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「殖民化と近代化──日本統治時代の台湾を検証する」2007.9.8



  文明論から見た日本の台湾統治(再訂正版)


帝塚山大学名誉教授 伊原吉之助


 これは、台湾の亞東關係協會と國史館が共催した「2007年台日学術交流国際会議」(台北)で私が報告したものです。文章化したところと、レジュメ的なところが入り交じっています。


I.台湾現代史に於ける日本統治の意味:「近代国家」「文明社会」の実現

(1)日本の台湾統治:野蛮から文明へ

  私の報告のキーワードは「文明」と「野蛮」である。文明を、人間関係に於て他人が信用できるか否かで規定する。そこで、シナ=野蛮=低信用社会、日本=文明=高信用社会と判定する。人と人の間の信用関係は、顔見知り関係が成立つ程度の小集団 small groupには通常存在しているが、不特定多数を含む大社会 great societyに存在するか否かが、ここでいう野蛮か文明かの決め手となる。大社会での信頼関係とは、見知らぬ他人をいちいち疑ってかかる必要の有無の問題である。例えば次のように──

 今から三、四年前のサンフランシスコ空港の売店での話(注1)。

 女性店員が引継ぎをしていた。「商品を見せて、ほかのも見たいといわれたら、必ず初めの物はしまって鍵を掛けてから別の商品を出すのよ。そうしないとお客が帰ったあと、気づくと三つくらいなくなっているから」と。但しこの女店員は、こう付け加えた。「でも、日本の飛行機会社のチケットを持ったお客なら大丈夫だから心配無用よ」


 日本が文明社会=高信用社会になるのは江戸時代後期(18世紀) 以降であり、世界史上、一番早い。

 西欧が文明社会=高信用社会になるのは19世紀、国民共同体がフィクションとして通用するようになる国民国家の形成以降である。

 シナは終始一貫、有史以来現在の中共政権に到るまで低信用社会である。シナ地域は過大・雑多・多言語で人間不信だから、平等と信頼関係を機軸とするヨコ社会(共同体)ができない。寧ろ、タテ社会・上意下達の専制支配の政治が「ヨコの人間関係」をつくらせなかった。人間不信だから、密偵と密告網を張り巡らせ、専制支配をするのである。明の太祖、朱元璋(洪武帝)が権力獲得後、功臣を次々殺した人間不信の根深さを見よ。自分が指定した後継者劉少奇・林彪を追い詰めて殺し、忠実だった周恩来に癌手術を受けさせず、いびり殺した毛沢東の猜疑心の深さを見よ。


 清朝が台湾を版図に入れるのは統治するためではなかった。鄭成功が明朝支援の基地にしたため、今後二度とそういう事態が起きぬよう叛乱勢力(海賊)を台湾から締出すためであった。そして清朝時代の台湾は「三年小叛、五年大叛」「化外之地」「不断の分裂械闘」の僻地であった。


 シナが低信用社会であったことの一応の説明として、以下の指摘を挙げておく。


 例1:管仲・鮑叔の例 (注2)。管仲は若くして鮑叔と知合ったが、貧乏な管仲はいつも鮑叔を騙し、金を貪ったり、不利益を与えたりした。その度に鮑叔は文句一つ言わず管仲の言う通りにした。鮑叔は管仲が「賢者」であることを知っており、将来大をなす人物と判断していたからだと。結局、管仲は鮑叔の推薦により、斉の大臣になるのだが、シナでは「友を騙す」ことが出世の妨げにならないのである。


 例2:福沢諭吉の日清戦争=「文明と野蠻の戰爭」論。『時事新報』に「破壊は建設の手始めなり」と題して、「我日本國の力を以て彼等の開進を促がし、従はざれば之に次ぐに鞭撻を以てし……力を以て文明を脅迫するとは、外見或は穏ならざるに似たれども、一時の方便にして、他に誘導の道なしとすれば外見の如何を顧るに遑あらず」云々と説く(注3)。福沢がここでいう「彼等」は、直接には李氏朝鮮を指すが、李氏朝鮮を朝貢体系の中に閉じ込めようとしている清朝も同類である。「朝鮮の獨立を確保して、清國の迷妄を覺醒せしめ、この兩國を文明に導いて、以て東洋の平和を維持しようといふのが、福澤の東洋政略であつて、『時事新報』發刊以來、絶えず主張し續けて來たところ」(注4)である。


 例3:(日清戦争は)「其根源を尋ぬれば、文明開化の進歩を謀る者と其進歩を妨げんとする者との戰爭であつて、決して兩國間の戰ではない。本來日本國人は支那人に對して私怨もなく敵意もなく、世界の一國民として人間社會に普通の交際を欲するも、如何せん彼等は頑迷不靈にして普通の道理を解せず、文明開化の進歩を見てこれを喜ばざるのみか、反對に其進歩を妨げんとして無法にも我に反抗の意を表したるが故に、止むを得ず事の茲に及んだのである」(注5)


 例4:フィリップ A.キューンの指摘(注6)。清末のシナ社会の「人が信用できない」状態を如実に述べている。この低信用状態は、中華民国から中華人民共和国を通じて現在に到る。現在は、中共の密告制のため、低信用が中国史上最高段階に達している。


 例5:明治42/1909.8.30福島歓迎会席上の伊藤博文談話 (注7)。「支那の憲法政治が成功するか否かは初めから疑はしいものである」。第一に、国土広大で交通の便少なく、議員の召集は容易でない。第二に、伝統の力が強固で法や制度の改革が難しい。第三に、憲法政治の基本は地方自治だが、支那にはその基礎がない。「支那の領土の廣大なること、其習慣の容易に改まらぬこと、地方自治の鞏固ならざること、交通機關の不備なること、法律と習慣が根本的に符合せぬもの (憲法) を制定して、果して實行せらるゝであらうかどうか……甚だ寒心の至りに堪へぬのである」


 例6:妻も信用しないシナ人(注8)。岡田英弘『妻も敵なり:中国人の本能と情念』第二章の表題=「中国人──妻すら敵と考える民族。なぜ彼らは自分以外の人間を信用しないのか」。数千年もの間、あの広大な大陸に存在していたのはばらばらの「個人」のみ。住民にとって頼りになるのは自分だけ、自分を守ってくれるような国家も民族もなかったから、というのである。「他人はすべて敵、油断をすればいつ寝首を掻かれるか分からないという考えが、中国人のメンタリティの中に牢固として根ざしている」


 例7:1994.3.30,総統公邸に於ける李登輝・司馬遼太郎の対談「場所の苦しみ:台湾人に生まれた悲哀」より(注9)。第一、「夜、安心して眠れる国にしたい」というのが……李登輝博士の願いであり、願いは今もつづいている。第二、司馬「台湾は文明国ですね」。朝五時になったら牛乳受けに牛乳が入っている。いちいち牛を飼って乳を搾ることもなく、牛乳配達をする人が途中でゲリラに殺されることなく、安全に届けられる(伊原注:盗られる心配がない)。朝に新聞が無事に入り、世界中の情報を読める、これが文明だと思うんです。そういうものが台湾にはあり、さらに充実しようとしている。


