 陸相官邸を訪れた磯部淺一と 3時間も懇談するほど、永田時代の締付けと異なり、荒木時代に近い上下の意思疏通が出來るようになって居ました。

  だから、青年將校の軍上層部突上げが可能になり、青年將校の期待も膨らみました。


  そして、 二二六事件蹶起の直前、青年將校の打診に、軍上層部は「蹶起したら応えてくれそうだ」という手応えを得ていたのです。

  事実、事件突発直後、軍は「義軍」受入れに近い態勢を示しました。

  「永田事件」後、青年將校運動弾圧は止まっていたのです。

  二二六事件の青年將校は、軍中央のために蹶起したのであって、軍中央に歯向かうため蹶起したのではないのです。


  蹶起までに、もう一つ、重要な動きがあります。

  相澤公判が、青年將校運動に新規参入者を生んだことです。

  相澤公判が、「今まで憲兵隊などから マークされて居なかった青年將校を急激に過激化させた」からです。

  麻布區の龍土亭で開かれた「相澤中佐公判座談会」に出席した新顔の青年將校が「多数の同志の存在」を知って、士官学校以來教わってきた「皇軍ノ外敵内敵ヲ芟除スル義務」のうち、「内敵」の存在を強く意識するようになります。


  この新規参入組の突上げが野中四郎を動かし、野中が慎重だった安藤を突上げ、部隊を掌握する野中・安藤の二人の中隊長が、安藤が週番司令であった時に職権を利用して各自の部隊に動員をかけて二二六事件が発動した、ということです。


  蹶起集団は新舊 2グループの寄り合い所帯:

  だから、二二六事件に参加した青年將校は、二中心の楕円型構図だった、と須崎さんは言います。一中心は、滿洲事変前夜に集って運動を続けてきた青年將校。もう一中心は、第一師団の滿洲派遣・相澤公判をきっかけに野中四郎とその周辺に集まった新参の少尉級。

  須崎さんは、「舊來の運動に、相澤公判を機に新規参入者が現れ、運動が急激に活性化した」と書きます。


  二二六事件勃発の頗る重要な結集効果を、相澤公判が齎したのです。


  須崎さんが註記する、松本清張・藤井康榮編『二・二六事件=研究資料』III (文藝春秋、1993)は、二二六事件参加將校を以下のように區分しています。


  危険度第一級:栗原安秀・安藤輝三・香田清貞・丹生誠忠・坂井 直・對島勝雄

  危険度第二級:中島莞爾・竹島繼夫・河野 壽・中橋基明

  危険度第三級:林 八郎

  ノーチェック:田中 勝・安田 優・高橋太郎・池田俊彦・常盤 稔


  情勢の緊迫:

  民間では西田貢が、陸軍内では滿井佐吉中佐 (相澤公判の特別弁護人) や山口一太郎大尉が逸早く「直接行動の切迫」を感じ取っていました。

  滿井・山口はそれぞれ上司に訴えますが、上司は「聞き置く」だけです。

  官僚化した軍人の鈍感さ!

  獄中の相澤三郎まで気付いて、西田貢を澁谷の陸軍衛戍刑務所に呼び、「若い大切な人達が軽挙妄動する事のない様に、呉々も自重するように貴方から言うて貰いたい」と頼んでいるというのに!!


  須崎さんは、山下奉文少將を含む軍中央の人物が、例えば 1月末に滿井中佐から「午後 1時半より 5時頃迄切言」するのを聞き、 2月初には「旧部下」磯部の訪問を受けていることを指摘し、こう書きます。

  「彼ら軍中枢が青年將校の蹶起情報を掴んで、蹶起による現状変更を期待していた見込みは極めて高い」

  だから「阻止」には動かなかったのです。

  蹶起した青年將校は、軍中央との一体感の下で動いていたのです。「派閥対立」勘定で動いたのではありません。


  青年將校の蹶起目的:

  抽象的規定:昭和維新の實現・神國日本の國體の真姿顯現

  具体的には:

      1) 建設派 (坂井・高橋・磯部・丹生)=戒厳令施行→維新遂行可能な内閣の出現

         →「大権私議」の疑虞あり!

