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評論:
これは、『関西師友』平成15年2月号に掲載した「世界の話題(163)」です。新聞を初めとして「可能性」と「蓋然性」の混同使用が目立つので、採録することにしました。再録に当り、少し増補してあります。
伊原吉之助
可能性と蓋然性の混同
別概念の混同
かねがね「可能性が高い」という表現に疑問を感じてきました。
昔、教授会で同僚の理学博士が、以下のようにいうのを聞いて以来のことです。
「可能性はあるかないか? ゼロでない限り、常に可能性は "ある" のです。多少や高低など、程度をいうなら蓋然性です。二つの概念を混同してはなりません」
最近の新聞記事をみると、可能性を posibility ではなく、probability の意味で使っている例が多く見られます。
probability は普通、蓋然性とか公算と言います。
見込み、確からしさ、確率ということもあります。
それがどうしたことか、最近は可能性一本槍になりました。
新聞は影響力が大きく、用語は正しく使って貰いたい。
可能性と蓋然性は概念がはっきり別で、混同は許されません。
国語の粗略な扱い
戦後、わが政府は日本語を改竄と言いたいほどいじりました。
現代仮名遣いの出鱈目さは沙汰の限り。
残念ながら、今や完全に定着してしまいました。
破裂音「ぢづ」を、摩擦音「じず」に統一するなど、乱暴というより文化破壊です。
敗戦の年に旧制中学四年生だった私には、戦前の旧仮名遣い・旧漢字も難なく読めますが、少し下の学年になると、もう戦前の文章は読めません。
国民に戦前の文章を読めなくした政府は、日本文化の破壊者です。
戦前の文学作品を現代仮名遣い・当用漢字に書き換えるのは、重大な著作権侵害だと思うのに、誰も問題にしない。
私がこう息巻くのは、戦前、普通に使われていた日本語が、戦後通じなくなった例が少なくないからです。
国語辞典も杜撰
私は「拙稿」という表現を今も使います。
これは「拙い文章」という意味ではなく、「拙なる私が書いた文章」という意味です。
「拙、則ち私」なのです。「僕」が「貴方の僕である私」を意味するのと同じです。
「僕」を your servant と訳す人は居ますまい。I でいいのです。
ところが、「愚妻」になると、my foolish wife と訳す人が尠くない。
国語辞典の多くが「愚かな妻」「妻の謙称」とやっています。
国語学者ですら、戦前の日本語の用法が理解できなくなっているのです。
謙称は自分にしかかからない、妻は他人ですから、妻にはかからないのです。
愚妻とは「愚なる私」の妻であって、英訳は my wife以外のいかなる意味もありません。従って「愚かな妻」は勿論のこと、「妻の謙称」という解釈も誤りです。
さて、「可能性」の問題です。
私は新聞記者と知り合って少し親しくなると、この問題をぶつけて可能性と蓋然性を使い分けて下さいとお願いするのですが、probability の訳語が安定しないためか、なかなか改まりません。
思考の安易さを反映?
例=「日本とアメリカがもう一度戦う可能性 posibility 」はゼロではないから「ある」のです。しかし、実際に戦う見込み probabilityは限りなく小さい。
問題はここから先です。可能性がゼロでないなら、それに備える必要があります。政治家も軍人も、シミュレーション (思考実験) をしておかねばなりません。
勿論、蓋然性の高いものから順番に、思考実験の軽重をつけるのは当然のことですが、「全然していない」のは許されません。
考えておいて手を打つという国家の安全保障に関する重大処置をほったらかしにしてきて久しい。
我国の政治家も軍人も、重大任務を果していないのです。
極端にいうと「背任」です。
可能性と蓋然性を混同して平気な人達は、蓋然性の尠いものは初めから無視して、対応など考えません。
昔、軍事問題の権威に、日本はどうして防衛のための法規の整備を怠り、自衛隊を防衛さえできないまま放置しているのですか? と訊いたことがあります。
その権威者は哀しげに、「自民党の政治家は、日本が攻められる事態を予想していないのです」と答えました。
日米安保に安住して、日本が戦う破目になることは「あるまい」と勝手に思い込み、何の手も打たないで平然としている、というのです。
私はつくづく、こんなノーテンキな人達に国政を任せられないと痛感しました。
軍事力の本質は抑止力です。
「万一」という小さい蓋然性に備えて軍事力を保持し、鍛えていつでも反撃できるようにしておくことによって、相手に手出しをさせない力です。
いつでも使えるようにしておかないと、抑止力にはなりません。
つまり軍隊とは保険と同じく、使わないで済むようにするため、いつでも使えるように日々磨いておく暴力装置なのです。
言葉で思考力を磨く
人は言葉でものを考えます。
言葉の使い方がいい加減なのは、考え方が粗雑な証拠です。
私は新聞紙上で「可能性が大きい」という表現を読む度に、日本は危険に備えぬいい加減な人が国政を動かしている国だ、と連想してしまいます。
一頃、フェイル・セイフという英語が紹介されました。
一度間違えても大事に到らぬよう、二重三重に安全装置を仕組んでおくことです。
しかし日本の銀行は、コンピューターシステムを二重にしませんでした。
東京一極のみ。「大丈夫だろう」「二重投資は勿体ない」
一度、東京でケーブルが焼けてコンピューターが停まったことがあっても、神戸大震災が起きても、二中心にはしませんでした。
かくて何も彼も東京一極中心で日本国を運営して現在に到っています。
その危うさを誰も気にしない。何と呑気な!
核シェルターが皆無な先進国は、日本くらいじゃありませんか?
第一線が破られても二線がある、第二線が破られても三線、四線がある、という陣地を縦深性があると言いますが、日本の対応策は大抵一つだけ、その一つが破られると、あとは応急措置しかない、というのが「器用な」日本人の遣り方です。
尤も、高度成長以降育った日本人は集団の中で揉まれていませんから、決して器用ではなくなりましたけれども。
アメリカ人は、ご存じのように、景気の予想でも何でも必ず三案出します。
A案の確率×%、B案×%、C案×%と推定して順序をつけます。
日本では予想は常に一つ、単純対応、勝負は一回きり。
ぱっと咲いてぱっと散る櫻同様、しぶとさを追求しません。
一般人ならともかく、一国の運命を左右するような決定をする人達(政治家・官僚・財界首脳・メディア界の重鎮等々)がこれでは日本の前途は危うい!
バブル崩壊後の対応のもたつきは、確率の尠い危険にも備えておく用意を怠った咎めではないでしょうか。
可能性を誤用して平気な態度に、日本人の考え方の安易さが反映しているように思います。
(03.1.4/08.2.22増補)