> コラム > 伊原吉之助教授の読書室
伊原注:以下は、台灣・台中にある有名私学、静宜大學の日文系紀要『日本学と台湾学』第五号 2006.09, 1〜24頁に掲載した論文です。文末につけていた注を、注記の直ぐあとに配しました。そして若干補訂してあります。
東アジア史の分水嶺────日清戦争
──防衛国家から攻勢国家に転化させられた日本──
一 東アジア史の一大転機は日清戦争
岡田英弘は中国史を「中国以前」「中国時代」「中国以後」の三時代に分ける(岡田英弘『中国文明の歴史』 (講談社現代新書、2004.12.20, 23頁/250頁以下)
中国以前=紀元前 221年、秦の始皇帝の中原統一以前
中国時代=秦の始皇帝〜1895年、日清戦争の終結
中国以後=二度(清末〜中華民国時代と現在)に亘る「中国の日本化時代」
これは通説に馴れた者の頭に一撃を与える画期的な説である。
通説=阿片戦争が中国近代の始り。
理由=西欧型世界システム(資本主義・自由貿易体制を支える近代国家の国際関係)が中国に到来して中国の天下システムにとって代り始めるのが阿片戦争だから。
通説の問題点二つ:
第一、通説は「悪いのは帝国主義列強」という責任転嫁的被害者史観や、「何れ復讐する」という怨念史観を正当化し、「なぜやられる羽目になったのか」という自己反省を棚上げする。
同じく不平等条約体制を押しつけられた日本が自立自強を達成した上で条約の平等化を勝ち取って列強に加わるのに対して、反省しない中国は、1930年前後の「革命外交」に見られるように、治安維持さえ出来ぬ自国の実情は棚に上げて、一方的に相手に「何が何でも平等化せよ」と迫る独善的な振舞に陥り易い。
中共政権の「帝国主義時代に押しつけられた条約は全部無効」という理不尽も、淵源は同じ。こんな主張を認めたら、現在の諸国の国境は無茶苦茶になる。
第二、ペリーの来航を契機に、徳川幕府から明治政府への変革を成し遂げた日本と違い、中国では肝腎の当事者清朝は阿片戦争に一向衝撃を受けていない。英国も佛国も新規の夷狄としか見ていなかったから。
夷狄の侵入や支配は中国史では珍しくない。後になって「西力東漸」が中国の天下システムを掘崩す挑戦だったと気付き、その淵源を辿ってみて「さては阿片戦争がそうだったか」と悟っただけの話である。だから清朝は、義和団事件に到るまで夷狄懲罰戦争を繰返し、旧体制を護持し続けたのである。
「阿片戦争から義和団戦争までの中華民国 vs.列強の戦争は、夷狄に対する懲罰戦争である」 (黄文雄『中華思想の嘘と罠』 PHP研究所、1997.11.27, 31頁/同『中国・韓国の歴史歪曲』光文社、1997.8.30,23頁)
1894〜5年の日清戦争は違った。「近代国家の衝撃」が朝廷に及んだ。
だから戊戌の変法と称ばれる体制変革の動きが朝廷から起きた。
だが若く未熟な朝廷は、忽ち守旧派の反撃 (戊戌の政変) を受け、改革の詔勅を連発した光緒帝は西太后に軟禁された。
清朝守旧派の自信は強く、体制の危機という認識は薄かった。だから義和団事件という夷狄懲罰戦争が、日清戦争後になお再現するのである。
西欧の挑戦が「生き延びたければ西側の世界システム・自由貿易体制に入れ!」という圧力だったことを漸く呑込んだ守旧派が、危機回避のため、体制改革に本気で取組むのが義和団事件以降である。
科挙の廃止、官費留学生の派遣を見ただけで、夷狄観を支えた中華思想、つまり中原こそ世界の中心であり、文明開化の中心であるという天下認識が崩壊したのが察知できる。「中体」の自信を棚上げして、当面の急務として西欧流の国民形成 nation-buildingに学ぶことにしたからである。
そしてその際、手本にしたのは西欧直接ではなく、一足先に西欧に見習った日本である。日本に留学生がどっと押寄せ、用語(単語だけでなく、現代中国語を創った魯迅は日本の言文一致体から学んだ)から翻訳(西欧の書物の翻訳の多くが日本訳からの重訳である)、諸制度、服装(中山服や人民服は日本の学生服が原型)にまで及んでいる。黄文雄は「近代中国は、近代日本がなければ存在しなかった」と言っている(黄文雄『近代中国は日本がつくった』光文社、2002.10.30,407頁) 。
さて、日清戦争の話である。岡田英弘と符節を合わすように岡本隆司も「日清戦争は世界史の分水嶺である」という。「この戦争を境に、東アジアは政治外交でも、欧米列強と不可分の関りをもち、血みどろの20世紀への突入を余儀なくされた」からだと(岡本隆司『属国と自主のあいだ』名古屋大学出版会, 2004.10.20,3頁) 。
本論の趣旨:
日清戦争論の一環として、日本を外征型の国づくりに方向転換させたのは李朝・清朝 (李鴻章) ・中華思想である、ということを述べる。
日本が明治維新後、内政重視の軽武装政策を維持し、対朝・対清関係はできるだけ事を穏便に済まそうとした。そして甲申事変・天津条約後十年間、その実現に成功した。にも拘らず、李朝がまず清朝勢力を朝鮮半島に引き込んで日清戦争を戦わせ、次いで李朝も清朝も「以夷制夷」政策でロシヤに日本を叩かせようとした中華思想政策がロシヤを満洲・朝鮮に引き入れて日本に日露戦争を強い、外国から借金をしてまで日本に外征を強いた。李朝の政治的無能が日清戦争を起こさせ、それが三国干渉をへて日露戦争を導いた。結局、日清戦争が日本を外征型の国にした転換点である──という趣旨。
日本ではこれまで、日本は明治維新後、初めから朝鮮を侵略するつもりで着々と軍備を整えたという、結果論に基づく史観と、唯物史観に基づく公式論がまかり通っていた。事態はそうではなかったということを述べるのが、本論の趣旨である。
二 明治日本がぶつかった中華天下システムの壁
日清戦争は原因不明?
