> コラム > 伊原吉之助教授の読書室
以下は、『関西師友』平成20年6月号 24-25頁に掲載された「世界の話題」(223) です。
國体の危機
大日本帝國崩壊の起点
今や日本は米中にいいようにあしらわれて独立国の体を成していません。
日本政府は日本國民も日本の國家主権も守らない。
にも拘らず國民は腑抜け同然、憤慨もせず、草莽崛起もせず、大人しく税金を払い続けている。
なぜだろうか?
日本崩壊の起点は、第一次大戦後の國家経営の失敗です。そのつけが昭和になって噴出します。
第一次大戦は日本を大きく変えます。
●産業構造=軽工業段階→重化学工業段階(高度工業社会)
●社会構造=名望家社会→大衆社会(高度組織社会)
ところが帝國憲法はこれに対応していない。軍事と政治の二本立て/首相が閣僚の任免権なく、一人でも閣僚が異論を言い立てれば「閣内不統一」の故に総辞職するほかないという脆弱な内閣です。これでは戦争などできません。日清・日露の戦争がやれたのは、憲法をつくった元老が現役で、彼等が調整したからです。
元老が老齢化した段階で、憲法の不備を改める必要がありました。
それなのに、当時の指導層は帝國憲法の改正を怠ります。
また政党は、政友会・民政党とも利権政治と党利党略の足の引っ張り合いを続け、問題解決能力を失います。二大政党制だから、政権についている相手を倒しさえすれば自党に政権が転がり込んできます。だから泥仕合になるのです。
結局、昭和に問題を先送りし、岡田益吉がいうように、「大正の間違い、昭和を殺す」結果になりました。
泥仕合の例:
昭和3.不戦條約締結に際し、民政党が田中政友会内閣を「人民の名に於て」で攻撃
昭和5.ロンドン海軍軍縮條約締結に際し、政友会が濱口民政党内閣を「統帥権干犯」で攻撃
cf. 岡田益吉『新聞記者の昭和史:昭和のまちがい』 (雪華社、昭和42.1.25)
〃 『危ない昭和史 (上) 』 (光人社、昭和56.4.7)
岡田益吉『新聞記者のみた昭和史:軍閥と重臣』 (読売新聞社、昭和50.12.10)
〃 『危ない昭和史 (下) 』 (光人社、昭和56.4.7)
昭和になると、事件が連続します。
●経済=金融恐慌→金解禁と世界大不況→デフレ→失業→農村不況→娘の身売……
●政治=統帥権干犯問題→三月事件→滿洲事変→十月事件→五一五事件……
これらの事件に対する政府と政治家の無能が暗殺と クーデター計画を連発させ、その行着く先が、二二六事件と軍部の政治介入、支那事変の泥沼でした。
元老・重臣らの輔弼失敗
橋本徹馬が、当時の指導層を指弾しました。
cf. 『天皇と叛乱將校』 (日本週報社、昭和29.5.10) 46頁以下
元老・重臣も政党政治家も、なぜ時代に沿って帝國憲法を改正し、日本の國家運営体制を総力戦の時代に合うよう改正しなかったのか。
せめて相澤事件が起きた後なりと御前会議を開き、首相の下に挙國一致できる体制を築いておけば、二二六事件も起きず、敗戦降伏の悲運も免れた筈だのに、と。
だが元老・重臣は成行きに任せ、政党は政争に明け暮れ、生活に喘ぐ國民に愛想をつかされます。
そこで天皇と國民を直結して「日本の國体を顯現」するため、君側の奸「元老・重臣」を除く二二六事件が起きたのです。
ところが当時の指導層はこの事後処理を誤り、そのため日本は禍を招いた、と橋本徹馬は言います。
忠臣を叛徒にした禍
二二六事件の 2ヶ月後、 5月 4日の帝國議会開院式の勅語で昭和天皇は「今次東京ニ起レル事件ハ朕ガ憾ミトスル所ナリ」と仰せられます。
そこで橋本徹馬は、湯淺倉平内大臣に面会して迫ります。
國の不祥事は、わが國体の仕来りでは天皇の不徳です。
あの御言葉では青年將校に対する御憎しみが窺え、軍内対立に油を注ぎます。
「朕の不徳」と仰れば、誰もが恐懼し、相剋がやむのに、と。
案の定、二二六事件後、統制派がのさばり、陸軍以外でも國内の分裂対立が深まりました。
橋本は湯淺内府にこう断言します。
「彼らを叛逆者として殺せば、他日、必ず國家は禍を受けます」
重大な國法を犯したから極刑は免れぬが、君國を思う念に発したことは自明だから叛逆の罪は赦す──と仰せられれば、彼らは喜んで死につき、自分達のとった方法の誤りまで充分反省した筈だ。
逆賊として殺されては絶対浮かばれない。必ずや將來の皇室と國家に禍をなす。
これは、輔弼者の重大な失態である。
「この位のことがお判りになりませんか」
「國政上の大事はかかる点にあるのがお判りにならぬのですか」
安藤輝三大尉は死ぬ前、「國体を護らんとして逆徒の名 万斛の恨 涙も涸れぬ、あゝ天は」と書き、鬼神輝三と署名します。
彼ら愛國者を叛逆者として処刑したとき、「皇軍」は亡びました。
今上陛下による修復の御努力
二二六事件による國体の亀裂を修復なさったのが、今上陛下です。
平成九年正月、宮中歌會始の召人として參内したとき、歌人齋藤史 (ふみ) の目に「向こうの庭に並ぶ軍服の連中の姿」が見えました。
その姿は帰途には消えていました。陛下が史に宥和のお言葉をかけられたからです。
「お父上は瀏さん、でしたね……」
このとき、史が詠んだ歌は次の通り。
野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて
史は平成六年、日本藝術院新会員として宮中の午餐会に招かれた時にも陛下から「お父上は、齋藤瀏さんでしたね、軍人で……」と声をかけられて以来、二度目。
これは陛下の二二六事件處刑者に対する和解の呼掛けでした。陛下は二二六事件のことを「充分御理解あそばされておられる御樣子です」と事前に説明を受けていました。
一度目のとき、史は、まさか「二二六の叛乱の男です」とも言えず、「初めは軍人で、おしまいはそうではなくなりまして。おかしな男でございます」と答えています。
そのことを歌にも詠みました。
「おかしな男です」といふほかはなし天皇が和やかに父の名を言ひませり
齋藤瀏こそ、二二六事件の渦中の人物だったのです。
そして娘の史は、栗原安秀中尉や坂井直中尉と小学校からの幼馴染みでした。
cf. 齋藤 瀏『二・二六』改造社、昭和26.4.26
工藤美代子『昭和維新の朝:二二六事件と軍師 齋藤瀏』日経新聞社、2008.1.7
日本國体は顯現するか
では、今上陛下の青年將校との和解は、彼らが目指した「日本の國体の顯現」を実現しましょうか?
それは私達の努力如何によります。
敗戦の時、日本の指導層は天皇護持に気を取られて、関連する重要事項を疎かにしてしまいました。そのため占領後、各所に数多の日本骨抜き政策が埋め込まれて現在に到っています。
かくて日本人は日本の國体の尊さを忘れ、祭日に日の丸を掲げず君が代も歌わぬ國民がはびこりました。
日本政府は主権も国民も守らない。
日本國首相が國民の意向より共産國首腦の意向を重んじても、誰も咎めない。
日本の國体は消えて久しい……?
陛下の和解は手遅れだったのでしょうか?
日本の麗しき國体の顯現に、まだ間に合いましょうか?
(08.5.8/6.2追記)