書評『台灣生まれ 日本語育ち』 - 伊原教授の読書室

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室



     書評『台灣生まれ 日本語育ち』




伊原註:本文は、『關西師友』2017年11月號 12-15頁に掲載した「世界の話題」329號を、

    補筆して掲載したものです。

    雜誌掲載時には、紙數が足りず、書けなかつたことも、加筆してあります。


    北京語の正確な表示は、よい加減なローマ字表記でなく、

    中國人が中國語表記のため發明した

    注音符號 (通稱「ボポモフォ」) で表記すべきですが、

    これが文字化けするので、殘念乍ら掲載できませぬ。

    便宜上、假名書きで表記します。









 こんな題の本があると知つて、注文して讀みました。

 著者は温又柔といふ女性、

 三歳まで台灣で過したあと、

 一家で東京に轉居して以來、東京在住です。


 出版したのは白水社。

 出版は去年1月10日。

 6月30日で第5刷まで出てゐます。


 帶に「我住在日語」「わたしは日本語に住んでゐます」とあり、

 第64回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した由(よし)。

 著者は「作家」ですが、本書は言葉をめぐる、實(まこと)に樂しいエッセイです。


 私は台灣で北京語を習ふのに苦勞した覺えがあり、期待して讀みました。

 そして期待に違(たが)はず、滿足して讀み終へました。


 台灣が好きなお方、言葉に神經を使ふお方には恰好の讀物です。



      台灣語・北京語・日本語混り


 冒頭に自己紹介あり。


 1980年、台北生れ。


 伊原註:台北は台灣語で「たいほく」。「タイペイ」は北京語讀みなので、

    我々は台灣人には「タイペイ」でなく、「たいほく」と話し掛けませう。


 姓は「おん」、名は「ゆうじゆう」。

  (表紙に、Wen YuJu とのローマ字表記あり。)

  (ピンイン表記なら Wen YouRou なのですが)


 父は商賣で台北・東京・上海を飛び回つてゐる。

 彼女は三歳まで台北で過します。

 彼女の祖父母は日本時代に育つて日本語が母語の世代。

 兩親は成人期に蔣介石軍の占領に遭ひ、

 北京語を押しつけられて、台灣語と北京語を混ぜて話す世代です。


 彼女は言葉を喋り出すのが早く、「歩く前に口を動かしてゐた」由。

 ──你爲什麼・プァイカワセン!

 ──リシアンナ・不跟我玩!


 片假名は台灣語、漢字は北京語です。

 共に「なんで私と遊ばないの」の意味。


 それが、母親と東京に移住して五歳で幼稚園に行くと、

 「先生の話す言葉がち〜つとも判らず、ぼおつと宙空をみつめてゐた」さうです。

 この時、妹が生れてをり、構つて貰へぬ彼女は、一人テレビに釘附け。

 『ドラえもん』『パーマン』などアニメで日本語を覺えます。


 忽ち日本語を習得した彼女は、言葉の使ひ分けまでやつてのけます。

 「ゴメンネは自分より小さな子に、ゴメンは同輩、ゴメンナサイは先生に言ふ」

 中國語なら「對不起」で濟むのに、日本語は相手により使ひ分けると悟つたのです。


 中華學校でなく、日本の小學校に進んだ彼女は、日本語に益々磨きをかけます。


 好了、キン・キ・セエ・チュウ、快要吃飯!

 (ホラ、早く手を洗つといで。御飯だよ)

 と母に言はれても「うん、判つてるよ、待つてて」と返す。


 你在幹什麼? ハワー、キンキ・クン!

 (何やつてるの、遲いから早く寝なさい)

 と言はれても「あと少し、ここ讀んだら寢るから……」と答へる。

 中國語も台灣語もちやんと判るが、「我知道」「ワッザイラ」でなく「ワカッテル」と言ふ。

 「等一下」「ショータンチレ」でなく「マッテテ」と返す。


 やがて中國語や台灣語は聞いて判るものの、答へられなくなります。

 使はないので、言葉が出なくなつたのです。

  (言葉つて、使はないと忽ち錆びるのですよ!)

  (だから外國語を使ふ人は、毎日讀上げることが必須です)


 彼女は中國語を教へる高校に進み、大學でも第二外國語に中國語を取りますが、

 耳から入つた言葉でなく、「成人後に習つた言葉」になります。

  (それも惡いことにローマ字ピンイン表記で學ぶので、發音が正しくなりません。

  (中國のローマ字ピンイン表記は、話せるが文字が讀めぬ大衆の簡易表記法として導入されたため、

  (表記が好い加減なのです。

  (我國の中國語教師は、中國で使つてゐるからといふだけの理由で

  (ピンインで中國語の發音を教へますが、ローマ字表記を頼りに中國語の發音を手探りする

  (外國人にとつて、これは眞 (まこと) に具合が惡い。不親切極まります。

  (斷然、注音符号で教へるべきです。その差については、後で述べます)

