木戸幸一の保身

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伊 原:以下は 『 関西師友 』 平成20年7月号に掲載した 「 世界の話題 」 224号の増補版です。




      木戸幸一の保身




      大正の間違い恐るべし


  岡田益吉の 『 昭和のまちがい──新聞記者の昭和史 』 ( 雪華社、昭和42.11.25 ) *を読んで以来、私は 「 大正の間違い、昭和を殺す 」 と考えてきました。


  *姉妹編に 『 軍閥と重臣 』 ( 読売新聞社、昭和50.12.10 ) あり。

  この両書は 『 危ない昭和史 ( 上下 ) 』 として光人社から昭和56.4.7に新版が出ている。


  元兇は、明治15年以降に生れた第二世代であり、大正デモクラシーと白樺派が象徴する人達です*。時代区分は、漢学教育抜きの世代とする関川夏央説に基きます ( 『 白樺たちの大正 』 文藝春秋、03年 ) 。


  *以下の拙稿を参照せよ。

    「 日本を亡ぼす戦後世代 」 ( 世界の話題97回 『 関西師友 』 平成 8年12月号 )

    「 昭和男の嘆き 」 ( 『 正論 』 平成17年 3月号 )


  学歴上は、帝大卒業生が首相や外相を務め出して以来です。江戸時代の教育が指導者教育だったのに対して、明治以降の教育は参謀教育・官僚教育でした ( 拙稿 「 指揮者と参謀 」 『 饗宴 』 第18号、昭和50年 3月、参照 ) 。以下、問題を起こした代表的人物 ( 生年〜歿年 ) を列挙します。


  加藤 高明 ( 万延元/1860 〜大正15/1926 )

  牧野 伸顯 ( 文久元/1861 〜昭和24/1949 )

  若槻禮次郎 ( 慶応2/1866 〜昭和24/1949 )

  濱口 雄幸 ( 明治3/1870 〜昭和6/1931 )

  幣原喜重郎 ( 明治5/1872 〜昭和26/1951 )

  廣田 弘毅 ( 明治11/1878 〜昭和23/1948 )

  木戸 幸一 ( 明治22/1889 〜昭和52/1977 )


      大日本帝国を滅亡に導いた指導者


  加藤高明=帝大第一回卒業生。外交に慎重な元老を軽視して徒に強気に走り、対外摩擦を起して日本の国益を害した第一号でもある。第一次大戦への軽率な参加の仕方が英国に日本を警戒させ、日本に余計な負担を強いて二十一箇條要求の無理を導いた。そしてドイツ利権の継承問題で無理をして中国の五四反日運動を惹起し、米中提携による日本挟打ちの契機を提供した。二十一箇條要求を出した1915年から日本が敗戦を迎える1945年までの30年間は 「 日本対米中 」 の 「 三十年戦争 」 とも言える。


  若槻禮次郎=帝大の最優秀卒業生。滿洲事変の予算を追認し、関東軍の獨断出兵・林銑十郎朝鮮軍司令官の獨断越境という統帥権干犯を認めた*。


  *なぜ滿洲事変が起きたかについては、幣原軟弱外交が中国問題を解決せず、逆に中国での英米との共闘を拒否し ( 昭和 2年/1927.3.北伐軍の南京入城に際し、英米から誘われたのに反撃に加わらず、日本だけ無抵抗に終始して却って中国側から徹底的に侮辱・凌辱・略奪を受けた事件を想起せよ ) 、国民党政権に日本をなめさせた上、中国で英米中を共闘させた重大失態あり。

  なお、滿洲事変前に滿洲でいかに日本の権益と日本人が迫害されたかについては、下記を参照。

  服部龍二編著 『 滿洲事変と重光駐華公使報告書──外務省記録 「 支那ノ対外政策関係雑纂 『 革命外交 』 」 に寄せて── 』 ( 日本図書センター、2002.10.25 )


  濱口雄幸=戦前平価での金解禁に固執し、日本に必要以上のデフレを強いて軍の政治関与を招いた。濱口自身は立派な人だが、間違った政策を 「 信念 」 を以て完遂されたのでは、被害者たる国民はたまったものではない。


  幣原喜重郎・廣田弘毅=共に対中宥和外交で中国に日本を軽視させ、却って日中衝突を導いた。

  廣田は支那事変で私案として寛大な講和を申し出て蔣介石に日本も苦しいと誤解させ、事変を泥沼化する契機を作った。

  廣田外交がいかに 「 駄目 」 だったかについては、下記の書物 287頁以下を参照せよ。

   別宮暖朗 『 失敗の中国近代史──阿片戦争から南京事件まで 』 ( 並木書房、2008.3.20 )


