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    高級言語と低級言語




伊原註:以下は『關西師友』No658/2013年九月號 12-13頁掲載の

        「世界の話題」(285) です。

        少し増補してあります。






      言葉の教育の高低二段階


  明治維新後、我國は外國人教師を大量招聘(せうへい)して西洋の學問を學びました。

  この初期段階では、外國語の講義が聽け、外國語で著書が書ける人が育ちます。


  『茶の本』を書いた岡倉天心、『武士道』を書いた新渡戸稻造らです。


  やがて日本人の教師が育ち、國語で講義をするやうになると、

  外國語が讀めても喋れぬ教師や學者が殖えます。


  英國に留學した文部省留學生(帝大教授や舊制高校教授)が、

  「ロンドンでは乞食でも英語を喋ってゐる」

と目を丸くした話が傳はつてをります。

  喋れぬことが、餘程の劣等感になつてゐたのでせう。

  でもその乞食は、英國の大學の講義に出ても内容は理解できなかつた筈です。


  ここで、言葉に二つの水準があることが見えて來ます。

  高い文化水準でやりとりできる言葉遣と、

  日常生活に不自由ない程度の應答能力(屢 讀書きできない)に留まる低級言語です。


  兩者を分ける有力根據が「讀書力」です。

  讀書によつて語彙(ごゐ)が殖え、知識が擴がり、考へる能力が育ちますから。


  シナではついこの間まで、

      文字が少々讀めたり、字が二三書けたら知識人扱ひされました。

      庶民は文盲(もんまう)で、自分の名前さへ書けぬ状況にありました。

  漢字と科擧が、庶民と知識人の間に言葉の大きな壁を作つて來たのです。


  我國は江戸時代に教育が普及しました。

  戰國動亂の時代が終つて天下泰平となり、經濟が大成長して町人文化が榮えました。


伊原註:江戸時代は三段階で始ります。

        第一段階:慶長5年 (1600年) の關が原の合戰。「天下分け目の戰ひ」です。

        第二段階:慶長8年 (1603年) の家康が征夷大將軍になつた時。

        第三段階:元和元年 (1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ時。

                  元和偃武(げんなえんぶ)の年です。

                  「天下泰平」は、この年に始ります。


  人々は挿繪入りの讀本(よみほん)を讀むため寺子屋で學び、

        男は略(ほぼ)全員、

        女も半分以上が、

  讀み書き能力を持ちました。

  江戸時代の日本人は、世界で飛び抜けて識字率が高かつたのです。

  この點で、世界一の文明國だつたと言へます。


伊原註:「高信用社會」を逸早く築いた點でも、世界一の文明國でした。

        このことは、以下の二つの出來事で判明します。


        第一、天和3年(1683年)、江戸駿河町に呉服店を出した三井の開祖高利が、

        一見 (いちげん) の客にも定價販賣をする

        「現銀安賣掛値なし」といふ新規商法を始めたこと。


        第二、元祿2年(1689年)、「奥の細道」の旅に出た松尾芭蕉が、

        通りすがりの農夫に馬を借りて宿まで行き、

        乘捨てたあと鞍に賃錢をくくり附け、はいよと返した話。

        貸した方は馬を盗られる心配をせず、

        返した方は賃錢を盗られる心配をしなかつたのです。


  指導層は、漢文を身につけました。

  話し言葉の文章化も江戸時代に始ります。

  これが明治の文明開化で、言文一致の現代日本語になりました。


伊原註:この言文一致體の日本語を手本にして魯迅が白話文を開發しました。

        シナの五四運動は反日(ドイツ利權の日本繼承反對)に始つたとされますが、

        「シナの日本化時代」でもありました。

        何故なら、當時のシナは、日本を通じて西洋化を圖つてゐたからです。



      段階的に弱まつた國語力


  江戸時代に高まつた日本人の言語能力は、二段階を經て弱まります。


  第一の劃期(くわくき)は、明治十年代の漢文素讀教育の終焉です。

        學校制度が普及して育てたのが、乃木大將の殉死を笑ふ世代です。

        歐米文化に憧れ、我國を「後進國」と蔑(さげす)みます。


伊原註:それでも、戰前の日本知識人の漢文の素養は大したものです。

