本土決戰の謎 - 伊原教授の読書室

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     本土決戰の謎




伊原註:本文は、『關西師友』2017年七月號 10-13頁に掲載した

    「世界の話題」325號を採録したものです。

    掲載が大幅に遲れたのは、昨年末から大阪のほかに神戸 (住吉) でも伊原塾が始り、

    二本立てで報告の準備をしたため、ほかのことは全てほつたらかしにしたからです。

    大阪は「アラブ史素描」、神戸は「江戸思想史へのお誘ひ」で、全然別のテーマを

    並行したため、ほかのことは何もできなくなりました。

    今年 (平成30年) 七月に雙方とも終つたので、ホッとして過勞で倒れました。

    大阪は何れ再開しますが、神戸はこれでおしまひです。

    だからこれまで溜つた文を次々掲載して行きます。

    乞御期待!







     帝國陸軍内の敗戰革命派の存在


 伊原塾で、今月は家村和幸の

 『戰略・戰術で解き明かす眞日本戰史』(寶島文庫、平成29年)

 を讀むことになつてをります。

 昨年、十九世紀の戰爭史を採り上げたので、日本の戰史も見ておかうと考へたのです。


 文庫版でざつと二百頁。

 五章に分れ、古代・鎌倉室町時代・戰國江戸時代・幕末明治時代・昭和時代

 の戰爭が題材です。


 ひつかかつたのが、末尾の「本土決戰」です。

 「敗戰革命を目指す親ソ派 内陸持久といふ滅亡への道」とあります。

 そして曰く、

  大東亞戰爭末期の我國には「二つの異る軍部が存在してゐた」と。


 陸軍部内の對立の話です。


 一つは、軍事發想の國體護持派。

 もう一つは、政治發想の敗戰革命派。


 國體護持派は阿南惟幾陸軍大臣や大本營陸軍部(軍令部門)の主流である良識派で、

 天皇・國土・國民を守り抜かうとした一派。

 彼らは、「最後の一戰」として本土の水際決戰に於て米軍に大打撃を加へた上で

 この戰爭に決着を附けるつもりだつた。

 それで假令(たとへ)帝國陸軍が全員玉碎しても

 あと國民が生き殘れば戰爭目的を達成できると信じてゐた。

 竹槍しか持たぬ國民を捲込んで共に戰ふつもりなど無かつた、と。


 問題は、もう一つの政治イデオロギー的黨派である敗戰革命派の存在です。

 開戰當初から陸軍省を中心に、大本營陸軍部の一部を含みつつ、親ソ派軍人が居て、

 「内陸持久戰」により國土を戰場化し、

 國民も捲込んで大日本帝國の國體を徹底的に破壞解體して

 ソヴェト共和國を樹立しようと謀つてゐた、といふのです。

 (何たる人命輕視! と思ひますが、革命派は唯物論でニヒリストですから、

 (人命を尊重したりなどしないのです)