  牧野伸顯・木戸幸一=昭和天皇の輔弼を誤り、帝国崩壊を導いた。


      鳥居民の鋭い心理洞察


  以上のうち、今回は、最後の木戸幸一の輔弼失敗、それが近衞文麿を死に追いやる話に焦点を絞ります。参考文献は以下の通り。


  鳥居民 『 昭和二十年 』 ( 既刊11冊、草思社、1985.8.15 〜 )

  鳥居民 『 近衞文麿 「 黙 」 して死す──すりかえられた戦争責任 』 ( 草思社、2007.3.28 )

  鳥居民・谷沢永一 「 木戸幸一の戦争責任 」 ( 『 ヴォイス 』 07年9月号,118〜127頁 )

  工藤美代子 『 われ巣鴨に出頭せず──近衞文麿と天皇 』 ( 日経新聞社、2006.7.24 )


  鳥居民は昭和4年/1929 生れの現代史研究家です。克明に文献を読み、鋭い洞察をする人ですけれども、学者は無視します。学者は学界外の人の見解には耳を傾けませんし、何より、心理の読取りが得意な鳥居民は、論理一点張りの学者には理解を絶するのです。

  米国でもフロイトの名著 『 ウッドロー・ウィルソン 』 ( 岸田秀訳、紀伊国屋書店、1969.12.25 ) が米国歴史学界から総スカンに遭いました。私はフロイトのこの本を読まずしてウィルソン理解は行き届かないと思いますが、日本のウィルソン研究者は米国の学者を受け売りしてフロイトの著書は問題あり、参考にならぬとしています。


      内大臣の輔弼失敗


 内大臣 ( 内府 ) とは、天皇の身近に居て 「 御璽・国璽を保管 」 し 「 常侍輔弼 」 をする人です。

 つまり、天皇のお傍で仕える御相談役です。


  牧野伸顯 大正10 ( 1921 ) . 2.19〜 大正14 ( 1925 ) . 3.30 宮内大臣

   大正14 ( 1925 ) . 3.30〜 昭和10 ( 1935 ) .12.26 内大臣

  木戸幸一 昭和 5 ( 1930 ) .10.28〜 昭和11 ( 1936 ) . 6.13 内大臣秘書官長 →宗秩寮総裁専任へ

  昭和15 ( 1940 ) . 6. 1〜 昭和20 ( 1945 ) .11.24 内大臣


  父君大正天皇の御病弱のため政務執行を見習えず、若くして攝政になられた昭和天皇を輔弼した牧野伸顯は、自分の民政党好み・政友会嫌いを未熟な天皇に刷込み、田中義一首相更迭・ロンドン海軍軍縮条約での海軍の内輪揉めを挑発するなど輔弼の失敗を重ね、昭和動乱の端緒を開きました。

  牧野伸顯の輔弼失敗については、伊藤之雄 『 昭和天皇と立憲君主制の崩壊──睦仁・嘉仁から裕仁へ 』 ( 名古屋大学出版会、2005.5.10 )  第I部第二章以下が詳しい。


  木戸幸一も二度、輔弼の大失敗をやります。


  第一、昭和11年、内大臣秘書官長として二二六事件に際してただ一人天皇に勧告する立場に立った時、忠臣を逆賊にする一方的鎮圧を進言しました。

  この結果、鎮圧派の杉山元・梅津美治郎が浮上して陸相・次官となり*、皇道派が恐れた支那事変に介入したばかりか、深入りして長期化します。

 皇道派はソ連に備えるため、中国との戦争を忌避していたのです。


   *二二六事件勃発に際して陸軍首脳が軒並、共感を示したり様子見に終始したりする中で、師団長中ただ一人鎮圧を明示したのが仙台の第二師団長梅津美治郎であり、中央機関では参謀次長の杉山元でした。だからその後の 「 粛軍 」 で指導的地位についたのです。

    二人の転職経歴を正確にいうと、こうです。梅津は昭和11年 3月23日から廣田内閣・林内閣・第一次近衞内閣を通じてずっと陸軍次官ですが、杉山元は昭和11年 8月 1日に教育総監になり、昭和12年 2月 9日、林内閣の途中で陸相になります。かくて杉山陸相・梅津次官の コンビで支那事変を迎えます。


 実は支那事変は徹頭徹尾、ソ連・コミンテルンの支援を得た支那側が日本軍弱しと誤認し、日本軍を挑発して始めた戦争でしたが、日本側は度重なる挑発に怒っていましたから一撃論で応じ、深入りして行くのです ( 当時、日本はシナと戦う用意はありませんでした ) 。