尾鍋輝彦は「現代の歴史家の間で……日清戦争の原因については、十分に説得力のある解釈はまだ生れていない」という(尾鍋輝彦『二十世紀(1) 帝国主義時代の開幕』中央公論社、昭和52.4.20, 87-88頁) 。
これを引用しつつ防衛大学校教授田中宏巳も「日清戦争の原因について、……未だに明快な原因説明がない」と書く(田中宏巳「日清両国の対立と開戦への軌跡」『近代日本戦争史 (1)』同台経済懇話会、平成7.4.20,117頁) 。簡にして要を得た事情説明があとに続いているので、田中教授は事態の経緯は百も承知の上なのだが、「朝鮮を巡る戦争」なのに勝者が朝鮮の「独立」を認めるだけで服属させなかった判りにくさを問題にしているのである。
この「判りにくさ」を周到・明快かつ詳細に解きほぐしたのが、岡本隆司である(岡本隆司『属国と自主のあいだ──近代清韓関係と東アジアの命運』名古屋大学出版会、2004.10.20)。
清朝と李朝の「属国自主」関係 (属国でありながら、内政・外交は自主) とその変遷を、中国・李朝朝鮮・日本・米・英・露と、関係各国の外交文書を周到に利用しながら判りにくい「属国」と「自主」の関係、その時代による変遷を手際よく解きほぐす。以下、その要点である。
朝鮮、旧態依然に閉籠る
日清戦争は、清朝が代表する中華天下システムと、日本が代表する西欧型世界システムとの衝突であり、清朝の敗北は、中華天下システムの破綻を意味した。檜山幸夫は「日清戦争が東アジアの伝統的な国際秩序であった華夷秩序の崩壊を決定的にした」という(檜山幸夫「日清戦争の歴史的位置」東アジア近代史学会編『日清戦争と東アジア世界の変容 (上) 』ゆまに書房、1997.9.20,14頁) 。だからこそ清朝に衝撃を与え、すぐ挫折するとは言え、朝廷内部からの「変法」 (体制変革)の指示が発せられるのである。
二次に亘る阿片戦争は、清朝が新来の夷狄の襲撃としか受止めなかったため、漢族官僚に文明の利器を採用する洋務運動は生んだものの、清朝に体制変革の衝撃は与えなかった。清朝の洋務運動は、アメリカ・インディアン の 鉄砲採用と同じく、つまみ食いに過ぎない。便利な道具は取入れたが、自分らの社会システムは旧態依然なのである(伊原吉之助「中国工業化の問題点──日中近代化比較・新稿」『極東・アジアの政治と経済』泰流社、1987.9.30, 72/76頁) 。
2007.12.14追記:洋務運動については、今読んでいる鈴木智夫『洋務運動の研究──19世紀後半の中国における工業化と外交の革新についての考察──』 (汲古書院、1992.12.) が頗る興味深い。上海で刊行されていた日刊の華字紙『申報』の論説を忠実に追って、「中国の特色ある初期工業化」 (伊原) の実情をあぶり出している。「中国の特色」とは、官、つまり役人の実事求是と正反対の態度、即ち独断・独善・腐敗汚職体質である。近代航運業を自前化する筈の招商局や、綿業を近代化する筈だった上海機器織布局が、薔薇色の夢をいかに泥沼化させて行くかを如実に追跡している。
ところがペリーの黒船来航は、日本に旧体制打倒・政権交代の動きを生む。日本の指導者は、旧体制を維持したのでは旧弊が残り、西欧列強と対抗するような革新はできないと見抜いたのである。
かくて日本は、討幕・王政復古・明治維新により政権を取替え、西欧型近代国家形成に新出発する。新政権は、近代国家の基礎固めに、内乱の鎮圧を含め、政権交代から二十年余かかった。
1868/明治元年 明治維新
1889/明治22年 帝国憲法発布
1890/明治23年 帝国議会開設
明治初年代の10年間は叛乱鎮圧と基礎固めの時期、明治10年代の10年間は西南戦争の後始末 (財政再建) ・政府の再編成 (明治15年の政変) と立憲君主制準備期、明治20年代がやっと殖産興業に取りかかる時期である。
黒船来航に際し、日本の識者が考えたのが、近隣の李朝・清朝と手を組んで東アジアの国際関係を安定化することであった。日本・清朝・李朝の三国提携論は、佐藤信淵に発して橋本左内、勝海舟、西郷隆盛、岩倉具視らが同じように考える。
そこで日本が新政権発足後、直ちにやったのが、江戸時代から交流を続けていた李氏朝鮮に対馬藩経由で新政権成立を告げ、西欧世界システム型の国交を開くことであった。対馬藩主宗対馬守にその旨指示するのが慶応4.3./1868.4. 。宗対馬守が文書を発行するのが明治1.12. /1869.1. である(田保橋潔『近代日鮮関係の研究 (上) 』原版=昭和15年/復刻版=原書房、昭和48.5.20, 149-150頁) 。そして周知のように、朝鮮側は「皇祖・皇上などの文字が旧例に反すると言い、押印が旧と異なる」といって受理しなかった(田保橋潔 156頁) 。
これで李朝が東アジアの新事態を認めていず、ましてそれへの対応など考えてもいないことが判明した。この諍(いさか) いが日本にとって、清朝服属への旧体制を守ろうとする李氏朝鮮を「自主独立」へ誘(いざな) う長い確執の始りとなる。新生日本の外交の前途に、清朝を宗主国とする中華天下システムが立ちはだかったのである。
日本は、近隣外交を展開すべき緊急の理由があった。
討幕派は、開国した徳川幕府に攘夷を迫って倒したので、身内に攘夷派を大勢抱え込んでいた。従って王政復古の号令以降、外国人殺傷事件が頻発する。
新政府は慶応4.3.14/1868.4.6、五ヶ条の誓文と、億兆安撫・国威宣揚の宸翰を発布して「開国方針」採用を内外に闡明するが、それだけでは足りない。
近隣諸国との国交を現実に展開して、「開国方針を採用している」ことを内外(新政権の攘夷方針に疑いの目を持っていた列強にも、新政府が攘夷をするものと信じてついて着た攘夷派にも)に目に見える形で示す必要に迫られていたのである。
