アジアの歴史と現実を正しく把握し、日本との関わりを考えようとする意欲のある市民の集い。

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室


下記は、『関西師友』平成19年3月号掲載の「世界の話題」(208) です。

若干、増補してあります。                  伊原


 大正天皇と大正時代の空白

伊原吉之助

(帝塚山大学名誉教授)


明治から大正への転換

 平成も、はや19年、これに較べて大正は15年ですから余程短い時代だったようですが、実は明治から大正への転換は、日露戦争が画期です。明治は二大課題(独立・安全保障の確立と、不平等条約の改正)を果して力尽き、日露戦争の外債償還など、事業の後始末に追われます。

関川夏央は「明治15年(1882)生れ以後」を第二世代とします。幼少時に漢学の訓練を受けなかった世代です (『白樺たちの大正』文藝春秋、2003.6.30)。

この世代が、第一世代が営々苦心して築いた大日本帝国を滅ぼしたという三浦朱門説 (『新潮45』1996年11月号掲載、「歴史は繰り返す『第二の敗戦』を迎える日本──今の中年世代に日本を任せられるか」) を、かつてこの世界の話題97回「日本を亡ぼす第二世代」 (平成8年12月号) で紹介しました。

第二世代の特徴は第一世代への反撥です。両世代の違いは歴然、第一世代は漱石も鴎外も乃木大將の殉死に感銘を受け深く悼むのに、第二世代の志賀直哉・武者小路實篤・芥川龍之介らは「馬鹿な奴」「訳が判らん」と嘲笑します。大正の軽薄です。


大正天皇も時代の子

 大正天皇は明治12年生れながら、この「軽さ」を御自身も体現しておられたようです。

 大正天皇の御事跡を調べるため、原武史『大正天皇』 (朝日新聞社「朝日選書」663, 2000.11.25)を読んで驚きました。「悲劇の天皇」大正天皇は輔弼の臣(特に宮内大臣就任早々の牧野伸顯)により「押込められた」というのです。

 大正時代は君主政治の危機の時代、第一次大戦で露獨墺土の君主制が崩壊し、共和制に移行した、この危機を乗切るには「強い」天皇が必要だったので、「弱い」大正天皇は「御脳病」 (幼時に脳膜炎を患われました) にかこつけてお引取り願ったのだと。

 原さんは、明治33年(1900)の御結婚から大正元年(1912)の践祚まで、皇太子(大正天皇)は正常かつ健康であったと言います。

 しかし大正天皇が身心共お弱かったのはまぎれもない。皇太子時代に行啓して元気闊達になられたのは、東京の宮中のしきたりから開放されたからです。践祚後はまた宮中の重圧に曝されて正常さを失い、退位に到ります。


明治天皇と大正天皇

明治天皇は長期、輔弼の臣の教育を受け、現実政治をたっぷり観察されました。大正天皇は身心虚弱故に少々我儘にお育ちになりました。この若い天皇を、山縣有朋率いる官僚閥と、政党の首領大隈重信が奪い合います。

 大正天皇は堅苦しい山縣が大嫌い、話のうまい大隈が大好きです。大正4年(1915)7月、内務大臣大浦兼武の議員買収事件が発覚した時、大浦本人のほかに首相の大隈以下、各閣僚も連袂辞職したが、大正天皇が「留任せよ」と仰せられたため、閣僚 3人の更迭で乗切って、大隈内閣は命拾いしました。政友会の西園寺公望や原敬は、天皇を政争に捲込む大隈に反対です。官僚閥率いる山縣有朋と組んで大隈に対抗します。この中で、大正天皇以降、宮廷は憲政会・民政党好み、政友会嫌いに傾きます。政治的に対抗する一派に与するのです。

 大正天皇の病弱は、日本の政治に二つの効果を生みました。政党政治を育てたことと、天皇機関説を定着させたことです。天皇は、輔弼の臣の決定を追認する軽い存在になります。