 例8:中共政権下のシナも相変らず、いや、以前にも増して「低信用社会」であること(注10)。「内乱、戦乱、反乱がいつ、どこに起きても不思議のない中国社会では、自分の血のつながっている人間しか信用しない。それも利害が反すれば、血族であっても徹底した争いをする。最終的には自分以外誰も信用しない、できないのが中国人なのである。中国建国の父・毛沢東も、正式な結婚だけで四回、自分が後継者と決めた劉少奇・林彪も抹殺した。妻も信用できない、自分が定めたNo2 も信用できない。絶対者毛沢東も歴代王朝の皇帝同様、側近、親族、実力者に絶えず疑いの目を持っていた」


 例9:世界を毒殺する中国人。最近の毒入りペットフードで犬猫が4000匹死んだ米国の例や風邪薬で3778名が死んだパナマの例、毒入り歯磨きで百人が死んだハイチとドミニカの事件などにみられるように、中国は世界中に毒入り商品や偽商品を散布している。その理由は「他人がどうなろうと知ったことではない」という人間不信に由来する。

 中国が世界中に「近所迷惑」をふり撒いていることに関しては、次の書物を参照せよ。

 James Kinge, China Shakes the World, 2006

 栗原百代訳『中国が世界をメチャクチャにする』 (草思社、平成18/2006.10.4)


 以上はほんの一端に過ぎない。かくてシナは、日本の台湾統治の前後に於て、一貫して「低信用社会」「人を見たら泥棒と思え」状態が続いているのである。


(2)日本統治以後:野蛮(人間不信)へ後退→李登輝総統が文明(信用)を回復・前進に努める

(イ) 講和条約までの「占領」という臨時状態を国府政権は勝手に「接収」に変え、米国は黙認した

 昭和18/1943.11.22-26、米英中の首脳、ローズヴェルト (FDR)、チャーチル、蒋介石がカイロで会談し、台湾と澎湖諸島を「中華民国が回復する」と口約束した。これは、「ぐらつく同盟国を引きずって行くために戦利品を与える事情があった」ので、FDR が蒋介石に口約束したものである (注11)。この口約束は「27日カイロで署名」したとされる「宣言」に記載されるが、これは実はプレスコミュニケに過ぎず、三人が「署名」した文書も存在しない。「カイロ宣言」なるものは、何ら拘束力を持たぬ申合せでしかないことは、周知のところである。中国政府はカイロ宣言を台湾領有の根拠とするが、こういういい加減な文書を振り回すのは、中国政府のいい加減さを問わず語りに暴露する行為である。

 だが蒋介石率いる国民政府 (国府) は「台湾領有」を確信し、近く到来する筈の日本降伏に備え、台湾接収を準備し始めた。昭和19/1944.5.12、国府中央設計局は台湾調査委員会 (主任委員=陳儀) を重慶に設置した。委員は 7人。目的は、台湾に関して政治・経済・軍事の基礎調査と接収計画の起草である。以後、台湾調査委員会は度々会合を開く (注12)。日本がポツダム宣言を受諾した後の8月29日には、陳儀を台湾省行政長官に任命した。

 10月25日の「中国戦区台湾区受降式典」は「連合国」の日本軍受降式典であった筈なのに、陳儀長官は「国府の台湾接収」式典であるかの如く振舞い、式典直後のラジオ放送で「本日から台湾は正式に再び中国の領土になり、すべての土地と人民は中華民国国民政府の主権の下に置かれた」と声明した (注13)。そして米国は、この強引な接収を黙認する。米国が当時目的とした「日本の弱体化ないし懲罰」「国府育成」に役立つからである。

 占領軍とは、停戦後、講和条約締結までの間、敗戦国を軍事管理する役目を持つ。領土の接収とは何の関係もない。だから日本本土を占領した米軍その他は、サンフランシスコ講和条約で任務を終えて日本から引揚げたのだが、帰属先がサンフランシスコ講和条約でも日華平和条約でも明記されなかった台湾と澎湖諸島に、国府はずっと居据わり続けて現在に到るのである (台湾の法的地位未定論→住民自決論) 。


(ロ) まともな「占領計画」は、あるにはあったが……

 国民政府の台湾調査委員会には台湾人が多く参加していた。日本統治時代に国府に投じた台湾人を「半山」というが、彼らの中には、台湾の将来を考えた真面目な人もちゃんと居た。但し、台湾に占領軍として乗込んできてからは、台湾を貪る半山 (連戦の父、連震東もその一人) が輩出し、半山に「売台漢」のニュアンスが伴うようになった。

 台湾占領に備えて、45年4月16日、重慶で半月刊誌『台湾民生報』が創刊された。これに半山らしい人が「● (自/木) 紹」署名で台湾占領策を提言している (注14)。

 1.台湾総督の「委任統治権」やそれに似た特権を台湾社会から排除する。

 2.台湾の地方自治制度は、改善の上、引続き施行する。

 3.祖国当局は、模範的公僕を選び、台湾に派遣する。

 4.当局は、直ちに台湾の現下の物価指数を基準とする新通貨制度を確立する。

 5.当局は、言語・文字につき漸進的変更政策をとる。

 6.当局は、政体の変化に伴う失業を極力阻止する。

 7.当局は、台湾人民の土地所有権に関する不合理な変動を抑える。

 8.当局は、台湾人民の流動資本及び固定資本の激変を避ける。

 9.当局は、台湾人民に言論の自由及び結社の自由を与える。

 10.当局は、余計な混乱・不当な事物の台湾持込みを禁ずる。


 「孝紹」署名の筆者も、以下のような「警告」を発した (注15) 。

 「50年に亙り台湾人は祖国復帰を熱望してきた。……但し台湾人は祖国の落ちぶれた様子を愛さず、祖国のいびつな社会生活も愛さぬだろう」「祖国は、上下を問わず台湾人は全員、『50年間、日本に留学していた者』と見てほしい。この見方は頗る大事である。台湾人を日本植民地に甘んじて居た者とか、日本人の奴隷だったと見做せば (台湾人は通常、誰もが反抗心を持ち合わせているが) 、中国の台湾接収は、中国による台湾の植民地化と何ら変らぬ事態となろう」

 二人の「半山」の提言は、いみじくも「台湾の祖国復帰への危惧」を察知した「予言」となった。


(ハ) 陳儀占領軍は、台湾を略奪対象にした

 蒋介石は、カイロで FDRに台湾・澎湖諸島を要求したが、台湾を重視したからではなく、戦利品が欲しかったのである。カーは「大陸の中国人は台湾に関して全く無知無関心であった」と書いている (注16) 。外省人と一緒に仕事をした台湾人も、「私は中国大陸から来た人がいかに台湾事情に暗く、何も理解していないかを知った」と書いている (注17) 。国家建設より権力闘争を重視する国民党政権は、近代国家日本の統治下で着々建設を進めていた台湾を重視しなかった。だから蒋介石は子分の陳儀に台湾を戦利品としてくれてやったのである。それがシナ軍閥の子分懐柔法であった。