攘夷派の政権が開国外交を行うには、外交実績のある幕臣を起用して「倒幕派士族による政策決定と、旧幕府出身の外交官僚による業務処理、という組合せ」で過渡期を乗切ることも必要であった(藤村道生『日清戦争前後のアジア政策』岩波書店、1995.2.24,17頁) 。
日清・日鮮修好條規
日本の新政府が江戸時代の通信使からの縁で最初に働きかけた李朝との国交交渉が進まぬ間に、清朝との「修好條規」が先に成立した。明治4.7.29/同治10.7.29 /1871.9.13 天津で調印。署名したのは日本全権伊達宗城と清朝全権直隷總督李鴻章である。
日清修好條規の締結を急いだのは、日清双方に内部事情があった。
日本は、李朝の国書拒否に直面して、三つの選択に迫られた。李朝に国交を開かせる実力が育つまで交渉中止という中止論、「開港開市・両国往来自由の条約」締結を強要しようという「征韓」即行論、李朝が服属する清朝と先ず条約を結び、清朝と対等の位置を獲得しようという日清条約先議論。そして第二案の「征韓」即行論を抑える形で第三案の日清条約先議論が採用され、明治3.8.9 /1870.9.4 外務権大丞柳原前光を清朝に派遣するのである(藤村道生、『日清戦争前後のアジア政策』49頁以下。日清修好条規の交渉過程を丁寧に叙述しているのは、王芸生『六十年来中国与日本1)』新華書店、1979.12.第一章である。邦訳=長野勲・波多野乾一訳『日支外交六十年史1)』建設社、昭和8.3.25。『大日本外交文書 第四巻(上)』明治四年一月〜十二月, 日本國際協会,159頁以下は、日本側の資料集) 。
柳原前光の予備交渉の末、翌年派遣した日本側全権大臣伊達宗城と清朝の全権大臣 (直隷總督) 李鴻章との間で明治4. (同治10.)7.29/1871.9.13,東アジア初の近代的対等条約である日清修好条規が調印される。
清朝側には、日本は「臣服朝貢之國」だから条約締結の申込みなど拒否せよという保守派(例:安徽巡撫英瀚)の説が強かったが、意見を求められた洋務派の曾國藩は、元の日本遠征の失敗や明が悩んだ倭寇の例を挙げて「彼ノ國前代ノ故事ヲ習聞シ、固ト中國ヲ畏攝スル心ナク我ヲ隣邦ト稱シ來リタルハ、朝鮮・琉球・越南等臣屬セル國ノ遠ク比スヘカラサル所也」と述べて、日本が朝貢国でないことを承知していた(永井秀夫『明治国家形成期の外政と内政』北海道大学図書刊行会, 1990.2.25, 4頁) 。
同じ洋務派の李鴻章も「該國向非中土屬國、本與朝鮮琉球越南臣服者不同」と述べて曾國藩同様の認識を持っていた(奏稿巻十七、「遵議日本通商事宜片」同治九年十二月初一日、『李鴻章全集 (2)』時代文藝出版社, 1998.7., 776頁) 。
日本の近代化努力を評価していた李鴻章は、「日本、近在肘腋、永為中土之患」と認めつつ、「該國……其志固欲自強以御侮。究之距中國近而西國遠、籠絡之或為我用、拒絶之則必為我仇」と考え、警戒しながら、西洋列強と対抗する時利用できると考えて条約を結ぶことにした。だから日清修好条規の交渉は、清朝側が積極的に取組んだのである(同上、 776-777頁) 。
「条約」でなく「条規」と命名したのも、西洋列強に強要された不平等条約と区別して対等の公正な条約であることを強調するためである。そのことは、李鴻章が「細査日本與泰西各國所換條約、及中國與泰西各國交渉年來已形之弊、● (別の偏) 立兩國修好條規・通商章程」と書いているところから推察できる(奏稿巻十八、「日本議約情形折」同治十年七月初六日, 同上,809頁) 。
だが清朝にとり、日清修好条規は以後、対外関係上の頭痛の種となる。李朝と対等の国であった筈の日本と対等の条約を結んだため、李朝の対日関係を混乱させた上に、清朝外交を補強する筈の日本が中国の天下システムを解体し始めたからである。
先ず、台湾征討 (明治 7/同治13/1874) に際して琉球漁民を日本国民と認めた上、台湾が「化外の地」であると言明して台湾住民を見捨てた。
次に、日鮮修好条規 (明治 9/光緒 2/1876) が第一款劈頭で「朝鮮國ハ自主ノ邦ニシテ日本國ト平等ノ權ヲ保有セリ」と謳い、「属国でありながら自主」という清韓藩属関係のうちの「自主」を強調して「宗属性」を霞ませた(『日本外交年表竝主要文書 (上) 』原書房、昭和40.11.25, 65頁) 。
また、日本が琉球藩を沖縄県として公式に版図に組み込む琉球処分 (明治12/光緒五/1879) を行い、清朝との藩属関係を解消させた。
更に清佛戦争の結果、清朝(李鴻章)は1885年の天津条約で越南のフランス保護国化を認める。翌1886年、第三次ビルマ戦争により、英国が ビルマをインド帝国に併合した。
かくて清朝は、東南アジアに於ける藩属国を失った。
天下システムを支える朝貢国の激減に直面した清朝 (李鴻章) は、「最後の朝貢国」朝鮮の李朝との宗属関係を強化しようとして、初め馬建忠、次いで袁世凱を朝鮮に送り込み、李朝の内政・外交に対する指導を強化する。「属国自主」という宗属体制の「属国」性の強化、「自主」性の弱体化を図ったのである。かくて朝鮮半島の「属国か」「自主か」を巡り、日本との対立を深め、日清戦争の激突までまっしぐら──というのが通説であったが、日本側の内情を見ると、決して一直線ではない。
2007.12.14追記:馬建忠について、新刊が出た。岡本隆司『馬建忠の中国近代』 (京都大学学術出版会、2007.11.10) である。これも目下読み始めたところだが、実に面白い。「歴史は些事の積み重ねから成る」ことを痛感させられる。些事をうんと知る「虫の目」、大局を概観する「鳥の目」、流れを把握する「魚の目」を併せ持たないと何事も本質は掴めないが、本書を読めば、「些事を知る喜び」を感ずることができる。