  (一例だけここで指摘してをきませう。

  (「不好」をピンインでは bu hao と表記します。

  (これを初心者は「ブーハオ」と發音します。これを聞くと私はゾッとしますね。

  (正しいカタカナ表記は「プーハオ」です。「不」は無氣音だから「プー」なのです。

  (有氣音と無氣音の區別は初歩中の初歩段階で習得すべき事態ですから、「ブーハオ」は落第です)


 温又柔は、北京語では「ウェン・ヨウロウ」と讀むと、彼女は辭書通りの發音を書きますが、

 台北で北京生れの北京育ち、北京の師範學校を出て溥儀一族と結婚し、紫禁城に住んでゐた先生から

 三箇月みつちり發音を習つた私は、「又」はヨウでなくイヨと發音しますね。

 彼女が「チャーブドウ」と書く「差不多」は、「ブドウ」より「プトゥオ」の方が近いです。

 「惠美」はフェイ・メイより、「ホエイ・メイ」が近い。

 序に、最近新聞で、「華爲」を「ファーウェイ」と表記しますが、「ホワウェイ」の方が宜しい。

 日本の新聞は、中國人名を無闇にカナ表記しますが、をかしな附け方が多く、閉口します。

 あんな間違つた假名表記など、無い方がよつぽどマシです。

      辭書の引き方で苦勞を重ねる


 台灣語には文字がない(20頁)。

 初に音ありきなのですが、北京語は人工語ですから、初に文字ありきの言葉です。

 北京官話の名の通り、清朝の官僚が山東語を基に作つたのです。

 文字を組合せ、それを讀上げるのが北京語です。

 音から始る話し言葉でなく、文字から始まる讀み言葉、極めて人工的な言葉です。

 北京語 (北京官話) は、エスペラント同樣の人工語なのです。


 その中國語の意味や發音を知るため、

 私達、台灣で中國語を習つた者は、漢和辭典風に部首で辭典を引きますが、

 ピンインローマ字で中國語を習つた彼女は、ローマ字で配列した辭書を引くのに、酷く苦勞します。


 ──フォピイ? 何それ。

 中國語の辭書を見ようとすると、ピンインの綴りが判らない。

 fobi, → fopi, → huopi, → huobi……

 四度目にやつと「貨幣」だと判る始末。


 私の場合は「讀む」ことが主なので、逆に漢字のどの部首で引くかに苦勞するのですが……。


 彼女は言葉に敏感で、中でも日本語を全身で受け止め吸收して、

 片假名・平假名・漢字が共存する日本語の長所を見事に活用します。

 曰く──

 「私が最も親しみを抱く日本・中國・台灣三つの言語が響き合ふ状況を書き表すとき、

 「數種類の文字が共存する日本語の文字體系は、ひたすら頼もしかつた。

 「カタカナで台灣語を、漢字でも略字で日本語を、繁體字や簡體字で中國語を傳へられる。

 「二種類の假名と三種類の漢字。

 「更に私は、發音表記であるピンインをローマ字で綴る」



      台灣人は漢族の子孫ではない


 扨て、かうして紹介してゐては、迚 (とて) も紙數が足りません。

 あと二つ、重要な指摘をして紹介を終ります。


 第一は、184頁にある、下記の記述です。

 「台灣では、閩南語を話す福建省南部から移住した人々の子孫が總人口の壓倒的多數を占める」


 台灣本省人の八割餘のDNAは、大陸の漢族と全く違ふことを、台灣の醫師複數が證明濟です。


 明・清交代期に大陸から、渡航禁止の台灣に渡つて來た漢族は男ばかり。

 台灣は瘴癘 (しやうれい) の地で、その多くは病氣で死ぬか、命からがら中國に逃げ歸りました。

 定住した漢族の極く一部が原住民平埔族の娘と結婚して混血兒を生みますが、

 原住民の娘との結婚を繰返してどんどん漢族の血が薄まり、原住民の中に消えて行きます。


 清朝末期、政府が課した税金は、漢族が安く、混血者が次に安く、原住民は高かつたので、

 彼らは漢族になりたがつた。

 清朝末期にやつと漢族の三字名の使用が許可されると、

 原住民は爭つて漢族名を名乘り、贋系圖を買つて漢族の子孫を自稱したのです。

  (台灣は海禁令の下、長らく渡航禁止でしたし、病氣だらけの地でしたから、

  (余程生活に困らぬ限り、渡航などしません。

  (特に名家の家柄の人は。だから、台灣人の家系圖の殆どは贋物の由です)


 台灣人は、原住民は山地だけと思ひ込んでゐますが、

 原住民の壓倒的多數が平地に住む平埔族であつたことを忘れてゐます。


 第二に、211頁に、日本人は中國を「支那」と稱び「侮蔑した」といふ點です。

 支那が蔑稱なら、なぜ日本人の學者は『支那哲學史』など、學術書に「支那」を使つたのでせうか?