 台湾は日本統治下に於て、前近代的手工業により細々と行っていた砂糖・樟脳を近代的工場生産に切り換えて高品質の輸出品に育て、稲 (米) も新品種を開発して輸出品に育てた (正確には内地に送る「移出品」) 。第一次世界大戦は、産業構造の激変を促した。先進国で一次産品が大増産され、一次産品格安時代が到来したのである (詳しくは後述) 。そこで台湾総督府は台湾の産業構造高度化を計画し、日月潭発電所を建設してエネルギーを確保した上で、昭和10年代、世界恐慌が一段落を告げた頃から台湾の工業化を進めた。台湾の工業生産額が農業生産額を追抜くのは昭和14年/1939年のことである (注18) 。


 台湾の工業は、製糖関連の食品工業が五割以上を占めたが、豊富な電力を基盤とする化学工業を初めとして、軽工業が発達した。従って台湾を国府政権は、戦乱で荒廃した中国大陸への物資供給基地として使えたのに、そしてさらに台湾の人材・生産設備を適切に使えば、中国大陸の復興・生産回復・産業建設を支援できたのに、台湾を占領させた蒋介石にも、直接接収した陳儀にもその意志も能力もなく、単なる戦利品と見做して「権力を利用した略奪と金儲け」に終始した。

 先ず、台湾人を差別待遇した。陳儀が先発隊として台湾に送り込んだ台湾省行政長官公署秘書長葛敬恩が前進指揮所主任として台湾人にこう申し渡した (注19) 。

 「台湾は化外の地、台湾人は真正の中華文化の薫陶を受けていない二等国民である」

 野蛮国の支配者が、文明国の被支配者にはったりをかましたのである。はったりであることは、この「訓話」を聞いた台湾人にはよく判っていた。

 第一、日本統治下で台湾が近代国家化・文明化していて、逆に「祖国」中国の方が「文化・経済のあらゆる面に於て未だ文盲が全人口の大多数を占めている軍閥割拠下の前近代社会のシナ大陸より遥かに進んでいることを、台湾人は承知していた。

 第二、10年前の1935年/昭和10年、「台湾施政40周年記念博覧会」を開催した時、当時福建省主席だった陳儀が参観に来て、台北市公会堂での祝辞で日本治下の台湾がシナ大陸より遥かに進歩していることを認め、「日本国民になった台湾人は幸せだ」と賛辞を呈したことも、台湾人は熟知していた (注20) 。

 台湾人はむかつきつつも、葛敬恩の暴言を聞流した。被支配の弱い立場にある者の野蛮に対する我慢であると共に、相手より高次の文明の立場にある者の余裕でもあった。


 陳儀長官の台湾施政を如実に描いた著作が二冊ある。

 一つは徐瓊二『台湾の現実を語る』 (注21) である。近代国家日本の統治から、前近代の野蛮勢力の支配下に置かれて戸惑う台湾人の様子が描かれている。著者の経歴は不明。「私の如き一介の端た記者」 (56頁) という記述から、日本統治期の新聞記者だったようだ。扉の裏に「この書を新臺灣建設の人々に捧ぐ」とあり、「まへがき」に「この書は民國35年8月中旬より10月初旬にかけて書かれた」「日帝國主義者の治下に過半生を無爲に送つた私の精神生活の決算であると共に、新しい時代を迎へた私の心の準備を現はすものである」とある。祖国復帰を歓迎しつつ、祖国の正体に戸惑う様子が、記述から窺える。二二八事件発生前なので、遠慮勝ち (当局への遠慮ではなく、自分の「祖国歓迎」感情への遠慮) ながらも、かなり率直に実情を語っている。台湾内部からの報告として注目しておく。

 指摘している要点は以下の通り。

 給料の遅配・欠配。政府当局に対する不信。失業者続出。大陸から無能な一旗組が続々台湾に渡ってきて職務にありつき、能力あり働く意志ある台湾人が失業に泣いている。当局は掛声のみでさっぱり実行しない。工場の多くが機械が盗まれたり原料がなかったり停電があったりで操業が碌に出来ぬ。実情にそぐわぬ役人の机上の空論の災い。松山の煙草工廠を見学した、一千二百名居る工員は本省人ばかりだが、俸給が驚くべく低い。彼らは熱心に働くが、この額ではとても暮らせない、これは虐待というほかない。この低い給与を決めたのは省公署の責任者 (つまり外省人) であるが、陳儀長官の意ではないと信じたい。指導層の腐敗、牽親引戚の弊、省民の生活苦に、私達の祖国中国とは一体こんなものかと省民が失望している。これでは日本の殖民地的手法と変らぬではないか、貪官汚吏横行するを以て本省人民衆はすっかり外省人に対する信望を失い、嫌悪を感じている。米所の台湾が米騒ぎを起こさねばならぬとは何たることか、云々。


 もう一つは、カーの『裏切られた台湾』 (既出) である。カーは、戦前の台北で英語を教え、「ジャック・カール先生」として親しまれた米国人である。ハワイイ大学の大学院で蝋山政道博士と知合い、昭和10年 (1935年) から 2年間、日本で研究生活を送る。Traditional Arts in Contemporary Japanという 399頁の大著を書くが、戦争の逼迫のため、ゲラ刷りのままで出版されることがなかった。日本滞在中に台北一中で英語を教えていた友人が健康を損ね、カーを代講に呼ぶ。これで台湾に渡って 3年過ごし、昭和15年 (1940年) に帰国する。数少ない台湾を知る米国人として、カーは戦争中、台湾の占領を企図する海軍に情報部員として起用され、台湾の兵要地誌 (台湾に関する百科全書) を作った。

 戦後は国務省の要員、つまり外交官として台北に駐在し、曾ての教え子から情報を得て、陳儀の不法統治の情報を集め、本省に報告し続けるが、国務省は「台湾はあいつらのものだ」としてカーの報告に取合わない。憤懣やるかたないカーが、不正糾弾の怒りをこめて筆を取ったのが本書である。自身が台湾事情に詳しい上、教え子たちから得た情報を総合し、客観的に綴っているので、国府の統治 (収奪) に関する詳細を極めた報告になっている。


 この両書を読めば、戦後の国府の支配が「野蛮の支配」であり、戦前の日本の統治が「文明の統治」であったことが納得できる。


II.中国国民党の台湾統治が日本の文明統治を浮き上がらせる

(1)陳儀の台湾統治:戦利品として徹底略奪して私腹を肥やす

 台湾を、講和条約を待たずに「野蛮な」国府政権に渡したのは、米国の大失策である。元兇は、東アジアで日本を叩いて国府を「四人の警察官」の一員にしようと考えた FDRの妄想である。現実主義者だったチャーチルもスターリンも、国府をまともな政権とは認めていなかったが、夢想家FDR が「米国の実力」を背景に押切った。「四人の警察官」とは、戦後世界を取り仕切る四大国をいう。後に、これにフランスを加えて五大安保理常任理事国となった。

