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 『産經新聞』平成19年10月9日付掲載の「正論」です。


 この文章は、第一に、「日中国交正常化シリーズ」の二回目、です。一回目の中嶋嶺雄さんが「法眼晋作外務次官が『今回の日中国交は百点満点どころか百二十点をつけられる』と言われた。私は唖然として大きな違和感を覚えた」と書いた部分の注釈の意味があります。


 第二に、日本外交は「相手の立場」に対する物分かりが良すぎて、交渉力が出てこないという重大な問題点を指摘しています。例えば、私が在香港日本総領事館の特別研究員をしていたとき、公用で北京へ行ったのですが、そのとき「したいことは?」と訊かれたので、第一希望として「江青に会いたい」(当時、秦城監獄に監禁中)と申し出たら、握り潰されました。私は、断られるだろうが、どんな断りの理由をつけるか(つけないか)、中国当局の対応を見ようとしていたのです。だから是非とも中共当局に要求してほしかった。

 あとで江青の伝記を書いたロス・テリル(ハーヴァード大学教授)に会ったら、彼は三度、「江青に会いたい」と要求を中共当局に出して、その度に断られていました。彼曰く、This is my first round,....  my second round,....と。日本の秀才は見極めが早すぎ、要求を自分で取下げてしまうのです。

 日米交渉をしていた昭和16年に、朝日新聞の NY 特派員が、日米は戦ってはならないと、米国の生産力について詳しく報告記事を送ったら、東京のデスクが「今どきこんな『風潮にそぐわぬ記事』は載せられぬ」と、全部握り潰したそうです。


第三に、相手の原則に対して「特殊事情」を持ち出す通弊を指摘しました。

それと、外交の鉄則「お願いするな、お願いされる側に立て」の反対をやる通弊も。


日中国交30年の論文として書いた「ボタンをかけ違った日中国交三十年──特殊な関係に呪縛された日中関係」 (『問題と研究』2002年10月号,25-38頁掲載)に、本文の論旨を丁寧周到に展開していますので、ぜひご覧ください。



日中国交正常化35周年


日本の "秀才外交" の大失敗


中国の土俵に乗り、台湾を見捨てる


      対中平和の複雑さ

 日本は政権と戦い、政権を一員とする連合国に降伏した。従って対中平和条約は政権と結べば足りた筈だが、その段階で大陸に中共政権が成立しており、台湾の政権と正統性を争っていた。冷戦構造の中で、日本に中華人民共和国と平和条約を結ぶ選択肢はなかった。だから日本はサンフランシスコ講和条約のあと、台湾の中華民国と日華平和条約を結んで「中国との戦争」に決着をつけた。


 但し、日華平和条約の適用範囲は「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」(交換公文)に限定された。だから中華人民共和国との国交や平和条約締結が懸案として残ったのである。


 その機会がニクソン訪中で巡ってきた。だが東西冷戦を背景に「一中を争う二中」の双方と国交を結ぶのは至難の業であった。


      日本外交、誤認と拙速 

 日本外交には、戦前戦後を通じて一大欠点がある。原則がなく、相手の原則に振回されるのである。昭和16年の日米交渉で門戸開放・善隣友好・主権領土尊重原則を出す米外交に「特殊権益」で対抗した日本がどれだけ振回されたことか。


 日中国交交渉でも中国は「復交三原則」を持出した。

(1)中華人民共和国政府は中国を代表する唯一の合法政府

(2)台湾はその不可分の領土

(3)日華平和条約は不法・無効。


 ここで日本外交は健闘した。(1)は承認、(2)は「理解し尊重する」が承認せず。(3)では日華条約有効論を貫いた。


 問題はこの先である。日本側は、状況誤認と拙速で、台湾切捨ての汚名を残すのである。


 誤認の第一:ニクソン訪中の意味を読み誤る。敗戦後、日本人は経済一辺倒となり、各国の行動も経済動機でしか判断しなくなった。ニクソン訪中は中ソ対立に乗じて中国と結び、ソ連を牽制するのが目的である。それを「米国が中国市場に目をつけた」と読み、財界が「バスに乗り遅れるな」と逸った。

 日本の世論は日中国交に賛成だが、中華民国とも国交継続を望んでいた。それを財界は「中国市場は大きいから、台湾を切ってでも中国と国交せよ」と政治家に迫った。中国の意向に沿え、というのだ。


 中国が台湾との断交を迫るなら、せめて一度は破談にして帰国すれば良かった。これで日本は信義に厚い国という実績が残せた。


 誤認の第二:中国の内情を察知せず。中ソ対立が高じてソ連の核先制攻撃の危機に曝されていたから、「敵の敵」西側との連携が焦眉の急だった。こういう相手の実情を把握しなかったため、「中国に国交をお願いする」形になった。


 秀才外交は物分かりが良すぎて粘りが足りない。「中国と国交を結ぶには、台湾と断交するほかない」と先回りして考え、道義を捨てた。そうであっても「新しい友を作るため古い友を捨てはしない」と言い続け、断交は相手にさすべきだった。


 「中国は一つ」は中国と政権の立場である。日本は「どの国とも友好を貫く」と言い続ければ良かった。


      台湾にも友好を貫け

 清朝は台湾を「化外の地」としていた。中華民国も中華人民共和国も建国時に台湾は日本領だったから、請求根拠を持たない。カイロでローズヴェルト大統領と介石総統の間で台湾領有の口約束ができたのは、介石に対日戦を継続させるためだった。45年10月の台湾占領は講和条約まで管理を委ねただけから、サンフランシスコ講和条約でも日華平和条約でも、日本は台湾・澎湖諸島の「すべての権利、権原及び請求権を放棄」したが、帰属先を明示しなかった。明示できなかったのである。

 こういう土地は、大西洋憲章でも国連憲章でも、世界人権宣言でも、住民の自決で前途が決まる。


 台湾では、家外来政権のあと、台湾人李登輝が国民党独裁を「台湾住民による、台湾住民のための台湾統治」に変えた。台湾は自由民主国に生まれ変り、「一中」争いから離脱したのである。


 米国がこの新事態を無視して冷戦期の「一中」政策を墨守しているのは奇怪というほかない。自由民主国の台湾を国際的村八分扱いしているのは、21世紀の世の中にあるまじき不祥事である。


 日本政府が憲法前文にいうように「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」のなら、この事態の改善に努力する義務がある。



 追 記:リンカーン大統領の有名な民主主義の定義、government of the people, by the people, for the peopleを普通「人民の、人民による、人民のための統治 (政治/政府)」と訳しますが、これは誤訳です。government of the peopleは「人民が治めること」ではなく、「人民を治めること」なのです。私はこれを短く「人民統治」と訳しました。そして「人民のための統治」は独裁者でも暴君でも掲げますから、リンカーンによる民主主義の定義の要は「人民による統治」です。

 リンカーンの定義をわかりやすくいうと、「人民による、人民のための、人民への統治」です。