以下本論は、紙数の関係で、「日清戦争の東アジアに於ける画期」の諸局面のうち、日本の変化に焦点を当てて解明する。日本を内政型の国づくりから外征型に転換させた画期は日清戦争とそれが惹起した日露戦争であり、強国日本というのは、李朝・清朝の中華思想・天下システム護持姿勢との悪戦苦闘の産物だというのが本稿の趣旨である。
三 天下泰平の江戸から富国強兵を目指す明治へ
武家政権が築いた泰平社会
徳川幕府が二世紀半に亘る泰平を築いたのは、武家政権だったからできたことである。武力で天下を握ったが、大砲や鉄砲は蔵にしまい、武士は官僚化した。戦争がなくなったので、武装は儀式化し、防衛費は最小限で済んだ。
江戸時代の幕藩体制は、一面で中国の天下システムに似ている。徳川家は宗主国の如きもので、各藩は参勤交代という名の朝貢の義務を課せられた藩属国の如きものである。
因みに、藩とは大名の領国を言い、大名とは一万石以上の領主をいう。藩は江戸時代初期の百数十から幕末の二百余と増減がある。幕府は各藩の内政には干渉しないから、内政で「自主」であることも藩属国の如きものである。各藩主は正妻と長子 (相続者) を人質として江戸藩邸に置かねばならなかったが、江戸藩邸は大使館の如きもので、江戸で藩間外交が行われた。
各藩は参勤交代の費用と江戸藩邸の維持費とで国許経営の倍の費用がかかる構造になっていたため、軒並み財政赤字、つまりは破産に直面する。そこで藩財政健全化努力が不断に求められる。かくて日本は、江戸時代に、江戸幕府を含めて各藩が不断に国づくり努力を迫られた。
江戸時代後半に日本が戦国末期に輸入していた主な製品を全部自給できるようにした上、各地に特産物を育てたのは、明治の nation-buildingを先取りしたものと言える。日本は、機械こそ導入しなかったが、江戸時代後半に手工業革命を行い、農業段階から軽工業段階に入っていたのである。
江戸時代後半の手工業革命については、勤勉革命 industrious revolution として、西欧の工業革命 industrial revolutionと対比する興味深い説がある。西欧の産業革命・農業革命は資本集約・労働節約的であったが、日本の場合、土地が狭く、農業開発で平地を使い尽くしたあと、費用が上昇して家畜の餌場が維持できなくなり、資本 (農地) 節約・労働集約的な勤勉による手工業革命がなされた、というのである(速水融・宮本又郎編『日本経済史I経済社会の成立』岩波書店、1988.11.30, 36頁/速水融『歴史人口学で見た日本』文藝春秋、平成13.10.20,96-98頁) 。
2007.12.14追記:江戸時代の日本の勤勉革命については、下記が最もよくまとまっている。速水融「近世日本の経済発展とIndustrious Revolution」 (速水融・斎藤修・杉山伸也編『徳川社会からの展望──発展・構造・国際関係』同文館、平成元年6.30,19-32頁)
勤勉革命とは、働けば働くほど収入が増えたことを意味する。これは、米中心の年貢制度の下に出発した「天下泰平」の江戸時代が消費社会と高度経済成長を招来し、そのため商業的作物と加工業が発達して、武家支配が商業的発展の成果をうまく取込めなかったことによる。
かくて日本では、統治者である武家が貧困で、被統治者である庶民 (農工商) が経済発展の担い手として武士よりずっと裕福となり、文化生活を楽しむ余裕のある中産階級がたっぷり育つ国家が出現したのである。
明治時代の機械を使う軽工業時代に比較的円滑に追随できたのは、江戸時代後半、各藩には、財政改善努力を通じて国家経営に習熟した官僚が育っていたことと、この手工業革命を通じて効率経営に通じた勤勉な庶民がたくさん育っていたことによる。
世界史の中で西欧と日本だけが封建時代(地方分権・地方割拠による地方の効率経営)を持ち、近代国家経営を実らせたのは、ここに由来する。
建軍:海陸軍から陸海軍へ
幕末、平和に自給自足して暮らしていた日本に対する脅威は海から来た。従って心ならずも「開国」させられた日本の安全保障の順位は海主陸従となった。だから新政府が王政復古の大号令を発した直後の慶応4.(明治と改元するのは慶応4.9.8 /1868.10.23のこと)1.17/1868.2.10,新政府が三職七科の官制を定めたとき、七科の一つとして海陸軍科を置いた。海軍が陸軍の上であったのである。慶応4.閏4.25/1868.6.15,太政官は諸藩の貢士に「海陸軍興隆の策」を諮問している(藤田嗣雄『明治軍制』信山社、1992.12.30, 38頁) 。
新政府独自の軍建設は、將校養成から始まる。陸軍は慶応4.7.2 /1868.8.19 兵学校を京都に設置、翌月開校。以後、兵学所→兵学寮→陸軍士官学校と改称し、場所も大阪→東京と変る。海軍は明治2.7.8 /1869.8.15,兵部省設置に伴い、東京築地の海軍操練所を再開し、学生募集を開始。これが海軍所→海軍兵学寮→海軍兵学校と改称し、場所が広島県江田島に落ち着く。
だが、新政府が寄合い所帯である上、財政不如意の悲しさ、国内の軍事統一と相次ぐ内乱鎮圧に追われ、陸軍の整備が海軍より優先され、名称も陸海軍と陸主海従に変る。海陸軍という公用語が陸海軍に変るのは、明治5.2.28/1872. 兵部省を廃止して陸軍省・海軍省に分けて以来である。陸軍は幕府陸軍を踏襲してフランス式、海軍はイギリス式となった。但し陸軍は、普佛戦争で プロイセン陸軍が圧勝したため、やがてドイツ式に切替えられる。
篠原宏『陸軍創設史──フランス軍事顧問団の影』(リブロポート, 1983.12.15) がこの間の経緯を詳しく、かつ興味深く述べている。
話を元へ戻す。新政府が海陸軍務科を設置しても、海軍に艦船なく、陸軍に手兵がなかった。
