昭和十年代の統制經濟 - 伊原教授の読書室

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昭和十年代の統制經濟



伊原註:これは『關西師友』平成26年/西暦 (基督教暦) 2014年12月號 10-13頁に掲載した

        「世界の話題」第299號です。

        少し増補してあります。



      共産主義者の浸透に驚く近衞公


  近衞文麿公が昭和20年 2月14日に昭和天皇に拝謁したときの意見を纏めた

  「近衞上奏文」(眞崎勝次『亡國の回想』國華堂、昭和25/1950.2.1、39−46頁)

  に於て、

      「軍部内の一味」が國内革新の名の下に日本の共産化を企んだこと、

      官僚がそれに便乘したこと、

      右翼とは「國體の衣(ころも)を着けたる共産主義者」に他ならぬこと、

      彼等一味が今や敗戰革命を目指して策動中なる故、速かに講和をと望んだこと──

  を指摘してゐることは、よく知られてゐます。


  近衞さん御自身が尾崎秀實(ほつみ)を初め多くの共産主義者を登用してゐて、

  第三次近衞内閣崩壞直後にゾルゲ一派が檢擧されたので

      「共産主義者の日本浸透」

  に氣附いた由。


  近衞さんは遲まきながら氣附きましたが、

  今だに氣附いてゐない(ふりをしてゐる?)學者が大勢居て

  好き勝手に教へてゐますから、

  近衞さんの憂慮は共感を生んで居りません。


  世界中に、特に頭腦優秀な若者に共産主義が浸透するのは、

  第一にロシヤ十月革命が起きて革命への憧れが生じて以來、

  第二に米國發の世界大不況で資本主義が行詰つたと認識されて以來のことです。


  世界大不況のあと、米國にFDR民主黨容共政權が生れ、

  共産化の第一段階として

      「ニュー・ディール」といふ名の社會主義政策

  を展開します。

  FDR政權がソ聯を承認するのは、ソ聯を擁護するためです。


  1929年の米國發の世界大不況は、

  本誌『關西師友』11月號で紹介した『操られたルーズベルト』によると、

  英米聯合の國際金融資本が仕掛けたものですが、

  金融資本を牛耳るユダヤ人も金融資本も社會主義・共産主義も

  共にインターナショナルの無國籍で通じてゐます。


  米國FDR民主黨政權が日獨を憎んで叩いたのは、

  日獨兩國が「反ソ反共」で「民族主義」だつたからです。

  彼等は既定の國境をぶち壞して、世界を一元的に取仕切らうとしたのです。



革新官僚と陸軍統制派の結託


  この國際主義の我國への浸透は、

  青年學徒に對する無政府主義とマルクス主義の浸透で事態が始ります。

  無政府主義は、トルストイを含む「人類和合の理想郷の追求」の理想です。

  マルクス主義は、ロシヤ革命のあとでは、レーニンのボリシェヴィキの形を採りますから、

  共産黨といふ「鐵の革命組織」を核心とする破壞集團となります。

  ナロードニキの「世界人類救濟のためには、敵對者をテロで排除する」

  ニヒリズムを受容れてゐるのですが、多くの青年はさうとは悟らず、

  理想社會建設を夢見て傾倒して行きます。

  尾崎秀實も、ソ聯に行けば肅清されてゐた筈なのに──


  共産主義の第一段階としての社會主義が統制經濟の形で軍人に浸透するのは、

  彼等が第一次大戰後、次の戰爭に備へて國家の經濟統制が必要と認識して以來です。

  (だから、總力戰に注目した永田鐵山がその先頭を切ります)