 支那人自身が使つてゐた正當な名稱である支那を“蔑稱”といふのは、

 日本の敗戰のどさくさに附込んだ一部支那人のあらぬ言ひがかりです。


 日本が「本」で「支那」は末に當るからなどと言ふのは、

 家康が梵鐘の銘文「國家安康」にケチを附けたのと同じレベルのこじつけのいちやもん附けです。


 また著者は「皇民化運動の吹き荒れる中」と書きますが、この運動は強制ぢやありませんよ。

 實情をちやんと調べて書いて頂きたいものです。


 最後に一言。

 著者は日本で中國語を學んだためにローマ字で學びます。

 台灣で育つてゐれば、注音符號(ボポモフォ)で學んだ筈です。

 私は台灣で注音符號を知り、中國語を學ぶにはこれが最適と知りました。

 ローマ字を使ふピンインは、既に發音を知る中國人の簡易筆記法に過ぎませんから、

 記號に頼つて發音を學ぶ初學者には全然不適切です。

 似非發音でも中國人に通じますが、粗雑な發音をする人は、決して尊敬されません。


 ピンイン一邊倒で教へる日本の中國語教師は、學生に對して極めて不親切・不誠實です。

 不適切の實例を列擧したい所ですが、殘念ながら紙數が盡きました。

(平成29年8月25日/平成30年8月13日補筆)




 以下、補足です。


 32−33頁:母の日本語 (中國語の直譯的日本語です)

 ──おいしいの御飯、つくるよ。(好吃的飯)

 ──ほら、藥、食べてね。(吃藥)

 ──空、黒くなつてきた。(天K了)



 82頁から始る「母「國」語の憂鬱」といふ一文は、

 台灣人の複雜な言語環境を剰すところなく語つてゐます。


 少し長くなりますが、その一部を忠實に辿つてみませう。

 「忠實に」といふのは、作者は地の文章や日本語を略字と現代假名遣で書き、

 台灣人の話す中國語は正字で、中共の中國語は簡體字で書いてゐるからです。

 (日本のワープロは簡體字を受附けないので、そこだけ書けません。

  (以下、彼女の表現通り、日本語の略字は略字で表現します)


 子供の頃は、台湾人の両親を相手に中国語で話すことを殆どしなかった。

 ──好! 我們從現在開始講國語!

 (さあ、今からみんなで中国語を話そう)

 ときおり、父がそう提案することがあったのをよく覚えている。

 ヤダヨウ、と身をよじると、妹も私を真似て、ヤダヨウ、と続ける。

 父は声をたてて笑いながら、私たちと中国語で話すのを諦める。


 ──她把國語都忘掉了、是不是?

 (この子は中国語なんか皆忘れたんだろうね)


 國語。

 中華民国政府は中国語を「國語」として強制した。

 私の両親は、中華民国の「國語」として中国語を叩き込まれながら育った。


 両親の「母国語」は、本当に中国語なのだろうか?

 子供の頃、鞭打ちを恐れながら必死に身につけた言葉を、人は母国語と思えるだろうか。

 愛着が抱けるのだろうか。


 私が高校で中国語を習うことになった。

 母が叔母に、

 ──她在高中學習國語!

 (この子ね、學校で國語を習つてるんだ)

 叔母が微笑んで、

 ──現在我們説「中文」。

 (今は「中國語」と言ふのよ)

 私も母に言う。

 ──老師説的是「普通話」(カギ内は簡體字)

 (先生は「普通語」と言ふよ)


 台灣人である父や母にとって、中国語は、初めこそ外國語だったかもしれない。

 それでも少年少女の頃に「國語」として叩き込まれ、習得したそれを、

 今、自由自在に操りながら(ふんだんに台湾語も添えながら)、会話している。

 とても楽しげに。


 父が「さあ、今からみんなで国語を話そう」と言ったとき、

 私が「パパ、私の国語は日本語よ」と切り返したら、父はどんなに驚いたろう。

 父母が「國語」の時間に中国語を教わっていたように、

 日本の小學校に通う私は「国語」の時間に日本語を教わった。

 そして私の日本語は、両親の中国語のように、自分の中に深く沁み込んでいる。

 だから日本語は、私にとって「外国語」ではない。

 では日本語は私の「母国語」なのか?

 我也是「用別人的腦袋思索自己的問題」嗎?


 ──以上ですが、これだけでも、台灣人の置かれた複雜な言語状況が窺へます。

 ──更に二つ追記します:


 おばあちゃんの母語=日本語

 一一3頁に曰く、祖母は私たちの顔を見ると嬉しさうに日本語で歡迎してくれた。

 ──よく來たのねえ、さあ、お坐りなさい、叔母ちやんが果物を切るから、澤山召し上がれ。

 祖母の滑らかでたおやかな日本語……



 209頁に「皇民化運動」の吹き荒れる中……とあるが、「吹き荒れた」のではない。

 誤解も甚だしい。

 あれは「國語を家庭で日常使ふやう心がけてゐたら皇民と認めてあげても好いよ」

 といふ表彰運動に過ぎない。

 「改姓名」も、決して押附けてはいない。“強制”とか“強壓”は關係ないのだ。

 cf. 拙稿「台灣の皇民化運動──昭和十年代の台灣 (二)──」

  (中村孝志編『日本の南方關與と台灣』天理道友社、昭和63/1988.2.26、271-386頁)