 台湾は日本の統治下で文明化し工業化していたので、前文明かつ前工業化社会段階にあった国民政府に、台湾を直ちに稼働させる能力は備わっていなかった。台湾人に任せれば機能したのだが、日本人の占めていたポストを外省人で埋め、給与を稼ぐため親戚知友を引込んだから、人数だけは増えたが、統治機能は発揮できなかった。彼等の台湾収奪過程を、カーの著書から要約紹介しよう。


(イ) 悪徳商人の陳儀政府:「犬去りて豚来る」

収奪の三段階:下級將校=こそ泥/中堅將校=組織的略奪/陳儀と腹心=根こそぎ略奪

「国民党軍に一度入り込まれた建物は皆外殻だけが残る残骸になった」「馬偕記念病院も数ヶ月、中国兵の侵入を受け、医療機械を初め金属類は戸の把手まで剥ぎ盗られた。木製の戸、戸の枠、階段の手摺りは彼等の炊事の燃料にされた……」(137/121頁) (二つの頁は日文訳/中文訳の数字)

「陳儀一派は自分らが引連れて来た軍人を信用していなかった。接収した日本家屋の周りの塀に、彼等は尖った硝子瓶の破片や鉄条網・尖った針金を張り巡らした。日本人は過去、その必要を感じていなかった。これは中国大陸の人間がいかに人を信用していないかの証拠であった」(138/122頁)


 人間不信の中国人が台湾の都市風景を変えたことを、32年ぶりに帰国した台湾独立派の台湾人がこう記している (注22) 。

 「久しぶりに帰国して、会う人ごとに『32年前の台湾とどう違う?』と訊かれた。当時の台湾はまだ日本統治の面影が色濃く残っていた。国府統治は15年目で、中国人社会の特徴はまだ目立たなかった。今年は国府統治47年目で、台湾の到る所に中国人の特徴・性格が現れている。例=台北市内の家という家の窓に『鉄窓』と称する空巣防止用鉄格子が嵌まり、鳥籠のような奇観を呈している。『鉄窓』は中国の産物、物騒で治安不良の土地に住む住民の自己防衛策で、近代中国の都市だけの風景だ」


 台湾人の想像を絶するシナ人の悪辣な行動:隠匿米摘発運動で収奪の限りを尽くす。

 「陳儀の隠匿米摘発運動の真の目的は、日本統治時代末期に漸く抬頭してきた教育程度の高い台湾の中産階級潰しの最初の企てであったように思われる」(145/127頁)

  →経済は「回転」によって成立つが、陳儀の統治は、台湾経済の回転を止めるような略奪をしたのである。


 無能のため日本人を留用→「面子」を保つため「留用嘆願書」を書かせた。

 この時、武器弾薬を除き 40〜50億米ドルの賠償金を日本が国府に払ったことになる。

  →伊原注:中国大陸と満洲の分を合わせると、日本は莫大な賠償金を支払済である。

 シナを育成するつもりの米国は、「盗まれた財産」が持主に戻ったと解釈 (戦勝国の独善)

 カーの結論:この莫大な財産接収は、シナ政府をもシナ人民をも益さず、悪徳商人が貪っただけ!

  →インフレ/物資不足/給料遅配・欠配/乞食出現。陳儀の狙いは台湾の大陸並貧窮化?


(ロ) 日本の台湾統治の最大の貢献=社会の安寧秩序を実現。→陳儀の野蛮統治は秩序を破壊

 善人をひん剥く陳儀の警察→反政府勢力の抬頭。台湾人のお人好し「陳儀は善人、部下が悪い」

 政治団体続出、政論紙叢出。シナ人、断固弾圧の構え。台湾人「米に信託統治してほしい」

 1947.1. 1 中華民国憲法公布。12.25 施行。

 陳儀の第一撃=「台湾に中華民国憲法を適用せず」

 陳儀の第二撃=接収日本資産の売買から台湾人を排除

 陳儀の第三撃=台湾の私企業潰し→台湾企業、軒並倒産

 →某台湾青年、国務長官に嘆願書「台湾を国連信託統治に! でないと丸裸にされます!!」


(ハ) 二二八事件=文明社会台湾が、野蛮な統治者に略奪された悲劇に発する事件

第一責任者=野蛮者に文明社会を託した米国 (シナ育成を妄想したFDR)

第二責任者=蒋介石 (講和条約前に私物化し、陳儀の略奪を容認)

 →蒋介石が予想に反して台湾に逃込む際、寵臣陳儀を死刑にして「安全」を謀る。生贄の羊!


(2)蒋介石:思いも寄らず国共内戦に敗れ、台湾を大陸反攻基地化 (陳儀同様、収奪しただけ)

  敗戦理由 (イ)=米国のマーシャル調停による蒋介石牽制・中共支援

   cf. ジョセフ・マッカーシー(本原俊裕訳) 『共産中国は アメリカが つくった──G.マーシャル の 背信外交』 (成甲書房、平成17/2005.12.25)

  敗戦理由 (ロ)=腐敗堕落による自滅(インフレを抑えるどころか、高官がインサイダー取引して拡大)

   →命からがら台湾に逃げ込む。反攻のための軍備充実を目指し、重税を課して収奪

   (一時、予算の7割が軍事費)


 蒋介石政権唯一の台湾への貢献=中共の「台湾解放」を阻止。中共が台湾を統治していれば、毛沢東の「永続革命」による被害は、二二八テロ・白色テロの犠牲を遥かに上回った筈。

 但しこれも東西冷戦のおかげ


(3)蒋經國:蒋政権居据わりのための輸出立国策と台湾人起用

 但し、濫開発と外省人(公教軍人)優遇策が台湾に重荷(環境破壊と重税)を課して現在に到る。


III.日本の文明化と近代国家形成努力:台湾を統治した日本はどんな国だったか

(1)江戸時代の天下泰平:高信用社会・清潔な循環社会を実現。実現者=武士と武士道

 権力行使+徒食の代償として清貧に甘んじた武士層:貪る者に、他人を統治する資格なし

  (イ) 武士道=「命懸けで名誉を守る」武士層の形成。「武士は喰はねど高楊枝」の矜恃

  (ロ) シナの政治文化=権力とは、貪るための力/そのためにこそ、科挙の猛勉をする

    聖人の教えは「本の中」「頭の中」だけ。実践と無関係

 各藩の自治:江戸とお国の二重生活/米穀偏重の財政→藩財政の破綻が不可避

  →藩政改革の経験を積んだ支配層の形成(近代国家維持運営の予備訓練となる)

 商人→薄利多売/信用第一→「恥の文化」形成 (天道を意識)

  「商内は高利をとらず正直によき物を売れ末は繁昌」(白木屋呉服店の大村彦太郎可全の作)

  「現金掛値なし」の定価販売を断行した越後屋呉服店(馴染みも一見の客も平等扱い)、etc.