海軍は海軍省設置時に幕府及び諸藩から接収した艦船17隻 1万3832トンの寄せ集め艦隊で出発した。
軍艦14隻、運送船 3隻の内訳については、下村富士雄『近代の戦争(2) 日露戦争』 (人物往来社、昭和41.6.10)の末尾にある松下芳男「解説・軍艦小史」 341-342頁参照。
これによれば、日本海軍の艦艇保有量は以下のように変る。
1881. 明治14年末 19隻 2万4000トン
1894. 明治27年、日清戦争開戦時 31隻 6万トン
1904. 明治37年、日露戦争開戦時 152隻 26万トン
1941. 昭和16年 対米戦争開戦時 254隻 106万トン
2007.12.14追記:海軍に関しては、篠原宏『海軍創設史──イギリス軍事顧問団の影』 (リブロポート, 1986.2.10)や、野村實『日本海軍の歴史』 (吉川弘文館、2002.8.10) を見よ。
陸軍は、長州の大村益次郎の国民皆兵による新国民軍養成路線と、薩摩の大久保利通の士族利用・藩兵接収路線とが衝突するが、明治2.9.4 /1869.10.8 大村益次郎襲撃→暗殺により、差当り大久保利通の士族利用路線が行われ、明治4.2.13/1871.4.2, 薩摩・長州・土佐三藩に兵を献上させて親兵を編成した。歩兵 9個大隊、砲兵 6隊、騎兵 2隊から成る 1万人の直轄軍ができた。
やがて廃藩置県により各藩の藩兵が解散し、政府は東京・大阪・東北 (仙台) ・鎮西 (熊本) の四鎮台を設置した。
東京鎮台条例に「管内ノ兵制ヲ堅固ニシ、内ハ草賊姦究ヲ生セサルニ鎮圧シ、外ハ外寇窺●(穴/兪)ヲ兆セサルニ防御スルヲソノ本務トス」(陸戦学会『近代戦争史概説 (上) 』九段社、昭和59.10.20,2頁) とあるように、鎮台とは内乱鎮圧用の軍隊である。歩兵18個大隊と親兵とで 1万4000人。旧藩兵による常備軍である。
問題は北海道である。
幕末以来、日本にとって最も危険な外敵は、北辺から来る ロシヤであった。そのロシヤ の 脅威に備えるべき北海道に、鎮台を置く余裕がない。やむなく明治8.5.、屯田兵を置くことにした。農業を営んで自立して防衛に当る兵である。
これは、北海道開拓使黒田清隆が尽力し、旧仙台・庄内・松前藩士の失業士族救済の意味を兼ねていた。初め 200人、後に 4万人。北海道の屯田兵が第七師団になるのは日清戦争後の明治29年/1896年のことである。
大村益次郎の国民軍構想も、後継者、山縣有朋を得て、明治4.廃藩置県→明治5.徴兵の詔書→明治6.徴兵令発布により、実現する。明治 6年以降、徴兵検査合格者が入隊し、ここに近衞部隊 (親兵を改称) と東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の 6鎮台からなる国民軍ができる。定員 3万1690名、14ヶ所に駐屯する歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵から成っていた。
彼ら国民軍が、徴兵令に不満を持つ叛乱士族集団と激突するのが、明治10年の西南戦争である。
西南戦争で大規模な内乱はなくなるが、明治10年代は自由民権運動という名の反政府運動の盛上がりがあり、明治14年の政変という政権内部の大分裂があって、内乱鎮圧用の軍隊という意味の「鎮台」が維持される。鎮台が師団と改称されるのは、明治憲法体制が整う明治21年/1888年のことである (師団司令部条例公布/鎮台条例廃止) 。
消極防御から積極攻勢への転機1):壬午軍乱
この軍隊は、鎮台という名から判るように、国内の治安維持用の軍隊で、外征どころか、外敵を防ぐ能力もなかった。明治 7年/1874. の 台湾征討は、形は外征だが、実態は征韓論同様、内政問題の処理に過ぎない。
日本の軍隊は、陸海軍共に明治10年代は「海岸砲台等による固定的防御を主体とした消極的守勢戦略思想」の枠内に留まった(黒野耐『帝国国防方針の研究──陸海軍国防思想の展開と特徴』総和社、2000.9.25, 22-23頁) 。
一つの転機が明治15年/1882年に来る。
7.23、朝鮮京城で発生した壬午軍乱 (朝鮮事件) である。朝鮮の旧軍兵が給与の不満から叛乱を起こし、新軍を教練していた日本の堀本少尉らを殺して日本公使館を襲撃した事件である。花房公使が英国の測量船に乗せて貰って長崎に避難した。
折から日本は、西南戦争後のインフレを収束させるため、一大決意を以て松方正義藏相が緊縮財政政策 (紙幣銷却+兌換制実施) を始めたところである。
壬午軍乱をきっかけに、軍備増強が図られる。但しまだまだ「積極攻勢」体制にはほど遠いレベルである。
松方デフレ政策の展開と明治16年以降の海軍拡張とについては、室山義正『近代日本の軍事と財政──海軍拡張をめぐる政策形成過程』 (東京大学出版会、1984.12.15) が詳しいが、それにも拘らず、日本の国防が基本的に防衛的なものであったことに注目しておきたい。
消極防御から積極攻勢への転機2):日清戦争
日本の国防方針を詳しく究明した黒野耐は、明治時代の日本の主敵はロシヤであるという。そのロシヤに日露戦争で勝ったあとの明治39年の作戦計画以降に初めて「海外における領土・権益を維持・拡張するための能動的立場を基本とする『攻勢』」政策をとったが、それまでは「守勢防御」と言い、「攻勢防御」と言っても、基本はロシヤを警戒しつつの「守勢」路線だという(黒野耐、同上、37頁) 。
日本の国防に神経を尖らせていた山縣有朋は、日清戦争の前年に書いた「軍備意見書」でこう言う(『山縣有朋意見書』原書房、昭和41.11.15,220-221頁) 。
