二二六事件と昭和天皇 - 伊原教授の読書室

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        二二六事件と昭和天皇



伊原註:これは『關西師友』平成27年/2015年8月號(6-9頁)に載せた

     「世界の話題」305號 を轉載したものです。

     少し補足してあります。





 私は定年退職後、現代史の見直しを志していろいろ讀み漁つて來ました。

 私の歴史勉強は、全て明日に向つて生きるためです。

 確實に歩みを續けるには、昨日の世界をきちんと把握しておかねばなりません。


 我國の現代史では、敗戰を招くに到つた昭和前期の過程の理解が特に大事です。

 ここが「歴史戰爭」 (誰かを惡者に仕立て上げて叩く謀略合戰) の舞台だからです。


 でも歴史理解は、生易しい事業ではありません。

 歴史は勝者が書くことが多いのです。

 だから勝者に都合の良い歴史記述がまかり通ります。

 例へば明治維新史は薩長土肥史觀です。

 戊辰戰爭で負けた側の見方は餘り表に出て來ません。


 歴史には裏があり、裏には更に裏があり、そのまた裏もある、と言はれるのはそのためです。

 ほんとのことに嘘・でっち上げを取り混ぜて尤もらしい話に仕立てあげることも多いのです。

 だから、歴史を學ぶ側としては、資料を愼重に選び、讀取りに工夫を凝らさねばなりません。

 表面的理解に終始してゐては、明日への一歩が的確に踏出せません。


 米山忠寛『昭和立憲制の再建 1932〜1945年』(千倉書房、平成27年)の

 「天皇機關説事件・國體明徴運動の經過」(066頁以下) を讀んで、

 昭和前期史に關する理解が一段と深まつたので、報告しておきます。



            美濃部達吉の天皇機關説


 私は河合榮治郎の孫弟子ですから、美濃部達吉の天皇機關説事件には批判的でした。


 軍部を批判して東京帝國大學から追はれた河合榮治郎の事件と同質のものと受取り、

 機關説批判者側を、輕佻浮薄な時局便乘者と判斷してゐたのです。


 所が米山さんによれば、

 事件の焦點は、機關説が説く國家法人説の排撃ではなく、

 法人説が孕む問題點、

 即ち「天皇親政を否定する可能性がある不備」にあつたのです。


 天皇を機關説に從つて「國家といふ法人の理事長」とすると

 國家が天皇より重くなり、天皇が取替へ可能な輕い存在になつてしまふ、

 ──といふのです。


 西歐では議會が國王と對立し、議會が王を廢する革命が起きてゐます。

 そんな事態を生む隙を殘す理論は、我國體に合はぬ──といふ批判だと。


 だから美濃部さんは、そんな隙を封ずる説明をすれば足りたのです。

 ところが美濃部さんは論點を理解せず、

 “自説の辯明”に終始して隙間が埋まらなかつたため、問題をこじらせてしまつた。

 そこで政府は已むなく二度も國體明徴聲明を出して

 美濃部さんの“尻拭ひ”をせねばならなかつた。

 二度とも聲明は「天皇の統治權」を確認してゐるだけで、

 國家の法人格については否定してゐない。

 國家の法人格を否定すれば、

 國際條約や債權問題が天皇個人の契約となつて不都合を來(きた)すからだと。


 美濃部さんが天皇の地位の重みに言及するだけで一件落着した筈だ

 ──と著者は書きます。


 天皇機關説事件で國家法人説が否定されてゐない

 ──といふのは、私には新發見でした。

 當初、國家の法人格否定を求めてゐた軍部も、

 國際條約は天皇個人の契約ではないので機關説が否定できぬこと

 ──に納得してゐた由です。



            二二六事件の鎭壓もたつき


 この議論で はたと氣附いたのが、二二六事件鎭壓の遲延問題です。


 二二六事件は軍内外に共感者が多く、

 危ふく成功しかけたことは、當時の記録から明かです。


 當初から斷固鎭壓の立場を取つたのは、

 昭和天皇を初めとして極く少數のみ。

 だから鎭壓はもたつき、陸軍當局が鎭壓にとりかかるまで丸二日を空費しました。


 なぜもたついたのか?


 當時、昭和天皇を輕(かろ)んずる風潮があつたからです。

 三つ、事例を擧げてをきます。


 第一、張作霖爆殺事件に由來する田中義一首相不信任騷ぎで、

    陸軍でも政界でも「若く未熟な陛下」を輕んずる「下剋上」の風潮が生じた。

    (伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壞』名古屋大學出版會、2005年)


