> コラム > 伊原吉之助教授の読書室
以下は、『関西師友』平成20年3月号掲載の「世界の話題(220)」です。
洞察力を磨こう!
真の賢さとは……?
19世紀プロイセンの宰相で、外交の名手であったビスマルクが、こんな名言を残しています。
「賢者は歴史に学ぶ。愚者は経験に学ぶ」
言わんとする意味は──
痛い経験をして初めて悟るのは阿呆だ。賢い人間は、他人の経験から学んで愚行を避ける。
ですが、経験から学ぶ者は凡人であって、阿呆ではありません。
真の阿呆とは、「わかっちゃいるけど、やめられない」人です。
ビスマルクがこの箴言で言わんとしたことは、正に洞察力(先を見通す力)を磨け、ということです。
普通、賢い人とは、即答できる人を言います。特にテレビはゆっくり考える時間を与えませんから、常に即応を求めます。
では、即答せず、じっくり考える人は阿呆でしょうか?
エディソンの質問
発明王エディソンは、19世紀の個人的発明から、20世紀の組織的発明への橋渡しをした偉人です。
彼は、小学校で先生から「この子は阿呆です。私には教えられない」と言われ、通学をやめて母親から初等教育を受けました。
エディソンがなぜ、先生から見放されたか?
先生が「1+1は2です」と教えたら、「はーい、先生。1+1はなぜ2なんですか?」と訊いたのです。
エディソンは「根源的な問」を出したのに、小学校の先生は哲学者(根源的な問を発する人)ではなかったので、単純に、こんな自明のことが理解できない子供は阿呆に違いないと思ってしまったのです。
創造力の源泉は博識
エディソンは、発明を組織化する際、その研究所に大学卒業生を採用して当時の人を驚かせました。
興味深いのは、採用試験の問題です。新聞と百科事典とから引いてきたようなありとあらゆる知識を百問、問うたのです。
取材した新聞記者が、「出題した貴方自身は解けるのか」と、その場で解答させたら、百点満点でした。エディソンは、とてつもない「物知り」でした。
発明、つまり新しいものの創造とは、旧知識を組変えて、新規な組合せに変えることだったのです。シュンペーターのいう「新結合」です。
組換えを成功さすには博識が有利です。だからエディソンは「博学」を試した。
エディソン曰く、「知らないのは許せるが、忘れたというのは許せない」
閃きの大事さ
エディソンは、発明の極意を記者に問われて、「99% の パースピレーション(発汗)と1% の インスピレーション(閃き)」と答えています。
凡人だった記者は、発明も努力の賜物と解釈しましたが、エディソンの意はさにあらず、閃きのない者に発明などできない、というのです。
民主主義が衆愚政治に堕落するのは、「閃き」なき凡人が「平等」を笠に着てのさばる時です。偉人をこき下ろし、何の特徴も持たぬ凡人が我儘の放任に過ぎない「個性の伸長」を振回してのさばる事態は、世の中の「堕落」というほかありません。
知性の三局面
私は昔、台湾で「白団」の指導者だった富田直亮將軍に何度かお目にかかりました(*)。
* 『饗宴』第18号 (昭和50年 3月発行) 2面に掲載した拙稿「指揮者と参謀」参照。
富田將軍曰く、人間の知的活動は三段階ある。認識・分析・決断。
認識とは白を白、2を2と確認すること。分析は認識した客観的事実を元に、意味ある結論(対策)を導くこと。
認識(価値判断なし)と分析(価値判断あり)は明確に区別しなければいけないのに、人はしばしば希望的観測や身贔屓、好みなどを入れて認識を濁らせる。
「厳に慎むべきことです」
但し、分析しただけで人は動かない。行動には決断が要る。
「禁煙する」というだけでは決断でも何でもない。実行して初めて決断と言える、と。
決断が知性に属するとは、富田將軍の言葉で初めて悟りました。
陽明学の立場は、多分、この決断重視なのでしょう。
決断、即ち行動は「一人で決意して行うもの」で孤独な作業だ、と富田將軍は言いました。
個人の決断は自分と周囲の人を捲込むだけで済みますが、軍団の司令官の決断は、全軍の運命、ひいては国の運命を左右しますから頗る重い。
その決断を只一人で下さねばなりませんから、司令官は重大な責任を背負っています。
だから優遇されるのです。
ところか戦後、日本では指導者を育ててきませんでしたから、決断の意志も能力もない人が決断する地位に坐り、上等の待遇だけ貪って、決断とその責任は回避するという無責任な事態が頻発しています。
例えば、会議で決めるというのは、責任分散行為であり、責任回避行為です。
信賞必罰という言葉が死語になりました。由々しき事態です。
先を見通す能力
さて、ビスマルクの箴言です。
歴史に学ぶとは、何を意味するか? 歴史のイフを問うことです。
自分がこの時、当事者だったらどう決断するか?
尤も、経綸、識見、抱負を持たぬ人物が、こんな問を発しても、あまり意味はありません。
しかし、凡人にも意味のある知的ゲームができます。
実際に起きたことと別の事態を想像してみるのです。
例えば、日露戦争で日本が負け、帝政ロシヤが勝っていたら、東アジアはどうなっていたか?
滿洲と朝鮮半島がロシヤ領になっていたことは間違いありません。
では、清朝はどうなっていたか?
日本は、最悪の場合、露領になっていたかも知れません。
露領にならずとも、白人支配体制に一矢報いることはできず、21世紀の現在も白人支配の世の中が続いていたかも知れません。
それを思えば、私たちは ロシヤと断固戦った父祖や先輩にうんと感謝せねばならないのですが、「帝国主義に加わった」と言って済ましている学者・研究者が少なくありません。
恩知らずというべきです。
「別の事態」を想像できれば、現実に起きた事態が評価できるようになります。
凡人たるもの、せっせと洞察力を磨きましょう!
(08.2.3/3.4補筆)