 職人気質→誠実な仕事ぶり (隠れるところまで磨き上げる丁寧な仕上げ)

 農民→勤勉革命を達成 (労働集約による農地の有効利用) 。勤勉=美徳、という価値観を形成

  cf.速水 融「近世日本の経済発展とIndustrious Revolution」 (速水融・斎藤修・杉山伸也編『徳川社会からの展望──発展・構造・国際関係──』同文館、平成元/1989.6.30, 第I部第2章)

欧州の工業革命=商業化 →資本(資金・機械)集約・労働節約 →労働生産性向上

日本の勤勉革命=商業化 →資本(農地・牛馬)節約・労働集約 →土地生産性向上

(飼料用の農地↓/金肥↑/裏作・間作で土地利用頻度↑/深耕)


(2)西力東漸=近代国家形成による自立か無為による従属かの選択を迫られ、文明開花・富国強兵へ

 日本近代化の原動力=武士道精神。劣等国扱いの屈辱感→対等化を求め近代国家形成へ

 西欧列強=文明国 (神の下の平等→法の下の平等→自律的独立自営者、輩出)

 日本の外交=日韓清協力体制へ→先ず、隣国李氏朝鮮と国交を試み、清朝の朝貢体制の壁に衝突

  →日清戦争 →日露戦争 (共に中華体制打破・日本の安全確保の戦い)

  →清朝も李氏朝鮮も開国日本の重荷/戦後、共に日本型近代化へ方向転換/辛亥革命・ロシヤ革命へ

 シナ大陸=自力で近代化できぬ地域。→海洋国日本が大陸に深入りさせられ、泥沼へ! 敗戦へ!!

 大陸と縁を切り海洋国に戻った戦後日本=格差の殆どない理想的円満社会を構築 (ゴルバチョフ が驚嘆!)

 この日本を嫉妬羨望する朝鮮半島と中国が、今また日本の足を引っ張りつつある (19世紀の再現!)


IV.日本の台湾統治:台湾を「文明国構造」に取込み、高信用社会化

(1)国家行政の基本的役割:国防・治安・インフラ整備→日本は台湾・朝鮮・満洲を文明化

 シナを文明化しようとして、逆に「野蛮なシナ大陸の混沌」の泥沼にはまる。


(2)日本の台湾統治:安寧秩序を維持しインフラを整備して生活向上の基盤を作る

 叛乱鎮圧・衛生確立 (特に下水道) ・鉄道運輸の整備・教育の充実

 緩やかな同化政策──日本は「皇民化」を急がず

 移出産業育成(樟脳・糖業・米穀・材木etc.)

 台湾の転機=I大戦後の第一次産業危機。豊作貧乏=一次産品馬鹿安時代の到来

 I大戦→欧州外で食糧増産:米国・アルゼンチン・カナダ・濠洲 →戦後も減産せず

 停戦→軍需品↓(イ) 爆薬製造の空中窒素固定法→肥料増産→農産物増産

(ロ) 馬→トラック/戦車→播種用トラクター・収穫用コンバイン →農産物↑ (而も先進国で!)

(ハ) 膨大な馬糧への需要が消滅→農産物、だぶつく

→豊作貧乏 (農産物の価格 1/3に下落) →地主・農民の購買力↓→世界大不況へ

 →一次産品移出依存の台湾経済、大危機! →工業化へ方針転換

  →日月潭発電所→世界大恐慌で資金↓→難産→昭和10年代に 台湾、工業化へ (戦争が促進・邪魔)

  日月潭発電所の建設と台湾の工業化の始動については、北波道子『後発工業国の経済発展と電力事業──台湾電力の発展と工業化──』 (晃洋書房、平成15/2003.3.30) が詳しい。

  →台湾、南進基地へ (自給自足化/工業化がいよいよ進む) 台湾の戦時体制の重要さ

   台湾人の近代組織への適応訓練については、拙稿「台湾の皇民化運動──昭和十年代の台湾 (2)──」 (中村孝志編『日本の南方関与と台湾』天理教道友社、昭和63/1988.2.26) 参照。


(3)文明国化し高信用社会化した台湾は、日本敗戦後、在台中国人・大陸中国人に騙され続ける

  証拠(イ) 廖春榮が「32年ぶりに帰国して」見た「鉄窓」の話 (既述)

 証拠(ロ) 私が宴席で台湾の大学教授から叱られた話。「伊原さん、こうなったのも皆、日本人が悪いんだよ。日本人は私たちに『正直であれ、嘘を吐くな』と教えた。私たちはそれを正直に守った。ところが台湾に来たシナ人連中は嘘を吐き放題。私たちはころっと騙された。日本人の教育のおかげで、とんでもないことになった」

 証拠(ハ) 司馬遼太郎の「牛乳や新聞がちゃんと配達されて盗られる心配のない社会」 (既述)

  →蒋政権は日本統治による台湾文明化のおかげで、台湾に安住の地を得た。

   台湾と台湾人に大感謝すべきなのに、戒厳令と白色テロで締めつけた!


 長期に亙るシナ人支配の下で、台湾も若干、低信用社会に戻る。しかし台湾は、対米輸出で生き延びた。そして輸出・海外市場は信用第一の局面である。台湾が輸出で伸び、四匹の小龍のトップを切ったのは、台湾が日本時代に高信用社会・先進国並の文明社会を築いていたことが基盤になっている。

いま、中華人民共和国が偽商品・毒物輸出で物議を醸している。シナ=低信用社会、台湾=高信用社会の区別が今なお有効である。その証拠に、台湾商人がシナ大陸に進出して大勢騙されている (注23) 。


(4)日本の敗戦:国府軍の台湾占領

 国府軍が占領に名を藉りて居据わったこと、野蛮勢力が文明国民に君臨して略奪・乱暴狼藉を働き、二二八事件を誘発したことは既に述べた。

 ここで余談ながら、日本の敗戦について二点、指摘しておきたい。


 第一、日本は確かに「戦争」局面では負けたが、戦争目的は達成した。つまり、アジアの植民地開放と共存共栄は達成した。英佛蘭とも、戦後旧植民地の維持を図ったが、マカオと香港を除いて達成できず。これは大東亜戦争の成果である。

 (マカオと香港が残ったのは、中共政権が「利用するため」残したからである)

cf. 清水馨八郎『大東亜戦争の正体:それはアメリカの侵略戦争だった』 (祥伝社、平成18/2006.2.15)

   安濃 豊『戦勝国は日本だった:米陸軍寒地研究所にて』 (柏艪舎、平成18/2006.5.8)

第二、そして、あの戦争で「勝てる」方策もあった。

 cf. 新野哲也『日本は勝てる戦争になぜ負けたのか』 (光人社、平成19/2007.8.17)