        私は今、必要あつてワシントン會議の記録を讀んでをりますが、

        例へば下記の書物に「自作の漢詩を吟ずる」記者の話が出て來ます。

        緑岡  渡邊巳之次郎『華盛頓に於る日本の敗戰──英米戰爭の犠牲』


          (大阪毎日新聞社、大正11/1922.1.25)  定價金壹圓貳拾錢

        例へば 4頁早々に「一夜月明に乘じて散策しつゝ放吟し……」として曰く、


            五更揮策傲王侯。  膽氣乘風薄蒼穹。

            黙々案詩蟲咽露。  放吟罵世叫飛鴻。

            回天昔日有英雄。  文弱今同蒲葦叢。

            壯士慨時星散減。  笛聲悲處繋孤蓬。

            太平功業樹勲難。  萬骨古來恨那窮。

            玲瓏千里碧落下。  憂愁遙望渺茫東。


        これが隨所に出て來ます。

        日本の知識人は、大正時代になつてもなほ、氣輕に漢詩が詠めたのです。


        言ふまでもないことですが、


        漢詩を詠むには、漢詩を澤山知つてゐなければなりません。

        戰前の知識人の多くは、それだけの漢文の素養があつたのです。


        そして、書き手が漢詩を書くのは、


        讀者が讀めることを承知してゐたからであります。


        讀者が毛嫌ひするやうでは、書き手は書けても書きませんから。


  第二の劃期は、敗戰と國語改惡です。

  略字・漢字制限・現代假名遣は戰後育ちの日本人の語彙を激減させ、思考を幼稚化しました。


  問題は「高級言語」の方です。

  高い文化水準での應答ができるやうな高い水準の國語教育がなされてゐませうか?


  戰前は小學生なら誰もが暗記した教育勅語でさへ、戰後育ちは誰も讀めません。


  戰後日本人の頭腦は、

      戰前は勿論のこと、

      江戸時代の庶民と較べてもうんと幼稚化してゐるのです。


  これでは日本文化を外國人に傳へるどころの話ではない、

  自身が傳統を受繼ぐことも覺束(おぼつか)ない。


  漢字は意味を持つ象形文字ですから、速讀できます。

  日本語は片假名平假名を交へるので、漢字だけの文章より遙かに表現力が豐です。

  人名地名など固有名詞を簡單に表現できますから。


  その漢字文化圏で、朝鮮半島は漢字を追放しました。

  同音異字が多いのに全部發音記號化したのですから、

  略字ながら漢字を殘した我國より頭の中は幼稚化してゐる筈です。


伊原註:岡本幸治さんと二人で韓國の大學を訪ねたことがあります。

        日本語科の先生方(皆 若かった) に質問しました。

        韓國語は漢字を追放して、音標記号のハングルのみの表記にした。

        日本語でいふと、假名書きだけにしたに等しい。

        同音異字が多い日本語を假名書きにすると文意の理解が著しく困難になるが、

        韓國語で學術表記に不自由はありませんか?

        若い先生方は異口同音に

            「全然ありません、何の不自由もない」

        と答へました。


別の日に、別の土地で老學者を訪ねました。

        この方は「兩班」(やんぱん) の家系に屬する碩學(せきがく)です。

        若い學者は漢字追放に何ら不便を感じないと言つてゐた、と傳へると、

        この碩學、苦笑ひして曰く、

        今の若い連中は學問が淺いのです、

        淺いから、自分らの無知無學の深刻さに氣附かないのです、と。


        日本は少數ながら漢字を殘したので韓國よりはマシですけれども、

        略字化・漢字制限で語彙を極端に減らしましたから、

        頭の中が幼稚化してゐることは、韓國と大同小異ではないでせうか?



  扨(さ)て、國語の場合です。

  低級日本語では、略字・漢字制限・現代假名遣の儘で宜しいが、

  知識人は高級日本語、つまり正字・歴史的假名遣も使ひこなせなければなりません。


  略字・漢字制限・現代假名遣に飼馴(かひなら)されると戰前の書物も新聞も讀めません。

  戰前の書物が讀めぬやうな幼稚な日本人が、

  外國の知識人と對等に意思疏通できませうか?


  高級國語教育が急務であります。


  高級國語教育を中核とする指導者教育が、もつと急務であります。

  優れた人が澤山居ないと、民主主義は衆愚政治に墮しますから。

(平成25年8月2日/8月26日補足)