 明治天皇も機関説的でしたけれど、「公平な調停者」として発言されました。大正天皇は「不用意かつ軽率な発言を封ずる」形で祭り上げられます。思ったままを口にされる天皇の自制心の無さ・政治的判断力の欠如が政治混乱を招き、祭り上げるしかなかったのです(原武史の大正天皇擁護論に対して、伝統的大正天皇観に立つのが、小田部雄次『四代の天皇と女性たち』文春新書、平成14.10.20、です) 。


健康悪化と摂政擁立

大正7年(1918)9月、原敬内閣成立の頃から大正天皇の体調が悪化します。乗馬できなくなって観兵式に欠席。勅語が読めず議会開院式に欠席。統監できず陸軍大演習に欠席等々。そこで国事停滞を避けるため、大正9年(1920)3月の第一回病状発表、大正10年(1921)11月の摂政擁立となります。

 摂政に就任された時、裕仁皇太子は20歳、帝王教育途上ですから「常時輔弼」を任務とする国務の相談役内大臣に円熟した政治家が必要でした。

 ところが、最適任の原敬が摂政就任直前に暗殺され*、加藤高明も大正15年(1926)1月、首相在任中に亡くなります。

 昭和の時代も昭和天皇も、人材配置の点で不幸でした。


  *原敬暗殺については、長文連『原首相暗殺の真相』(三一書房,1973.7.15) 参照。原敬を殺したのは中岡艮一という青年ですが、中岡艮一に原敬を殺させた張本人は東海散士こと柴四朗、暗殺理由は「恨み骨髄の薩長藩閥の頭目、山縣有朋にすり寄って権勢を求める不届きな原敬の懲罰」だとしています。


明治と昭和の断絶

 大正時代の天皇親政棚上げのため、昭和天皇は父君の御親政から親しく学ぶ機会なく、理想化されステロタイプ化された明治天皇を模範にするほかありませんでした。従って、明治天皇の帝王学学習の御苦労も学べませんでした。

 こんな未熟な摂政裕仁を輔弼したのは、大久保利通の次男で牧野家を継いだ牧野伸顯です。父利通の暗殺により、帝国大学を中退して外交官となります。その後、文相 (第一次西園寺内閣) ・農商務相 (第二次西園寺内閣) ・外相 (第一次山本権兵衛内閣) ・臨時外交調査会委員 (寺内正毅内閣) を歴任します。そして、第一次世界大戦後のパリ講和会議に西園寺公望と共に日本全権として出席し、子爵となった人物です。

大正10年(1921)2月、宮内大臣就任、大正14年(1925)3月、宮相から内大臣に横滑りしました。内大臣時代に伯爵に昇進しています。牧野伸顯は昭和10年 (1935) 12月、病気のため辞任するまで内大臣を務め、昭和天皇の輔弼を一身に背負った重要人物です。内大臣10年間、宮内大臣時代を加えると実に14年10ヶ月も昭和天皇を輔弼する位置にありました。伊藤隆・広瀬順晧編『牧野伸顯日記』 (中央公論社、1990.11.20) は、その間の貴重な記録です。

牧野伸顯が内大臣に就任する頃は元老が次々亡くなり、西園寺公望がただ一人残りました。だから牧野伸顯は、後継内閣総理大臣の指名に与る重要な役割を果します。

 摂政裕仁は牧野伸顯を頼り、その価値観(民政党贔屓・政友会嫌いなど)の感化を受けます。


 昭和前期は大動乱時代でした。

 軽工業時代から重化学工業時代へ、

 名望家政治(制限選挙)から平民政治(普選)へ、

 好況バブルから不景気の金解禁デフレへ、

 軍縮から軍拡へ、

 関東大震災の復興から金融危機へ、

 世界大不況の到来からブロック経済・白人国による日本貿易締出しへ……


 この動乱期を、日本は若い天皇の下に、明治が育てた正規の学校教育、特に帝国大学教育を受けた人たちが国家運営に携わり、嵐の中を航行することになります。

(07・2・10執筆)