「東洋の禍機は今後十年を出てすして破裂するものと想像せさるへからす其時に及んて我邦の敵手たるへきものは支那にあらす朝鮮にあらすして則ち英佛露なり」
そして山縣有朋は、この頃の意見書で頻りにシベリア鉄道開通によるロシヤの西進を警戒している。
このことからも、日露戦争に勝つまでの日本が「積極攻勢」を原則とするだけの実力を具えていなかったことが推察できよう。
日清関係:天津条約後、緊張から安定へ
この日本軍の「守勢」原則を陸軍内の葛藤と井上馨外交に求め、井上外交が東アジアに「十年間の安定期」を齎したと解明したのが、大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事──内閣制と軍備路線の確立』 (熊本大学法学会叢書4 成文堂, 2001.3.30) である。
大澤博明は「はじめに」でこういう。
1880年代 (明治13〜21年) の 朝鮮を巡る日本の東アジア政策についての通説は、日本の勢力拡張を認めるものである。82年の壬午軍乱を契機に、遅くとも84年の甲申事変 (金玉均ら親日派のクーデター。失敗して日本に亡命) を画期として日本が朝鮮支配のための対清戦争意図を確立するものと理解してきた、と。
この通説に批判的な見解もある、と大澤博明は、田保橋潔の『近代日鮮関係の研究 (上下) 』 (原本は昭和15年刊行)を挙げる。田保橋潔は、日本の東アジア政策が「朝鮮独立政策」と「対清協調政策」に分裂していたと捉える。これを継承した研究では、外交=対清協調、軍部=対清対決と図式化したりすると。
そうではない、と大澤博明はいう。「内閣制創設過程 (憲法制定過程) において日英清三国協調体制とそれに見合う朝鮮保全機能を担う軍事力の整備こそが政府政策の基調となった」。これを明らかにして「新たな日本外交・軍事像を提示すること」が本書の目的だと。
以下、大澤説の要点を紹介しよう。
第一章「陸軍近代化と陸軍内権力状況」では、陸軍が出発当時、フランス軍事顧問団の指導により自由闊達な気風を養っていたことが指摘される。但し戊辰戦争以来居据った將軍・将校に無知無能者が多かった。
この将校教育について、軍内に二派の対立が発生する。
フランス派=曽我祐準・三浦梧樓・谷干城・鳥尾小彌太ら「四將軍」の「平和派」系統
ドイツ派=山縣有朋・大山巖・桂太郎の「強硬派」系統
陸軍内のこの二派の対立については、前掲、篠原宏『陸軍創設史──フランス軍事顧問団の影』第十三章にも記述がある。
第二章「海軍拡張とその混迷」で、海軍にも建軍構想に関して二派あったことが紹介される。
明治12年/1879. の 琉球処分 (琉球藩の沖縄県化) で日清間の緊張高まり、清朝の日本を目標にした海軍拡張が始まる。
清朝は明治14年/1881. ドイツに7000トン級の定遠・鎮遠を発注する。
日本も海軍拡張に迫られるが、拡張重点に関して、日本海軍内部に両論が並立する。
艦隊決戦論 (攻勢戦略・砲力中心/戦艦中心論) =樺山資紀海軍大輔・仁礼景範海軍軍事部長
沿岸防御論 (防御戦略・水雷中心/巡洋艦+水雷艇論) =川村純義海軍卿・赤松則良主船局長
これは、 戦艦路線 (艦隊決戦用の甲鉄艦) か、水雷路線 (海岸防御用の水雷艇) かの対立である。水雷は、費用が安いので、経済的弱者の武器と言える。
ここで、当時は造艦技術の日進月歩期であったこと、やがてマハンの「制海権の思想」、即ち戦艦中心論が入ってくることを念頭に置いておくと、その後の展開 (日清戦争・日露戦争を通じて日本が強硬論・拡張論に傾くこと) が理解しやすい。
さてここで、その流れを変える重大事が起きる。
明治17年/1884.12.4 ソウルで甲申事変が起きた。清朝への朝貢を止めて名実ともに独立国になろうとした朝鮮独立派のクーデターである。
彼ら独立派は清朝が清佛戦争で手を奪われている隙を狙い、日本と提携して清朝からの自立を達成しようとした。
他方、ロシヤとの密約により、ロシヤの保護国にして朝鮮を清朝から自立させることを策したのが メレントルフ である(岡本隆司『属国と自主のあいだ』 158頁以下参照) 。
これは、幕末以来、北からのロシヤの脅威に曝されてきた日本にとって一大事の事態であるから、朝鮮保全、つまり朝鮮にロシヤ勢力を引き込ませないことが日本の一大目標となる。
ロシヤの南下について神経を尖らせていた英国の存在もある。東アジアにおける英露の角逐である。
この辺の列国の錯雑した関係を頭に入れておかないと、当時の東アジアの複雑な状況が掴めない。
甲申事変はあっけなく片づいた。李鴻章が朝鮮に派遣していた袁世凱が、清朝駐留軍を使って劣勢の日本軍を掃討したのである。日本公使館は焼かれ、竹添進一郎公使は仁川に避難し、クーデターの首謀者金玉均らは日本に亡命した。
この甲申事変の後始末をしたのが、伊藤博文と李鴻章が明治18年/1885.4.18 調印した天津条約である。朝鮮からの日清両軍共同撤兵、将来、派兵する時は行文知照する、などが決められている。
流れを変えたのは、これで日清間の緊張がほぐれたことである。
以後、日清戦争勃発まで、10年間の安定期が日清間で続く。
十年間の安定期
明治15年/1882.7. の 壬午軍乱を契機とする日本の陸海軍拡張計画は、財政を破綻に追い込む。
松方財政整理→デフレ→税収低下→軍拡財源低下
ここで井上馨外務卿の親英清路線(対露で結束して日本の外交的孤立を回避)が発動する。天津条約調印は、駐清英公使 パークス の 仲介により、ロシヤの朝鮮半島進出阻止で英日清が共同防衛を図る諒解をう基礎づけたものであった。
日英清三国艦隊が共同で ウラジヴォストークを攻撃して通商航路の安全を確保する構想まであった。