 「負けて当然の戦争だった」という戦後日本の「常識」は、「勝てば官軍」の戦勝国側が流布した謀略宣伝に過ぎない。


(5)李登輝総統の「静かな革命」:中国国民党外来政権を台湾国民党化・自由民主化

 野蛮な中国国民党政権の下で、文明国からの後退を強いられた台湾を、再び文明国に引戻そうとした。だが、中国国民党の利権政策(軍公教人員の退職金 18%利払いに見られる利益誘導策。人を信用しないから利益誘導するのである) で甘い汁の旨味を知った台湾人の多くが今なお、国民不信・専制支配体質の中国国民党を支持し続け、自由民主ながらお人好しで脇が甘い台湾本土派と五分五分の勢力拮抗状態に留まっている。


 李登輝の民主化進展構想=2000年の総統選でなお8年間国民党が政権をとり、その間、野党民進党を育て、2008年の総統選で政権交代を果す。だが宋楚瑜の立候補で中国国民党の票が割れ、何ら準備の無かった民進党の陳水扁が当選してしまった。この早産は、中共政権と通ずる野党の揺さぶりによって台湾の民主化の迷走を招いた。

 中共・野党の狙い=本土政権の無能を見せつけて有権者の失望を誘い、中国国民党に政権を奪回さす


(6)日本再生の道:指導者の心得としての武士道精神の再活性化

 現在、日台とも米中の狭間で迷走中。根本原因=指導者の小粒化。

 指導者が持つべき資質=決断力〜胆力(注24) 。その養成法=武士道精神の鍛錬

 武士道=戦闘者の死生観・人生観。武士が主君・御家・御国にどう仕えるかの「覚悟」を問うもの


 武士は八百年前から存在し、その精神や心得は戦国末期、つまり四百年前から形成されていたが、それが「武士道」という言葉で意識されるのは、日露戦争後の明治末年のことである (注25) 。

 その実態は、以下の通り (注26) 。


 戦国末期に後藤又兵衛基次、真田幸村、木村重成ら優れた武士が自らの生き方として編み出し、江戸時代、天下泰平が実現したあと、儒教や仏教 (禅宗) を援用して磨き上げ、幕末から明治にかけて日本が危急存亡の秋を迎えた時に、指導層から庶民まで、価値観を共有した。

 後藤基次の場合、武士道とは、己の本心 (真心、誠意) に忠実に生きることであった。本心とは、「欲する所生より甚しき者あり、悪む所死より甚しき者あり」。本心のままに進退する武士が、生死を共にする戦場で相交わる中、主従の信頼関係が深まり、縁を結ぶ。ここに「君臣水魚の交り」が発生する。

 大事なのは、彼岸の思想と一体化している点である。死が身近なものであった戦国乱世では、彼岸 (あの世) と現世 (この世) は常に交流があった。あの世の知友故人がこの世にある自分を常に見ていた。この世にある自分は、あの世に行けば知友先輩と相見える。その時、恥ずべきことがあっては顔を合わせられない。「天地神明に不恥」が戦闘者たる武士の日常の心得であった。この点で、武士道はまぎれもなく神道と結びついている。

 もう一つ大事な点がある。敵に対する勇猛果敢な戦闘精神が、敵に対する深い思遣りの情と一対をなしていることである。ここから「潔さ」が生まれる。「朝日に匂う山桜花」である。横綱朝青龍の果敢な戦闘精神は、相手に対する思遣りに欠け、若気の未熟さが臭って横綱の風格に欠ける。

 後藤基次の純忠は「君臣水魚の交り」から発するので、君主にそれ相応の感化力を求める。武士道とは、仕える主君への忠義のありようをいうが、後藤基次の場合、主君や友への忠実の前に、己の本心への忠実が優先した。だから主君、黒田長政に不満があると、さっさと見限って浪人したのである。


 江戸時代、「元和偃武」 (元和元年/1615年の大坂城落城) によって天下泰平となり、武士が官僚化すると、武士道は儒教や佛教 (禅) によって磨き上げられる。徳川家第18代当主、徳川恒孝曰く、官僚化した武士も刀を差しており、相手に斬られる危険に備える必要があった。武士たる者、行住坐臥、緊張感と自制心を求められた。だから武士にとっては儒学の教えも、科挙の学徒のような「机上の空論」ではなかったのだと。武士にとって儒教とは「修身齊家治國平天下」という実学の習得を意味した。

 江戸期の各藩には「御家断絶」の危機が存在した。そこでそれに相応しい武士の心得が登場する。佐賀藩士山本常朝 (1659-1719) が口述した『葉隠』は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と、正義を貫く心構え「生への未練を断て」を示してこういう。「どのような御無理の仰せつけを蒙らうとも、又は不運にして牢人・切腹を命ぜられても少も主君を恨むことなく、一の御奉公と存じて、未来永劫に鍋島の御家第一に案ずる心入をなすことは、御当家 (佐賀藩鍋島家) の侍の本意にして覚悟の初門である」。こう徹底的献身を説いた上で「御家を一人して荷い申す志」を課し、「気にかなはざることは、いつ迄もいつ迄も (主君に) 訴訟すべし」と説く。

 御家や家中は元来、藩の統治集団を意味するが、広義には民百姓を含む「御国」 nation に膨らむ。これを守るためには、「御国」を危うくする主君を押込めることさえ公認されたのである (注27) 。


 武士道は幕末、黒船来航の危機を迎えて活性化する。攘夷論・和魂洋才論を軸として、下層武士にまで「諍臣なければ国亡ぶ」という真の忠が復活する。西欧列強の圧力により、自由民権から日清戦争・日露戦争を戦った將兵まで、忠を体得した。


 日本の明治維新以後の近代化の原動力は、列強から劣等国として扱われることへの屈辱に発している。「攘夷のための開国」である。ここに武士道精神が作用している。

 辛亥革命も、清末阿片戦争以来列強から蒙った屈辱をバネにしているが、日本が国家建設により実力を充実してから不平等条約を平等化したのに対して、中華民国の平等条約獲得努力は、実力養成を棚上げして、「革命外交」と称してひたすら相手に「平等化」を要求し、受入れないと嫌がらせをするだけであった。自己変革を怠るから、低信用社会がいつまで経っても改まらないのである。

 日本も、大正デモクラシー以後、指導者が学校秀才化し、各組織が軍部に到るまで官僚化した。官僚は、権限を行使して責任を負わず、報酬を貪りながらそれに見合う奉仕をしない存在(背任横領集団!)に堕落した。指導層が無責任化して日本は受け身の戦争に追いまくられ、敗戦を迎えた (注28) 。

 米占領軍は、「強い日本」を再現させぬため、占領下、憲法を初めとする各種法令を好き勝手に改廃し、大和魂や武士道精神が育たぬようにした。致命的だったのは、民法が家中心 (長子相続) から個人中心 (均分相続) に改めたことである。これと累進課税とにより、世の中を支え文化を支援する資産家がなくなり、個人主義と称する我欲がのさばり、近隣社会が解体し、忠孝共に影が薄くなった。