 第二、若手將校が愛讀した北一輝の國體論も、國家重視・天皇輕視の一面があつた。


 第三、二二六事件の首謀者の中にも、陛下を秩父宮と取替へようとする動きがあつた。


 臣下が天皇を取替へるなど、とんでもない國體蹂躙です。


 昭和10年/1935年 2月の貴族院本會議に於ける天皇機關説批判に始まる一連の動きは、

 天皇機關説に、さういふ事態を導く理論的可能性あり、と危惧した人達が提起した

 “問題點の指摘”だつた──といふのです。


 だから昭和11年/1936年の二二六事件のあと、

 昭和天皇は皇道派に嚴しく、

 皇道派の復活起用を考へてゐた近衞文麿首相との間で若干齟齬が生じました。

 (皇道派を鎭壓した所謂統制派も、陛下の御意圖に必ずしも忠實ではなかつたのですけれども)


 だから昭和天皇は、その後も軍部のクーデターを警戒し續けられました。

 (『昭和天皇獨白録』文藝春秋、1991年)



       我國政體:楕圓構造の精妙さ


 我が國體は、權威と權力の二中心の楕圓構造で説明できます。


 天皇の權威の下に權力を行使する政府がある。

 二つの中心が上下を成す楕圓形です。


 天皇の權威が上で、元首として對外的に國家を代表し、政府を任命するが、

 平素は現實政治に關與されません。

 天皇がなされる國家的行事の主なものは二つ、


    御學問(作歌に象徴される國語の奥義獲得)と

    神事(天地豊饒を祈り、國民の幸を祈念)


 に專念される高貴な存在だと。

    (江戸時代には、「色事」即ち男子の産出が含まれてゐました)


 但し一旦緩急(くわんきふ)ある時には、ポツダム宣言受諾の如く、

 國家の運命を左右する決斷を下されることがあります。

 元首の元首たる所以(ゆゑん)です。


 天皇は、當初こそ軍を率ゐて「親政」されましたが、

 軈(やが)て攝政關白や幕府など輔弼(ほひつ)機關を置いて權力を行使せしめ、

 天皇は權威に終始します。


 政權は交代するが、天皇は權力鬪爭から離れた所で萬世一系を保持する。

 これが素晴らしい智慧で、世界に冠たる精妙な國體を形作つて來ました。


 明治維新が七百年前の「天皇親政」に戻したといふのは誤認でありまして、

 大日本帝國憲法も輔弼による間接統治です。

 つまり、天皇が政權を任命して統治を任すといふ意味で「象徴」であるのは

 平安時代以來續く傳統なのです。

 低い塀と小溝で圍んだだけの京都の御所を誰も侵さなかつた事實が、

 天皇の權威の重さを示してをります。


 先に、昭和初年代に若い昭和天皇を輕視する風潮があつたと書きました。

 昭和3年/1928年の張作霖爆殺事件に絡む田中義一首相叱責、

 昭和5年/1930年のロンドン海軍軍縮條約締結に絡む統帥權干犯問題、

 この背景にある昭和天皇の民政黨好みと政友會嫌ひなどが、

 昭和天皇の未熟さを政界や軍部に悟らせ、

 天皇輕視・下剋上の風潮を呼んだ──といふのですが、

 これらは盡く内大臣牧野伸顯の輔弼の責任です。


 原敬が生き延びて内大臣を務めてゐたら、

 昭和はもつと順調な展開をしたでせう。

 明治・大正から昭和ともなると、人物が拂底するのです。


 帝國大學でも、陸海軍の大學校でも、幕僚(官僚・助言者)ばかり育てて

 指導者(行動者・決斷者)教育を疎(おろそ)かにしたからです。


 二二六事件の問題は、二つあります。


 (1)上述した「天皇を取替へる危險」を秘めてゐたこと、

 (2)殺害對象の高官も國士なので禮を以て遇すべきなのに、

    滅多やたらに銃撃・斬撃した(渡邊錠太郎・高橋是清)こと。


 當時、あの殺し方は「武士道に悖(もと)る」といふ批判がありました。


 天皇にとり、國民は全て赤子(せきし)です。

 だから二二六事件の第一報を聞いた時、

 昭和天皇は

   「全く私の不コの致す所」

 と仰せられたのです(甘露寺受長『背廣の天皇』/『天皇さま』)。


 所が廣田弘毅首相は昭和11年/1936年5月4日の第69特別議會開院式の勅語中に

 特に請ふて

   「今次東京ニ起レル事件ハ朕カ憾(ウラミ)トスル所ナリ」

 といふ、言はずもがなの言葉を挿入しました。


 政治的に中立の天皇は、政爭の一方を非難してはいけません。

 廣田首相の輔弼の誤りです。v

 この蹉跌(さてつ)を修復されたのが、當時皇太子であつた今上陛下です。

 蹶起派の軍人・歌人、齊藤瀏の娘で同じく歌人の齊藤史(ふみ)を

 二度に亙つて宮中の歌會に招き、親しく御聲をかけられることにより、

 浮かばれなかつた二二六事件の犠牲者達の魂を救はれたのです。

   (工藤美代子『昭和維新の朝』日本經濟新聞社、2008年)。


伊原註:上記の點については、私の「讀書室」に 2010.10.4 附で掲載した

    「昭和天皇と二二六事件」

    を御覧下さい。

(平成27/2015.7.7/平成28/2016.2.11補筆)