二二六事件の処理と天皇

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紹 介:


       二二六事件の処理と天皇



工藤美代子 『 昭和維新の朝:二・二六事件と軍師 齋藤瀏 』

( 日本経済新聞出版社、2008.1.7 )  1900円+税



  二二六事件 ( ニーニーロクであって、ニーテンニーロクではない ) については、曾て若かりし頃に一通り調べたことがあります。

  そのとき、歴史の闇の深さを感じました。

  ちょっとやそっと調べた位では判らない。

  関係者が多く、それぞれが思惑あり、しかも権力が事実を封印ないし捩じ曲げでいますから、部外者が少々本を読んだくらいでは、全貌どころか、一部たりとも理解し兼ねるのです。


  最近、たまたま手に入れた工藤美代子の本を読み始めたため、関連する本まであれこれ読むことになりました。


  工藤美代子の本は、副題から判るように、事件に密接に関わった齋藤瀏を主人公にしています。

  実は、齋藤瀏の一人娘、齋藤史 ( ふみ ) が本当の主人公です。

  軍人だった父瀏が旭川の第七師団に大隊長として務めたとき、史が通った軍人の子弟ばかり入る小学校に、栗原安秀や坂井直が居て親しくなったことから、幼馴染・家族付合を通じて、話が二二六事件に展開して行きます。


  幼馴染や家族付合ですから、人情がしっとり流れる物語になっています。


  さらに、二二六事件を起こした側からの物語ですから、 「 純真な若者の思いを昭和天皇が受止められなかった 」 ことをうらみに思う側から描いています。


  それが戦後、二二六事件当時皇太子だった現天皇から二度に亙って声をかけられます。

    一度目は、史が日本芸術院の新会員として宮中の午餐会に招かれた日。

  食事が終ると、陛下が歩み寄られて声をおかけになる。

  「 お父上は、齋藤瀏さんでしたね、軍人で…… 」

  「 初めは軍人で、お終いはそうではなくなりまして。おかしな男でございます 」


  二度目は、宮中歌会始の召人を88歳の齋藤史が務めたとき。

  「 お父上は瀏さん、でしたね 」


  これは、陛下の側からの二二六事件受刑者側に対する和解の意思表示であったようです。

  齋藤史は、この二度の呼掛けで胸のつかえが下りた思いをする、というのが本書の書出しです。


  実は宮中には、昭和天皇=二二六事件批判派、秩父宮=二二六事件共感派、という二つの流れがあります。

  齋藤史を慰められた今上陛下は、秩父宮の流れから、厳しかった昭和天皇のお立場の宥和を図られた、ということになります。


  ではなぜ、昭和天皇は二二六事件を起こした側に厳しかったか?


  父君、大正天皇が病弱で、帝王教育が行き届かなかった、特に父君の職務遂行を傍で眺めて学ぶ機会がなかったため、輔弼の臣 ( 特に大正10.2.19 以降宮内大臣を務め、大正14.3.30から昭和10.12.25まで内大臣を務めた牧野伸顯 ) に頼った。

  その牧野伸顯が 「 明治の二代目 」 で、政友会嫌いという好みを持っていたため、若い昭和天皇は、田中義一首相を辞めさせるという失敗を犯し、臣下の信頼を薄め、下剋上の風潮を生む……という経緯があるのです。


  詳しくは、下記参照:


  伊藤之雄 『 昭和天皇と立憲君主制の崩壊 』 ( 名古屋大学出版会、2005.5.10 )  9500円+税

  伊藤之雄 「 昭和天皇と立憲君主制 」

  ( 伊藤之雄・川田稔編 『 20世紀日本の天皇と君主制 』 吉川弘文館、2004.3.20, 第一部第四章 )


  私は、昭和天皇の未熟さを助長したのは、 「 明治二代目 」 「 大正デモクラシーの徒 」 であった近臣の責任、と考えます。


  輔弼の任に当る近臣の未熟さを、直接本人 ( この場合、湯浅倉平内大臣 ) に面と向かって言ったのが、橋本徹馬です ( 『 天皇と叛乱將校 』 日本週報社、昭和29.5.10,49頁以下 ) 。


  曰く、昭和11年 5月 4日、広田内閣の下に召集された帝国議会の開院式に臨まれた陛下の勅語の中に 「 今次東京に起れる事件は、朕の深く憾とする處なり 」 というお言葉があったが、あれはいけない。ああいうお言葉があると、叛乱將校に天皇の御憎しみがかかっていることが看取され、皇道派と統制派の相剋が激化する。


  勅語奏請者は、お言葉のあとあとまでの影響を考えて奏請すべきである。


  国家に不祥事が起きた場合、我が国柄から言えば、如何なる場合も 「 朕の不徳による 」 という勅語を奏請すべきである。そしたら、両派とも深く反省し、相剋が収まる方向に向かう筈だと。


  この指摘は、深く頷かせるものがあります。


  橋本徹馬は、もう一つ、重大な指摘をしています ( 55頁 ) 。


  「 私は断言しておきます。

  彼らを反逆者として殺せば、他日、必ず国家は禍を受けますよ……

  君らは重大な国法を犯した者であるから、当然死刑は免れぬが、その動機が君国を思う念に発したことは充分認められ、叛逆の罪は赦す……

  といえば、彼らはどんなにか喜んで死につき、

  かつ自分達のとった方法の誤りについても充分反省するでしょうが、

  反逆者として殺されたのでは、絶対浮かばれない……

  また、それが將来の皇室と国家への禍となりましょう……

  これ位のことがお判りになりませんか……

  国政上の大事はこういう点にあるのがお判りにならぬのですか 」


  日本の敗戦、さらには現に見られるような社会崩壊の無残さには、彼らの祟りがあるのかも知れません。




( 平成20.5.5記 )