 彼ら親ソ派軍人の中核をなしてゐたのは、

 支那事變の最中に陸軍省の各部局に入り込んできた召集將校たちであり、

 その正體は、右翼を裝つた轉向共産主義者だつたと。

 彼らは大日本帝國を徹底的に潰すため、

 内陸でも戰ひ續けようとして大本營移轉計劃を昭和十九年一月に早々と樹ててゐるとして、

 陸軍省軍務局軍事課豫算班の井田正孝少佐が

 「大本營移轉計劃」を陸軍次官富永恭次中將に出した例を擧げます。

 軍政部門の統括者である富永次官は、軍令部門の大本營陸軍部に聯絡せぬ儘、

 候補地信州の現地調査を命じた、と。

 この大本營跡は、今も殘つてゐます。


 軍部の中に共産主義者が大勢ゐたことは、

 戰後公刊された「近衞上奏文」でよく知られてゐます。


 でもその背景に、戰爭末期に於る大本營陸軍部對陸軍省の對立があり、

 陸軍省の親ソ派として

 具体的に富永恭次陸軍次官や陸軍省軍務局の井田正孝少佐の名を出すのは、

 寡聞にして私は初めて目にしました。


 これは一大事、早速調べてみなければならぬ。


 でも目下私は複數の課題を同時並行して進めている眞最中。

 この問題について自分の見解を纏めるにはたつぷり時間がかかる。

 迷つた揚句、今後の課題として問題提起しておくことにしました。



     親ソ派軍人とシベリヤ抑留


 家村さんのこの記述で私が探究心を刺戟されたについては、

 幾つかの事項が聯想を呼びます。


 第一は、シベリヤ抑留です。

 これには瀬島龍三參謀が登場します。

 彼は終戰直前に關東軍參謀に赴任しますが、

 それは豫想されるソ聯軍の滿洲攻撃に備へてソ聯軍と聯絡を取るためでした。


 八月九日にソ聯軍の滿洲攻撃があり、その直後の十九日、

 ソ聯軍との停戰交渉の席上、瀬島參謀は

 「ソ聯への國家賠償として日本軍將兵らの勞務提供を申し出た」

 といふのです。

 斯くて六十萬(一説に百萬超)もの日本人軍民の“シベリヤ抑留”が結果しました。


 こんな提案をした瀬島參謀一派の目的は、憎っくき米英と敗戰後も對抗するには、

 敵の敵ソ聯と組むのが良いとの判斷からだとされます。

 だから彼は十一年間抑留された(その間、ソ聯と通じてゐた)あと歸國後も、

 ソ聯大使館員と神社や寺などで接觸を續けてゐたさうです。


 この話は、瀬島龍三がイデオロギーからといふより、國策上の戰略的判斷から

 「敵の敵と結んで國益を守る」行動に出た──といふ筋の話だと思ひます。

 (それにしても、米國と戰ひ續けるためにソ聯に頼るとは!)



     帝國陸海軍の對立の根深さ


 第二は、阿南惟幾陸軍大臣の終戰間際の言動に對する疑問です。

 二つあります。


 先づはなぜ、ああまでしつこく、且つ強硬に降伏反對・戰爭繼續にこだはつたか?

 この疑問は、一億玉碎まで戰ひ續けようとした陸軍の血氣に逸る將校らの暴發を避けて、

 承詔必謹の降伏に導くため、と説明されます(沖修二『阿南惟幾傳』講談社、平成七年)。

 これは多分、その通りなのでせう。


 問題はもう一つの疑問、阿南陸相が死ぬ間際に、「米内を斬れ!」と言殘してゐる事實です。

 なぜでせう?


 これは、冒頭に述べた陸軍部内に於る對立ではなく、帝國陸海軍の對立の話です。

 この對立は創立以來つき纏ひました。

 それでも日清日露兩戰爭では何とか協力したのですが、

 三代目の昭和になると、陸軍海軍が共に官僚化したことと、

 戰略目標の違ひが相俟つて、最後まで水と油のやうに溶け合ひませんでした。


 海軍では、

 「帝國海軍は全力を擧げて帝國陸軍と戰ひ、餘力を以て敵米英に當る」

 と揶揄された位、陸軍と張合ひました。

 兵員が陸軍よりうんと尠いのに艦船建造費が莫大なため、

 始終背伸びせざるを得なかつたからでせう。

 大東亞戰爭中、海軍が余りに帝國陸軍に協力せぬため、陸軍の軍人は

 「陸軍は右手で海軍と戰ひ、左手で米軍と戰つたようなものだから、勝てる筈がない」

 と嘆きました。

 陸軍は統帥を一本化しようとしたのですが、海軍がどうしても受入れなかつたのです。

 陸軍が船舶部隊(陸軍運輸部)を持つたのは、海軍の陸軍非協力の産物です

 (松原茂生・遠藤昭『陸軍船舶戰爭』陸軍船舶戰爭刊行會、平成八年)。



     陸軍惡玉論を演出したのは誰か


 阿南惟幾陸相は敗戰の責を背負つて、八月十五日早朝、自刃しました。

 米内光政海相は生延びて何をしたか?

 マッカーサーと會ひ、

 マッカーサーの腹心である軍事秘書官フェラーズ准將と打合せて、

 天皇を免責するため東條英機に全責任を負擔させる協議をしたのです。(この間の經緯については、

 NHKスペシャル取材班『日本海軍四百時間の證言』新潮社、平成23年、363-367頁參照)


 米内さんは、東條だけでなく、嶋田繁太郎海相にも責任を取らせてはと進言したやうですが、

 東京裁判は結局、海軍を免責し、死刑は陸軍ばかりとなりました。


 陸軍は、「負けたのだから我々は辯解すまい」と申合せました。

 これをよいことに戰後、外務省も便乘して陸軍を批判し、

 その結果、戰後に「陸軍惡者史觀」が蔓延(はびこ)ります。

 海軍は國益より省益を優先して對米戰爭に突入させて大日本帝國を滅ぼした上、

 戰後まで陸軍と戰ひ續けたのです。


 阿南陸相が、何を以て「米内を斬れ!」と言つたかは判りませんが、

 國益より省益を優先する海軍の發想法や行動樣式が許せなかつたのではないかと、

 私は考へてゐます。

(平成29年6月3日)


 平成30年8月7日 追記:

 以上は 略 原稿通りの文章ですが、

 最近讀んだ 林 千勝『近衞文麿:野望と挫折』 (ワック、2017.11.25) によれば、

 米内・山本・永野修身は近衞文麿と組んで我國を敗戰革命に追込んだ張本人です。

 これ正に賣國奴。

 阿南惟幾がこの事實を知つてゐたのなら、「斬れ!」と言つたのも頷けます。