      近衞文麿を殺した木戸


 第二、昭和16年 ( 1941 ) 10月、木戸幸一は、近衞首相の対米開戦回避努力を阻止して東條英機と組み、天皇を対米開戦路線に乗せます。


 対米戦を避けるには、佛印からの撤兵だけでなく、中国撤兵が不可欠でした。近衞文麿は東條英機陸相に何度も中国撤兵を迫り、最後は天皇の御命令を要請してでも陸軍に撤兵さすつもりでした。


  ところが、木戸幸一には、中国からの撤兵を昭和天皇に提言できない理由がありました。


  撤兵すると、支那事変拡大の責任が問われます。

  一撃で済む筈の戦いを支那全土に拡げ、泥沼戦争にして収拾をつかなくさせた陸軍統制派の責任が問われるであろう。

  そうすると、皇道派を鎮圧した二二六事件処理が問題化し、蹶起した青年將校の全面鎮圧を提言した自分の責任が問われることになる筈だ。


  こう考えた木戸幸一は、近衞首相の対米戦争回避策を徹底的に妨害します。

  昭和天皇にも会わせず、孤立無援にした上、対米戦に行き着く筈の東條英機陸相を次期首相に奏請して天皇を取込み、日米戦争に持込んだのです。


  何とかなると見込んだ対米戦が何ともならぬと判って、木戸は、敗戦を予期していた近衞が降伏を画策するのを見て、近衞を徹底的に憎みます。

  上記のように、対米開戦に踏み切った自分の身に危険が及ぶからです。

  彼は保身策を必死で考えます。


  そして戦後、自分の対米開戦責任を消すため、ハーバート・ノーマン及び親戚の都留重人 ( 二人とも共産主義者で日本の国体破壊を目論んでいた ) と組んで、対米開戦責任を近衞に押付ける 「 木戸・ノーマン史観 」 をでっちあげます。

  ( 東京裁判に提出した 『 木戸日記 』 は、都留重人と相談して都合の悪い部分を塗りつぶした日記でした )


  その史観とは、昭和16年9月6日の御前会議こそ対米開戦を決めた会議であって、決めた時の首相近衞文麿こそ、対米開戦の責任者だ、というものです。私、木戸幸一こそ、東條英機陸相を後継首相に選び、9月6日の対米開戦決定を白紙に戻させ、対米開戦回避の最後の努力をした平和論者だった、と大化けするのです。対米非戦論者の近衞を開戦論者に、開戦論者の自分を平和論者に見せかける歴史の偽造です。そして今なお多くの学者がこの説を信じています。


  明治・大正・昭和と三代続く間に、日本は俗物がのさばる三流国に堕していたのです。


  二二六事件が 「 君側の奸 」 排除を狙ったのは実に正しい。君側に奸物が居たのですから。

  但し、昭和の日本の悲しいところは、君側の奸を排除したあとを埋める 「 將に將たる指導者 」 が殆ど育っていなかったことです。

  明治以来、指導者教育を怠り、賢しらげな参謀を育てる教育しかして来なかった報いです。


 近衞文麿は、親友の筈だった木戸幸一が、自分を死ぬほかない窮地に追い込んだことを悟ります。

  なぜなら、近衞文麿が巣鴨に出頭し、法廷で弁明すると、近衞が対米戦の回避を図ったにも拘らず、木戸幸一が東條英機と結託して対米戦争路線を採り、天皇に 「 開戦やむなし 」 と思わせて戦争になった経緯を証言せねばなりません。

  そうなると昭和天皇に戦争責任が及びかねませんから、昭和天皇を守るには、近衞文麿は黙って死ぬほかなくなったのです。


  工藤美代子は、近衞文麿の潔さを称えます ( 430頁 ) 。

  「 近衞は東條や木戸に対し、一言たりとも彼らに不利な発言などしなかった……。

  「 男らしく、貴族の生れらしく、誇りを捨てずに潔く全責任だけを負って、それが運命であるかのように天皇の御楯として命を絶った 」


 昭和天皇は昭和46年、伊勢神宮に参拝された際にこう詠んでおられます。


  戰 ( たたかひ ) をとどめえざりしくちをしさななそじになるいまもなほおもふ


 天皇や米占領軍を抱込んで保身工作をし、歴史を改竄して近衞文麿を死に追いやった木戸幸一こそ、対米戦争を始め、国民に塗炭の苦しみをなめさせ、日本を焦土とし、大日本帝国を亡国に導いた第一の責任者です。

( 08.6.7/6.9加筆 )