  官僚には、金解禁のための引締め+大不況の産物である「昭和恐慌」の痛切な經驗、

  及び滿洲國に於てソ聯の五ヶ年計畫をモデルに重化學工業の建設を進めて以來です。


  彼等“新官僚”“新々官僚”“革新官僚”は、

  統制經濟運用機關として昭和10年/1935年に「内閣調査局」を設置します。

  これは支那事變勃發後に「企畫院」となり、

  軍部に協力する戰爭遂行官廳になります。


  陸軍では 1930年代 (昭和5年〜14年) に入つて、

  二つの動きが統制經濟を準備します。


  一つは、一夕會系幕僚(佐官級の軍中堅派)が荒木陸相を擔(かつ)いで、

  政友會寄りの田中義一(長州系)や

  民政黨寄りの宇垣一成(反長州系)の系統の軍人を

  政黨政治諸共 追放します(昭和7年/1932年の五一五事件以降)。


  政友會も民政黨も「親英米」で資本主義容認だからです。

  統制經濟は反資本主義であり、反英米なのです。

  だから、親英米の政黨政治は、この時期に息の根を止められます。

  政黨政治後退と共に、

  ワシントン會議後の、つまり1920年代の對英米協調外交も終るのです。


伊原註:これは「軍部がのさばつたから」ではありません。

        この時の日本の英米離れは、世界大不況後に英米が仕掛けた

        日本締出の“ブロック經濟”があります。

        開國以來、英米寄りで殖産興業・富國強兵して來た日本を

        “持てる國”英米が國際市場から閉め出したものですから、

        日本が反英米に傾き、辛ふじて隣國シナ市場に望みを繋ぐのです。

        この英米の利己主義と獨善こそ、大東亞戰爭の遠因です。


  二つ目は、陸軍幕僚の權力掌握です。

  “統制派”による“皇道派”の青年將校潰しです。

  統制派が謀略により青年將校を暴發させ、軍から一掃した二二六事件後に、

  「總力戰體制」と稱して統制經濟(社會主義政策)に進みます。


  統制派の代表的人物は、永田鐵山、東條英機、武藤章、片倉衷らです。

  その總帥である永田鐵山は第一次大戰後の大正9年/1920年に逸早く

  「國家總動員ニ關スル意見書」を纏めてをり、

  岩淵辰雄は

      「陸軍で最初に獨逸から長期戰と國家總動員による

      「國防國家建設の思想と計劃を持込んだ」人と評します。

      (『軍閥の系譜』『岩淵辰雄選集 第二巻』青友社、昭和42/1967.12.1, 40頁)


  統制經濟の走りは、昭和6年/1931年の重要産業統制法です。

  これは強制カルテル立法で、

  昭和9年/1934年の製鐵大合同

      (八幡・釜石・輪西・三菱・九州・富士の六社が日本製鐵となる)

  に始り、

  重工業分野の統合が相次いだあと、

  これで競爭がなくなり、技術革新が止まります。


  昭和8年/1933年には、外國爲替管理法と米穀統制法が公布されます。

  前者は二年前の犬養内閣の高橋藏相による金解禁停止の後始末で、

  以後輸入は政府の外貨割當が必要となります。

  外國から何を買ふかを企業でなく官僚が判斷したのです。


  米穀統制法は米に公定價格を導入したので大阪堂島の米市場が潰れ、

  米の品質が問はれなくなります。


  統制經濟の完成は、昭和13年/1938年の近衞内閣による國家總動員法の制定、

  及び電力管理法の公布です。


  前者により、民間企業が經營自主權を失ひ、官僚統制の命令經濟に墮します。

  國家社會主義のナツィス・ドイツも、

  社會主義禮讃のFDRのアメリカも、

  私企業の活力の源泉である經營自主權を生かして使つてゐたといふのに!