 独立回復後も日本政府は占領下の法規の全廃をせず、守り続けた。そのため、戦後の日本は小物がのさばり、愈官僚化を深め、益々無責任化している。


 日本も台湾も、米中の狭間でしっかり生き延びるには、誇りと自律 (自己抑制) と決断力に富む立派な精神を持った指導層を育てねばならない。


[注]

(1)中村彰彦・徳川恒孝「将軍家が見たほんとうの武士道── "新渡戸稲造" だけではわからない日本精神の凄味」(Voice, 2007.2月号) 217頁。

(2)『史記列伝(一)』(岩波文庫、昭和50/1975.6.16) 16頁以下。

(3)『福澤諭吉全集 (14) 』(岩波書店、昭和36/1961.2.1) 645頁。

(4)富田正文の「後記」(前掲『福澤諭吉全集 (14) 』 686頁)

(5)石河幹明『福澤諭吉傳 (三) 』(岩波書店、昭和7/1932.4.25) 713-714頁。

(6)フィリップ A.キューン/谷井俊仁・谷井陽子訳『中国近世の霊魂泥棒』 (平凡社、平成8/1996.10.14)

(7)『続伊藤博文秘録』(原書房、昭和57/1982.2.27) 250-252頁。

(8)岡田英弘『妻も敵なり:中国人の本能と情念』(クレスト社、平成9/1997.10.1)。本書は、下記の通り改題され、別の出版社から出ている。岡田英弘『この厄介な国、中国』(ワック、平成13/2001.11.22)。これの第二章の表題=「他人はすべて敵と考える民族──なぜ彼らは、自分以外の人間を信用しないのか」

(9)『週刊朝日』平成6/1994.5.6-13号,43-44頁/司馬遼太郎『街道をゆく (40) 台湾紀行』(朝日新聞社、平成6/1994.11.1) 486-487頁。

(10)黄文雄『チャイナ・リスク』(海竜社、平成17/2005.3.9) 325頁。

(11)戴天昭『台湾戦後国際関係史』(行人社、平成13/2001.2.15)24頁。

(12)南京第二歴史●(木當)案館藏『台湾二二八事件●(木當)案史料』 (台北、人間出版社、1992.2.) 1-20頁。

(13)張徳水『激動! 台湾の歴史は語りつづける──ある台湾人の自国の認識──』(雄山閣出版、平成4/1992.6.5)82頁。

(14)周婉窈/濱島敦俊・石川豪・中西美貴訳『図説台湾の歴史』(平凡社、平成19/2007.2.20)172頁。

(15)周婉窈、前掲書 172-173頁。

(16) George H.Kerr, Formosa Betrayed,1965/日文訳:蕭成扁訳・川平朝清監修『裏切られた台湾』 (同時代社、平成18/2006.6.26) 37頁/中文訳:陳榮成譯『被出賣的台灣』 (前衛出版社、1991.3./2007.10., 第27刷) 42頁。

(17) 楊基銓『台湾に生を享けて』 (日本評論社、1999.3.10) 331頁。

(18) 拙稿「台湾の工業化と皇民化運動──昭和十年代の台湾──」 (『帝塚山大学紀要』第17号, 昭和55/1980.12.20) 23頁。

(19) 拙稿「台湾の政治改革年表・覚書 (1943-1987)」 (『帝塚山大学教養学部紀要』第31輯/平成4/1992.7.20) 17頁。

(20) 張徳水『激動! 台湾の歴史は語りつづける』80頁。

(21) 徐瓊二『台湾の現実を語る』 (臺北、大成企業局出版部、民國35/1946.10.)

(22) 廖春榮「32年ぶりに帰国して (1)」 (『台湾青年』平成5/1993.2月号)23-29頁/拙稿『台湾の政治改革年表・覚書 (1993) 』 (『帝塚山論集』第80号別冊、平成6/1994.3.20) 14頁。

(23) 高為邦『大陸司法迫害台商實録──搶劫無罪・詐騙有理』 (星定石文化出版有限公司、2002.9.)/同『投資中國●(イ尓) 必須知道的陥穽』 (台灣投資中國受害者協會、2005.9.)

(24) 拙稿「指揮者と参謀── "孤独に耐える教育" を導入すべし」 (『饗宴』第18号, 昭和50/1975.3. 2面)

(25) 兵頭二十八『あたらしい武士道──軍学者の町人改造論』 (新紀元社、平成16/2004.12.7) 74-76頁。

(26) 葦津珍彦『武士道──「戦闘者の精神」』 (徳間書店、昭和44/1969.3.20) 。前掲、中村彰彦・徳川恒孝「将軍家が見たほんとうの武士道」(Voice, 2007.2月号、 208-217頁)

(27) 笠谷和比古『主君「押込」の構造──近世大名と家臣団──』 (講談社学術文庫1785, 平成18/2006.10.10)/同「武士道とデモクラシー」 (西尾幹二編『地球日本史 (3)──江戸時代が可能にした明治維新』産経新聞ニュースサービス、平成11/1999.3.30) 31-50頁。

(28) 岡田英弘はこういう、「日本は……開国以来、大陸における事態の発展に裏切られ続けてきて、とうとう国を亡ぼしてしまった」 (『歴史の読み方──日本史と世界史を統一する──』弓立社、平成13/2001.4.10,239頁)


平成19年/2007年10月7日追記:

 9月8日にこれを報告してから、次のような書物を読んだ。参考までに列記する。

 詳しくは、「21世紀日亞協会」のホームページにある「伊原教授の読書室」を検索・参照されたい。


(1)周勍(廖建龍訳)『中国の危ない食品──中国食品安全現状調査』(草思社、2007.10.5)

 帯に「信じがたい事例のほんの一部」として、次のような内容紹介が並んでいる。

  ■ホルモン剤で促成した養殖水産品で 6歳の男児にヒゲが……

  ■イシビラメ、メバルから発癌性物質検出

  ■合成染料「スーダン・レッド1号」で卵の黄身を鮮やかに

  ■喘息治療薬を添加してブタの赤身肉をふやす

  ■「頭部巨大化幼児」の原因は粗悪なミルク

  ■ "髪の毛" を分解したアミノ酸溶液で醤油をつくる……

 中国が今も低信用社会であることを如実に示す報告である。


(2)宮崎正弘『中国は猛毒を撒きちらして自滅する』(徳間書店、2007.9.30)

 中国が信用できない事例を列挙した書物である。内容は、目次を一瞥すれば判る。

  プロローグ 世界に拡がる中国の「猛毒」排斥

  第1章 果てしなき猛毒事件の数々

  第2章 環境汚染の猛毒的な進行

  第3章 迫り来る上海発世界大暴落

  第4章 中国人民の「反日」の実態

  第5章 中国人は「息を吐くように嘘をつく」

  第6章 蔓延する博打とカルトとスノビズム

  第7章 中国ビジネスは危険がいっぱい

  第8章 中国がひた隠す「不都合な真実」

  第9章 台湾問題の新たな展開

  エピローグ 情報戦争に連敗続く日本

 どこを読んでも面白いが、日本人が固く信じている「中国経済の高度成長」の数字が嘘であるという点の指摘を紹介しておこう(137-139頁) 。

 1)筆者 (宮崎正弘) は前々から中国の公式 GDP成長率はデタラメだと主張してきた。06年10月、中国の国家統計局長邱暁華が統計数字の捏造疑惑で失脚したのはその一例。経済統計は GDPの公表で、中央政府の数字と地方政府の数字に巨大な齟齬があり、まったく正確を欠く。ある省では幹部が相談して「中央政府が 8% といっているなら、我々は 24%で行こう」というむちゃくちゃな討議で決まる。