      2) 破壊派 (村中・栗原・對馬・安田) =元老重臣ブロックの粉砕・内敵の一掃

      3) 予算獲得派 (栗原・菅波・村中・安藤) =軍備増強・國威發揚

      4) 國民思想の一新 (對馬・坂井・安田)

  思考の順序:4)→3)→2)→1)


  纏め1):農村窮乏・社会大衆党の躍進に危機感を強めた青年將校が、軍備増強のため、それを阻む高橋財政・元老・重臣を打倒し、戒厳令を施行し、軍部に好都合な内閣を樹立する


  纏め2):行詰り打開=国民思想→国民生活→国防→政治→經濟


  青年將校の蹶起方法:

  蹶起 (直接行動) を「悪いこと」と考えていた者:清原康平少尉・丹生誠忠中尉・野中四郎大尉・常盤稔少尉ら。


  青年將校の多様性=彼らの中には、西田貢殺害を考える者まで居た (安田優・中島莞爾)

  青年將校の共通項=蹶起・斬奸/青年將校の動因=「時の勢い」


  蹶起:1400名余が出動。うち 1/3近い 422名が機関銃隊 (機関銃25/軽機関銃43)。「みどり筒」(毒ガス) も 相当数所持。


  要望事項:陸相に、1)事態収拾・皇軍相撃防止。2)人事要求 (逮捕・罷免・登用・東京招致)。3)戒厳令施行。4)昭和維新の大詔煥発。


政府方針:蹶起部隊を友軍と見做し、説得による帰隊へ (部隊の相撃回避)

  二つの流れ:

      1) 川島陸相・香椎浩平戒厳司令官・軍事参議官の線で事態収拾

      2) 参謀本部幕僚が「奉勅命令」起草→「叛乱部隊」武力鎮圧

  1)→2)に流れを変えたのが、「天皇の烈しい怒り」

  →軍部が、幕僚を中心に國家を牛耳る事態が出現!


  29日昼前、安藤輝三の告白「私達は間違って居りました。君側の奸を倒せば昭和維新が断行されると思って居りました處、國家を毒する者は重臣閣僚の中に居るのではなく、軍の幕僚軍閥にある事を知りました。吾々は重臣閣僚を倒す前に軍閥を倒さなければならなかったのです」


  29日、陛下:「今度の内閣の組織は中々難しいだらう、軍部の喜ぶ様なものでは財界が困るだらうし、そうかと云って財界許りも考へて居られないから」 (『木戸幸一日記 (上巻)』2.29付、p.469)

  →須崎さん曰く、「天皇が、事件前自ら抱いていた陸軍への不満を抑え、陸軍の言うことをある程度聴こうという姿勢を取り出した」

  青年將校運動は、陸軍の「抜かぬ寶刀」として、天皇・宮中、財界、既成政党に圧力をかける上で有効な武器であった。しかし 陸軍の主張が天皇らに認められるなら、青年將校運動の必要は弱まる。

  →軍が実権を握れるなら、青年將校運動は不要。

  ∴「叛乱者」として徹底処断へ

   「粛軍」により、軍中堅 (幕僚) が陸軍を背景に国家を牛耳る体制確立へ


  「抜かぬ刀の威力」 (西田貢) こそ、青年將校運動の本質。「狡兎死して走狗烹らる」!


  かくて、昭和十年代の日本は、中堅官僚が國家總動員体制 (統制経済)の名の下で好き勝手に振舞う「中堅官僚国家」になりました。

  官僚は、権限あって責任なしですから、自分が始めた支那事変 (伊原註:本当に「始めた」のは蒋介石ですが、日本はその罠に甘んじて嵌まって行きました) の後始末を自分でようつけず、どんどん深みにはまって世界中を相手に戦争する羽目になり、遂に大日本帝國を亡ぼしたのです。


  ところがそれに懲りもせず、戦後の「日本國」は、戦前に勝る官僚天国になって現在に到っています。

  いろんなことをやるが、誰も責任をとらぬ「中堅官僚が國家を牛耳る無責任体制」は、今なお続いて日本を半身不随にしています。

(平成20.8.31記)