李鴻章は天津条約のための 4.15 の 伊藤博文全権大使との会談 (筆談) で、対露日清密約まで提案している(伊藤博文編『秘書類纂・朝鮮交渉資料 (上) 』原書房, 原本:昭和11年/復刻:昭和45.8.20, 640頁) 。
当時、英露の開戦が予想されていたため、伊藤と李はその時の対策まで語り合っている。
かくて日清両国は、英露対決の狭間で、イギリス寄りの日清協調路線に向かうのである。そしてこの日清協調路線こそ、井上馨外務卿が追求した「ロシヤの脅威の下での対英清協調路線」だった。
紙数がなくなったので、結論を急ごう。
憲法体制・内閣制度の発足を控えた伊藤博文は、東アジア情勢の安定を望んでいた。外務卿井上馨は条約改正という最大問題を解決するため、列強の代表である英国との協調と、東アジア の 安定を望んでいた。また終始一貫、日本の国際環境の平和と安定を望まれた明治天皇は、対外戦争を徹底的に回避しようとされた。日清戦争でも、最後の最後まで開戦を渋られた。
昭和天皇が昭和16年/1941年、日米交渉が行詰ったとき、 9月 6日の御前会議で明治天皇が詠まれた
四方の海皆同胞と思ふ世になど浪風の立騒ぐらむ
を繰返し読み上げられたことを想起せよ。
そして明治天皇は、守勢派の四將軍の登用を切に望まれた (大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』27/28/92頁そのほか) 。
こうして天津条約締結以降、日本は明治天皇・伊藤博文・井上馨・陸海軍軽武装派という系列が主導権をとり、陸海軍の重武装派を抑えて行くのである。
軽武装派は、財政整理・民力育成を優先し、朝鮮半島へは英清との協調の下に、ロシヤの進出を防ぐため、精々「常備 1個師団」の派遣を考えるに留まった。
平和を望む軽武装派が 1個師団の派遣を考えていたのは、天津条約第三条の
「將來朝鮮國若シ變亂重大ノ事件アリテ日中兩國或ハ一國兵ヲ派スルヲ要スルトキハ應ニ先ツ行文知照スヘシ」
のいう「重大事件」は、ロシヤの介入を予想していたからである。
軽武装派は、英露対立と天津条約を前提とする朝鮮保全策であったから、それに必要な外征可能な軍は 1個師団だけ整備して済まそうと考えていたのである。
しかもこの 1個師団の派遣は、日本の兵站基地機能と相俟って、ロシヤに対抗する英国への交渉力として利用するつもりだった (大澤博明『近代日本の東アジア政策と軍事』 84-85頁) 。
これに対して重武装派は、明治18年/1885.10.の 大山巖陸軍卿の意見書がいうように、我々は「兵備を一新して七軍管内師團旅團の編制に改め……明治21年を期し悉く此大事業を完結し、一朝有事の日に方り約ね20万の戰兵を興するに足るべきの基礎を籌劃」してきたではないかと文句をつける (大澤博明、同上、86頁) 。
彼らは、20万の陸軍を動員して北京を攻略し、清朝に手を引かせて朝鮮を支配しようと考えていたのである。
だが当時の日本の財政力では、対清決戦論は非現実的であった。
帝国憲法制定・内閣制創設過程で、伊藤・井上の日英清三国協調枠組みの定着化と朝鮮保全・対英戦時同盟構想に向けた軍備路線が日本の政治の中に構造的に定着して行った。そして三浦梧樓を中心とする陸軍近代化運動は、四將軍派の地位向上を齎す。11名の青年将校を集め、明治14年/1881.1.28 長岡外史宅で開かれた兵学研究団体「月曜会」が忽ち参加者を集め、明治21年/1821年には1678名の会員を擁していた (大澤博明、同上、 5頁) 。
三浦梧樓ら「四將軍」の陸軍近代化運動 (薩長派閥の排撃を含む) は、月曜会に見られる若手将校と連動して、陸軍内で大きな勢力となりつつあった。
尤もこの流れは陸軍主流派に抑えられ、天皇−四將軍派−井上外務卿の提携関係は分断されるが、三浦梧樓らの軽武装派の流れは主流派も継承する。
井上外務卿の路線は、日本の財政に制約されたもので、財政を無視した軍拡などあり得なかったからである。
大澤博明はいう (大澤博明、同上、 149頁) 、
「甲申事変時に日本が兵力不足を自覚して対清戦争を先延ばしにして天津条約を結び一時的妥協を成立させ時間を稼ぎその間に対清戦争勝利に向けた軍拡に励んだ、とする理解ほど当時の開戦論者の主張に反するものはない。日本の軍備は朝鮮支配をめぐる対清戦争を基本的に意図しない発想の下に整備されていったのである」
日本の国際協調的東アジア政策は「構造化していた」のである(大澤博明、同上、 183頁) 。
因みに、高崎秀直も通説に反論する同趣旨のことを述べているので、大澤説を補完する意味で紹介しておこう (高崎秀直『日清戦争への道』東京創元社、1995.6.30, 305-308/510-515頁) 。
明治15年(1882)〜明治27年(1894)の明治政府の政策には、二つの潮流が存在していた。
第一、朝鮮政策:対清対決を覚悟しても朝鮮進出を積極的に目指す薩摩派や軍 (大陸国家型路線) と、対清避戦路線をとる長州派 (非大陸国家型路線) 。
第二、軍備政策:この時期、明治政府は清朝に対抗するため大規模軍拡を行った。軍拡の目的に関して、朝鮮進出を目指す薩摩派や軍にとっては対清対決のためのものであったが、対清避戦方針をとる長州派にとっては万が一の事態に備えるものであった。
第三、財政政策:軍中堅層を中心とする軍拡至上主義の路線と、井上馨・松方正義・伊藤博文ら緊縮派の健全財政路線がこの時期、対立していた。
結 論:
この時期の明治政府は、大陸進出を外交目標に、軍拡至上主義の財政路線をとっていたとするのが通説だが、実際は異なり、明治政府は非大陸国家型の「小さな政府」路線に拠って日本の近代化を進めていた。
そしてこの時期の明治国家の在り方や歩みに日清戦争に繋がるものは見られない。
それにもかかわらず明治27年/1894年、日清戦争は勃発した。なぜこうなったのか?