 2)ピッツバーグ大学のロースキ教授が数年前に、「例えばある年の経済成長が 8% と発表された時の電力消費が 10%落ち込んでいた」として、精密なデータ で 論証し、「過去20年間、中国の経済成長の平均は、およそ 3%〜4%」と発表している。

 3)レスター・サロー MIT教授もこう言った。「アメリカ経済を今世紀末に中国が超える? あり得ない。アメリカ人の平均所得は 4万3000ドル、中国は1000ドル。この基礎データ を ベース に 計算して、中国がアメリカ経済を超える事態は22世紀末でしか起こり得ない」(International Herald Tribune, 07.8.21付)

 「都市部の急成長が中国の経済成長の 7割として、10% 成長するには都市部が 33%成長していないと計算に合わない。それなのに、広東の成長が 10%と記録された2001年、金融・流通・株式でその命脈を握る香港経済は景気後退に見舞われていた」「中国の過去10年の成長率は精々4〜5%。いや、4%成長さえ楽天的かも知れない」


(3)陳惠運『なぜ中国人は互いに憎みあうのか』(飛鳥新社、2007.8.6)

 この本の帯にもこうある。「罵り合い、奪い合い、騙しあい……。同胞を見下す13億の民に巣食う闇を鋭く抉った渾身のノンフィクション」


(4)兵頭二十八『日本有事──憲法を棄て、核武装せよ!』(PHP研究所、2006.12.22)

 貴重な指摘が随所に散りばめられている。その若干を拾い読みすると……

  4頁 シナこそ「歴史の終り」以降の人類の害悪の ボスキャラ(クター) であり、北朝鮮はサブキャラ に過ぎない。

    シナの脅威とは、間接侵略・洗脳の脅威であって、他国政府の傀儡化・奴隷化工作の道具として核兵器がある (なぜシナは後進国なのにアメリカに対抗できるのか?)

 15頁 世界最貧国の北朝鮮にすら原爆は造り得た

 16頁 北朝鮮の核武装で日本より困ったのはシナだ。東京を核ミサイルで攻撃できるようになる前に、北京を攻撃できるからだ。

 19頁 北朝鮮は「2008年の北京五輪を妨害されたくなくば、重油とカネをよこせ」と中共を強請れるようになった。

 40頁 日本の多くの有力政治家は、北京のエージェント同然。

    北京の言い分はシナ人の常套的なその場しのぎで、できもしないし、する気もないことを、真顔で真剣に約束する。

 46頁 マックKEMPOHは、日本国に外国軍の強盗が入ってきても、日本政府はその強盗を殺しませんと宣言している奴隷的誓約。

 51頁 マックKEMPOHは「成立無効」確認決議 (国会議員の過半数) で葬り去るのがふさわしい。

 52頁 恐ろしい攻撃力に直面した時、「いや、それでも防御の手段はある!」と考える根性があるか否か。その根性があったのが古代ギリシャ人、中世の騎士、近世の西欧市民、幕末日本の下級武士であった。その根性がなかった他の共同体は、やすやすと植民地にされた。

 55頁 自由主義社会を実現するために必須の「武侠市民」の根性……。被害に怯えている限り、武侠勢力から奴隷扱いされる。

    日本は明治維新の「自由主義精神」 (奴隷根性の反対物) を取戻せ

 56頁 江戸時代の武士は「柔術」をたしなんでいた。これは「敵が刃物を持ち、こちらは素手」で、それでも「もう駄目だ」とは思わず、相手を制して活路を見出す危急克服技であった。このような状況と、そこからの逆転勝ちを平素から考えていたという気組みが、自主独立に通じていたのだ。

(以下略。あとは直接お読み下さい)


平成19年/2007年10月29日追記:

 その後、更に以下の二冊を読んだので紹介しておく。


(5)黄文雄『近代中国は日本がつくった』 (光文社、2002.10.30)

 「日清戦争以降、日本が中国に残した莫大な遺産」という説明が表紙にある。

 日本が非白人国で唯一、近代国家をつくってみせたことが中国の近代を導く事情を詳しく説明している。現代中国語も、日本語の恩恵をたっぷり蒙っていると。それに、日本人は我が事のように中国の近代化を手伝った。それを歴史から消してしまった現代中国人は、忘恩の徒である。

 各章の見出しを挙げておこう。


 第一章 日清戦争の文明史的貢献

 第二章 中国に波及した日本の「文明開化」

 第三章 日本に学んだ清朝末期「黄金の十年」

 第四章 中華民国建国に奔走した日本人

 第五章 日本の陸士が育てた近代中国軍

 第六章 日本が中国で築いたインフラ──日本人の占領地建設

 第七章 日本が中国にもたらした経済奇跡と遺産

 終 章 文明史から見た大日本帝国の歴史貢献


 一つだけ、特に紹介しておきたい箇所がある (以下大意。72〜73頁) 。

 黄文雄曰く、中国人は、残酷な統治者には従順だが、優しい統治者には増長して歯向かう性格がある。異民族統治に慣れた西洋人は早くからこれを見抜き、排外運動には容赦ない武力弾圧を加えて中国人を屈服させ、畏敬の念さえ植えつけた。ところが「情」の民族・日本人にはそれができなかった。日本の大陸政策最大の失敗は、中国人を優しく扱ったため、なめられて抗日・侮日・反日を引き出し、自ら墓穴を掘ったことだと。

 1927年/昭和2年、北伐軍が南京で外国人に略奪・暴行・殺戮を働いた時、英国の砲撃の誘いに加わらず、無抵抗主義に終始した幣原「軟弱」外交が正にこれに当るが、田中「強硬」外交も、中国人には決して「強硬」ではなかったのである。日本は事ある毎に文句をいわれるが、英国は昔も今も、「阿片戦争の罪」その他を一切問われていない。


(6)黄文雄『中華帝国の興亡』 (PHP研究所、2007.4.9)

 副題=「 "歴史の罠" から抜け出せない隣国」。本書は「中国史」というより、「中国文明史論」である。どの頁も興味深く教わるところが多いが、最後に画竜点睛のように、「文明興亡盛衰の歴史法則」なるものを提示する(376頁以下) 。

 1)領土の拡張は亡国の種となる

 2)人口の過剰な増殖が帝国の崩壊をもたらす

 3)天下大一統が避けられない中国人の悲劇

 4)避けられない同時崩壊の歴史法則

 5)時代が終れば国家の寿命も終る