  例:獨逸のジェット機開發は、ハインケル社が空軍に提案したものです。

  そんな企業の自主性は、日本の統制經濟下には存在しせんでした。

  そして日本の企業は官僚統制下で保證された利潤に甘んじ、

  經營自主權の凍結に逆らひませんでした。



昭和の統制經濟は共産化の始り


  近衞内閣が施行した國家總動員法は、民間企業から經營自主權を奪ひました。

  各業種に事業組合を導入し、官僚が天下りして企業活動を制約します。


  ソ聯の五ヶ年計劃型經濟運營は指令型經濟運營、つまりは全くの官僚統制であつて、

  戰時中の國家は軍需を優先し、民生は後回し(?無視)されます。

  軍需でも上からの命令により動くだけで、技術革新の動機は、戰場からの要求のみ。

  敵國の新兵器と爭ふ新兵器開發は、官僚統制(命令經濟)の常で、後手後手に回ります。

  官僚統制がのさばつた日本の戰時經濟運營は、

  效率の惡いソ聯型經濟運營に限りなく近いのです。


  近衞さんが大東亞戰爭末期に我國が

      “社會主義者だらけ”

      “共産主義者だらけ”

  と驚いたのは遲過ぎます。


  我國の統制經濟・官僚指導は、戰後も續きます。

  占領下では、GSに蟠踞するニューディーラーなる社會主義者と結託し、

        農地改革や、

        重要産業に優先的に資材を廻した傾斜生産を

  實施しました。


  それでもさすがに獨立後は企業の活動が次第に自由化し、

  民間企業が獨自製品を開發するやうになります。

  戰後も官僚の指導や保護の下にあつた一部産業は、

  競爭力を亡くしてどんどん脱落します。

  石炭業然り、稻作農業然り、金融證券業界然り。

  企業も人も、競爭に晒されないと成長しないのです。



冷戰發生で自由競爭が活性化


  米國民主黨容共政權はFDRもトルーマンも、

  戰後、ソ聯と仲良く世界を牛耳るつもりでソ聯支援を續けましたが、

  スターリンの方は“資本主義は仇敵”と確信してゐたため

  資本主義國との決戰に備へて警戒を強めたため

  「東西冷戰」が始動し、

  それが朝鮮戰爭で熱戰となり、

  漸く米國は本來の“自由民主主義國”に戻ります。

  社會主義者・共産主義者を抱へ込んだ儘だつたため、

  マッカーシーの赤狩りが起きましたけれども。


  扨(さ)て私がこの文章で言ひたいのは、

      「現代史の見直し」の必要です。

  特に兩大戰の戰間期(1920年代と1930年代)の國際關係の見直しが必要です。


  ロシヤ革命と世界大不況が

  米ソ二國を社會主義・共産主義で結託させたこと、

  だからこの時代、特にFDR容共政權成立後の米國が

  ソ聯支援・反ソ勢力打倒で通じてゐたことです。


  かくて世界史の理解がまるで違つて來ます。

  なにしろ、反共で天皇を頂く日本でさへ社會主義政策を實行してゐましたし、

  ナショナリズムを謳つたナツィス・ドイツも

  それに社會主義をくつ附けてゐたのですから。

  ナツィスの正式名は「國民社會主義勞働者黨」です。


伊原註:大東亞戰爭末期に我國が對米媾和の取持ちをソ聯に期待するのは、

        軍部中堅が社會主義に傾倒し、親ソ反英米だつたからです。

        戰後、ソ聯が我國の軍人や民間人を抑留して建設に從事させたのは、

        戰後英米に對抗するためソ聯を強くしようと考へた關東軍參謀の入れ智慧だつた由。

        それほど「親ソ・親社會主義」は陸軍軍人 (の一部) に浸透してゐたのです。


  しかし、國家統制を徹底實施して私企業の息の根を止めたソ聯に較べ、

  日獨米はさすがに私企業の活力を温存しました。

  日本だつて、

  辛ふじて私企業を温存し戰後統制を緩めたからこそ、

  戰後の六十年代の高度成長と繁榮があり得たのです。


  大不況後の社會主義猖獗と戰時の米ソ癒着を見過ごしてゐては、

  二十世紀の歴史が理解できません。

(平成26/2014.11.25/平成27/2015.1.24加筆)