> コラム > 伊原吉之助教授の読書室
伊原注:下記は、劇団四季の機関誌『ラ・アルプ』6月号に掲載した文章です。
読書室掲載に際し、少し増補しました。
ウェストサイド物語の魅力
劇団四季の「ウェストサイド物語」を観た。心の底から感動した。
だから知友に「ぜひ観るように」と勧めまくった。
その魅力はいくつもある。
第一の魅力──ダンス、それも群舞の魅力。
宮廷と豪商向けだった歌劇(歌+芝居)やその軽便版である喜歌劇(歌+芝居+挿入の舞踏)を、資本主義の発達と共に成長した中産階級以下の民衆のものにしたのがミュージカル (歌+芝居+舞踏の三位一体) である。
その中でも舞踏、それも群舞を主役にしたミュージカルが、正にこのウェストサイド物語である。
四季は、日本人の肉体の限度ぎりぎりに迫る特訓を続けたと聞く。
(プログラムにそう書いてあるし、当日開催されたパーティに出てきた出演者も、「舞台でこそにこやかな顔をしていますが、引上げてくるとふらふらで、水を呑んで辛うじて次の出演に備えます」と言っていた)
群舞の見事さこそ、ウェストサイド物語の魅力の筆頭である。
第二の魅力──歌。独唱も、合唱も。
歌は、歌詞と曲が相乗効果で魅力を発揮する。
そしてミュージカルの場合、独唱も合唱も含めて「掛け合い」の妙が問われる。
私は一合唱団員であるが、アマチュア合唱団員は、音楽会ではひたすら楽譜に頼って歌う。
練習を重ねて声を一つに合わせて行くのだけれども、楽譜なしにはとても歌えない。
ミュージカルを観る度に、演員の歌の掌握度の高さに感嘆するほかない。
第三の魅力──悲恋を含む疎外された移民の少年少女の気持ちの揺れ。
ロミオとジュリエット以来の禁断の恋が主題であるが、青春前期の少年少女たちの不安定な気分の葛藤がひしひしと伝わってくる。不良少年グループの喧嘩沙汰を主題にしつつ、大人になる直前の彼らの人生への取っ組みようがすけて見える。
そしてその彼らの思いの結晶が "Tonight" (今夜こそ) という主題歌となって全編を通じて流れる。
ホセ・カレラスに「一度歌ってみたかった」と言わせた名曲である。
一度聴いたら、直ぐ口ずさみたくなる印象的なメロディー。
ウェストサイド物語は1961年に映画化されて世界中にその魅力を伝えた。
だが残念ながら、私は映画を見ていない。台湾でDVDを見つけて買って帰ったが、これがどういう訳か、うまく映らない。
ところが極く最近、 You Tube で検索すると、この映画のいくつかの場面が見られることを発見した。
(この文章を書いたあとで、知人からDVDを借りて全部観ました)
映画は映画で、素晴らしい。
プエルト・リコの少女グループが歌う「アメーリカ」を聴いて、成るほど、プエルト・リコ訛りの英語って、こんなものかと悟った。
劇団四季の「ウェストサイド物語」は完璧に各場面を演じていたが、さすがにプエルト・リコ訛りまでは演じていなかった。
ところで、劇団四季の「ウェストサイド物語」は、結局のところ、アメリカ版の二番煎じなのか?
ちがう、やはり「本物」なのだ。
それは、生身の人間が演じている、一回一回が「本番」である「本物」なのだ。
映画やテレビと、舞台の公演の違いがここにある。
舞台の公演は、生身の人間同士の応答である。毎回が、真剣勝負なのである。演員同士の、また演員と観客との間の火花を散らす遣り取りである。
私の友人の映画好きがいう、「僕は映画館でしか映画を見ない。テレビでは見ない。テレビと映画館では、迫力が全然違うから」
映画でさえ、テレビ画面で観るのと、映画館の大型画面で観るのとで違うのなら、生身の人間が一回一回気合を込めて演ずる舞台は、もっと違う筈ではないか。
劇団四季が日本各地で長期公演をして「本物」を連日提供し続けていること。
仮想現実だらけの現代に於て、生身の本物に多くの観衆を動員していること。
これぞ、日本文化に対する大貢献である。
私は「劇団四季」と同時代に生まれ合わせた幸せを、肝に銘じている。
(戦後、近所の友とレコードコンサートをやって「本物の音楽」に対する飢えを満たしていた頃のことを考えると、音楽会だらけの昨今は、正に「今昔の感」に耐えません。今の世の中に生きている皆さんは幸せです)
(2008.4.15/6.7加筆)