その理由を探るには、この夏の外交政治過程を見る必要がある。
明治27年/1894年に入ると、伊藤首相は、朝鮮内政改革のための日清共同干渉を構想し、李鴻章に働きかけようとしていた。しかし、これに着手する前に東学党の乱が起きた。そして 5月下旬には朝鮮出兵を伊藤首相や陸奥外相は考えるようになった。日清共同干渉構想の実現を考えていたようである。そこへ朝鮮政府が清朝に援兵を要請したことが伝わり、6.2 閣議が出兵を決めた。 1混成旅団八千名を派兵するには名分が必要で、清朝出兵の明確化を待って居留民保護を名目に派兵。
以後、慎重派の明治天皇・伊藤首相と、強行派の陸奥外相・軍との間でいろいろ紆余曲折がある。
強行派の陸奥外相も、高陞号事件が起きたあと、英国の干渉を危惧して増兵不可を主張している。政府が一枚岩でなかった上、各人も一貫しなかった。
内乱の鎮静化、内乱鎮静後の日本軍の留兵とそれに対する清朝側の強い反対、ロシヤ公使の日本軍撤兵要求、日清開戦回避を望む英国の調停等々。
その度に日本政府は動揺し、方針を変えた。
日本政府の躊躇動揺は、出兵決定から 8.1の宣戦布告まで実に 2ヶ月もかかっているのを見ても判る。
動揺していた伊藤首相が対清対決方針を決めるのは、内政への配慮による。
日本の出兵が報じられると、議会の諸派や世論 (新聞論調) は強硬論を唱え、政府に圧力をかけた。
総選挙を間近に控えていた政府は、清朝軍と衝突を決意するほかなくなるのである。
東アジアの攪乱要因:朝鮮半島
では「構造化していた」国際協調路線が、なぜ明治27年/1894年に破綻し、協調を続けてきた日清が激突したのか。
それは李朝の失政が招いたのである。
李朝の両班政権は無能かつ腐敗堕落の極にあって、防衛を清朝に頼りつつ、内政では民衆そこのけで政争にのめり込んでいた。李朝は外交政策も駄目だったが、国内政策はもっと駄目で、民衆は搾取の対象に過ぎなかった (これは歴代中国王朝も同じ) 。
東学党が叛乱した時、李朝は鎮圧の術なく、清朝に救いを求めた。清朝の出兵に応じて日本も出兵し、この際、李朝に徹底改革させて禍根を断とうとした。これが朝鮮を朝貢国に留めようとした清朝の方針と正面衝突する形になり、日清が激突するに到るのである。
その時、日本陸軍にも日本海軍にも、清朝軍に勝つ自信があったとは思えない。日本は北洋海軍が日本に攻めて来る事態も考えていた。実際に戦ってみて、予想外に脆いのに驚いたというのが真相である。日本は初めから「侵略的だった」という通説など、結果論もいいところである。
李朝朝鮮の中華思想は、東アジアの禍根であり、近所迷惑甚だしい存在である。李朝がいかに駄目政権であったかは、李朝末期の事態を少し見てみれば一目瞭然である。
(例えば、以下の書物を参照されたし。呉善花『韓国併合への道』文春新書、平成12.1.20,崔基鎬『日韓併合の真実──韓国史家の証言』 ビジネス社、2003.9.1、黄文雄『韓国は日本人がつくった──朝鮮総督府の隠された真実』徳間書店、2002.4.30)。
このどうしようもない国の自立に散々手を貸した揚句、遂に抱え込まざるを得なくなったのが日本である。そして36年間、近代化の基礎づくりに営々と努力した。
庶民が初等教育を受けただけでも、朝鮮人民がいかに日本の統治から恩恵を受けたか、計り知れないものがある。禿山だった朝鮮の山々も緑で覆われたし、重化学工業施設まで建設した。朝鮮経営は、収支で言えば日本の持出しである。
(滿洲はもっともっと日本の持出しである)
敗戦で手放した結果、駄目な両班 (ハワイイに亡命して徒食していた李承晩が代表) が復帰して、自らの権力の正統性回復のため日本の統治を散々くさしたのが、戦後の韓国の反日論である。
北朝鮮の場合は、ソ連に引立てられた成上がり者金日成が、李朝の両班支配を真似てつくった専制支配が金日成体制であり、その金日成体制を、金日成を神に祀り上げ、自分を神主にして新興宗教国家の形に編成替えしたのが金正日体制である。主体思想とは、金日成教の教義であった。そして北朝鮮も同じく、反日を正統性の根拠にしている。
韓国も北朝鮮も、日本からうんと学びながら、敗戦後、日本の実力行使の心配がなくなったので、日本をくさして人心統合を謀った。
清朝の避戦派と主戦派の葛藤
清朝側に関して言えば、日清戦争時、清朝政府にも、開戦論と非戦論が対立葛藤していた。
避戦派の筆頭は北洋大臣直隷総督李鴻章である。彼は朝鮮事情にも日本事情にも精通しており、北洋艦隊の弱点を知り抜いていた。海軍費を西太后の頤和園造成費に流用され、鎮遠以降、海軍建設が停頓した。
「甲午戦争前の 6年間に、日本は毎年 2隻を新造しており、その装備も質も北洋海軍を遥かに上回っていた」というのは橋立・松島・厳島の「三景艦」が設計の不備で実戦では活躍できない「机上の空論」型艦艇だったことを考えれば明らかに過褒だが、日本海軍の質の高さについてなら、当っている。
(戚其章『晩清海軍興衰史』人民出版社、1998.4., 333頁。北洋艦隊の一覧表については、胡立人・王振華主編『中国近代海軍史』大連出版社、1990.2.,17/121頁を参照)
西太后は、日清戦争開戦の年の12月に予定していた還暦の祝いを無事祝うことしか考えていなかったのである。清朝滅亡の危機感など、全然持っていなかった。
西太后は、自分の権力の座を保持してくれる李鴻章に面倒な夷狄との交渉を任せて頼り切っていた。
この避戦派に噛みついたのが、新帝光緒帝とその一派である。その代表が、光緒帝の師傅であった翁同和 (戸部尚書) と、「清流」の後楯として知られる李鴻藻 (禮部尚書) である。彼らは新帝を擁して新政を考えており、伝統擁護の代表である李鴻章の勢力を叩き潰そうとしていた。そこで李鴻章の権力基盤である北洋軍を日本軍に叩かせようと主戦論を唱えたのである。
彼ら主戦派は、日清戦争敗北後、戊戌の変法の推進勢力となることは周知の通り。
李鴻章は、権力基盤を弱めたくなかったので避戦に努め、以夷制夷策によって列国の調停ないし干渉を誘い、朝鮮への派兵を渋る。そこで少数逐次派兵となり、これが敗因の一つになる。この李鴻章の列強、特にロシヤへの働きかけが、戦後の三国干渉を惹起するのである。
李鴻章の以夷制夷策は、「臥薪嘗胆」の十年を経て、日清戦争時にはまだ未熟な外征国だった日本を、外国から借金してまで日露戦争を戦う羽目に陥れ、日露戦争後の既得権益防衛を通じて、本格的な外征国に育ててしまう。
日本の所謂「軍国主義」を育成したのは、清朝(李鴻章)と李朝が採用した中華思想、即ち「以夷制夷」の日本牽制策だったと言える。
日本にとって、中華思想を奉じ、「以夷制夷」を実行した清朝・李朝は実に近所迷惑な国であった。
些か尻切れとんぼながら、あとは引用した文献を読んで戴くことにして、ここで私の論述を終える。
今、東アジア国際関係は一部、19世紀に逆戻りしている感がある。中華人民共和国も朝鮮民主主義人民共和国も大韓民国も中華思想・事大主義に先祖返りし、日本との対立を深めているように見えるからである。
第二次世界大戦後、再び守勢国家に戻った日本を、中国・北朝鮮・韓国は「水に落ちた犬は叩け」とばかり侮って、ほしいままに挑発しているように見える。
日本が再び攻勢国に戻ることなど絶対あり得ないと決めてかかっているのであろうか?