長い附合ひ - 伊原教授の読書室

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室




    長  い  附  合  ひ


        ──追悼  住田良能さん──



伊原註:我が畏友  住田良能(すみだ ながよし) さんが亡くなりました。

        多發性骨髓腫といふ、骨髓が血を生産できなくなる癌に罹つたのです。

        昨年 8月、危いから一日も早く見舞に行つた方がよいといふので、急遽東上しました。

        7月に醫師から「あと3月の命」と言はれた由。

        知らせてくれたのは、田久保忠衛、高池勝彦、柴田光廣(慶應大學加藤寛ゼミ)の三人です。

        住田さんは、新宿から地下鐵一驛の國際醫療センター(舊國立第一病院)に入院してゐました。

        私が見舞に行くと柴田さんが聯絡して、


        加藤寛ゼミ生の金井義邦さんも見舞に來てくれました。

        慶應義塾大學の加藤寛ゼミとは、住田さんの縁で、

        帝塚山大學の私のゼミと交流があつたのです。


        病床の住田さんは、一見、從來と變らぬ元氣な姿でした。

        ひとしきり私が話をして、「又會ひませう」と別れました。

        其後彼は一旦退院し、自宅に戻りました。


        田久保忠衛さんの話(電話)では、入院中も、櫻井よし子さんや田久保さんを呼出し、

        「うまいものを食ひに行かう」と鰻屋に誘つて、「本人が我々の倍食べた」由です。

        だから私は、大分恢復したのだなと安心してをりました。

          (健啖と頓死は河合學派の特徴です。もりもり食べて人一倍仕事して頓死するのです)

          (河合榮治郎先生然り、鹽尻公明先生然り、音田正巳先生然り、土屋清さんもさうです)

          (幾枝さんの辯:主人は“美食家" と言はれますが、餃子やラーメンも大好きでしたよ)

          (確かに、台灣では私とよく屋台で食事しました)


        今年は醫療の進んだ米國へ治療に行くと聞いてをりました。

        でも渡米は無理で、高價な米國製の藥を使つて日本で治療することにしたさうです。


        さうかうするうちに、6月2日、奥さんの幾枝さんから電話がかかりました。

        幾枝さんの聲は明るい。

        「今、病院に來てゐます。伊原先生に電話をして慾しいといふので掛けました」と。

        幾枝さんの聲が明るいので、ほつとしました。

        幾枝さん曰く、良能さんが明るく振舞ふので、看護する者も助かります、と。

        住田さんは、癌治療藥の副作用で聲が出ず、直接通話はしませんでしたが、

        幾枝さんの聲の明るさに救はれ、ほつとして受話器を置きました。


        所がその直後の 11日午前2時過ぎ、住田さんは亡くなりました。

        高池さんが 11日朝、

          「まだ新聞には出してゐないが……」

        と前置きして、彼の逝去を知らせてくれました。

        さては 2日の私への電話は、別れの挨拶であつたのか……!


        住田さんは昭和20年生れ。昭和5年生れの私より15歲も若い。

        若い人との別れはつらい。

        しかも住田さんは、社長を辭めたあと、もりもり讀書して更に世の中に貢獻すべく

        自宅を改築して書齋と書庫を準備してゐました。

        彼は社會思想研究會が信州の學生合宿ゼミで育つた俊英だから、

        そして新聞社にゐて人間關係はうんと擴つてゐたから、

        社長を辭めたあと、

        然るべき社會活動・教育活動を展開するつもりであつたに違ひありません。


        惜しい哉!


        6月14日の通夜、15日の住田家と産經新聞社の合同葬 (青山葬儀所) には行けません

        でしたが、22日に靖國神社で戰死した兄 (伊原克忠) の永代神樂祭に詣つたので、

        幾枝さんに連絡の上、翌23日、東日本橋にある臨時のお宅を訪問し、住田良能さんの

        位牌 (神式なので「住田良能之命」とあつた) と寫眞にお參りして來ました。

        そして幾枝さんを慰めるため、

        アルムの子守歌 と Amazing Grace を口ずさんで來ました。

        彼は周圍に迷惑をかけぬやう配慮し、なすべき處置を皆果して逝つた由。

        常に笑顔を見せ、「痛い」とは最期まで言はなかつたと。

        痛み止めのモルフィネを使つたのは、最期の二日だけ。

        親友 柴田光廣さんが言ふやうに、男の美學を貫いて見事な往生を遂げたのです。


        其後、前副社長の名雪雅夫記者から電話あり、

        社内で文集を作るので原稿を書かれたしとのこと、

        喜んでお受けしました。

        但し字數は 600字。

        その『産經社内報・追悼號』が昨日届きました。

        そこで私の分と、高池さんが友人代表として當日讀んだ弔辭を以下に集録します。

        高池さんのも私のも、舊字體・歴史的假名遣です。

(平成25/2013.7.28)




      中國現代史見直しに貢獻


        軌 跡

帝塚山大學名譽教授

伊原 吉之助



  住田良能さんとは、彼が慶應大學一年生の夏(昭和39年/1964年)以來の附合ひです。

  河合榮治郎先生の弟子が作つた社會思想研究會(社思研)が

  信州富士見高原で毎夏開催してゐた學生合宿ゼミに彼が初參加したのです。

  私は帝塚山大學助教授で、主催者側の者でした。


  爾來、私が東京に行くと彼の澁谷美竹町のお宅に泊り、

  彼も屢大阪の拙宅に來て泊つて行きました。

  芦屋の津村のおばちやん (津村咲子さん) も介在して、

  社思研が「人と人の繋り」を擴げました。


  彼が産經新聞社に入つたのも、社思研の土屋清さんの存在がありました。


  彼は座談の名手、もちろん筆も達者。

  水戸支局に居た時、水戸の聯隊の戰跡を取材して、

  ペリリュー島や南洋群島の話を聽いたのが、今も印象深く耳に殘つてゐます。


  私の影響で中國と中國語に關心を抱いた彼は、

  台灣へ行くため「蔣介石秘録」の連載を社内で提案して通ります。

  そして私の台灣留學に合せて台灣に渡來しました。


  蔣介石の日記をふんだんに使つたこの連載は、辛亥革命以降の歴史の封印を外し、

  台灣の學者に「中國現代史」論を解禁しました。


伊原註:台灣では中國近代史は辛亥革命で終り。

        それ以降は差障りが多く、誰も論じてゐなかつたのです。

        「蔣介石秘録」が“辛亥革命以降" に觸れたため、以後台灣の學界で

        この時代について論じたり教へたりできるやうになりました。


  産經新聞の連載は、同時進行的に中文に譯されて

  中國國民黨の機關紙『中央日報』に掲載され、

  その中文版は中國にも流れて中共要人の現代史見直しに貢獻した筈です。


伊原註:蔣介石は日本語が判るので、『産經』の「秘録」を直接讀みました。

        だから、『中央日報』の中文譯者は、蔣介石に“誤譯" を批判されないかと、

        ひやひやしながら、細心の注意を拂つて譯した由 (住田記者の當時の話)。


  彼は英語と中國語を驅使できました。

  米國駐在時期に解禁文書(特に米海軍の)を取材して「要監視記者」となり、

  危ふく國外追放になる所だつたと聞いてゐます。


  住田良能さんこそ、『産經新聞』をクォリティ・ペーパーにした大殊勲者です。

伊原註:産經新聞は大阪では社會面中心、庶民中心の紙面作りをしてゐました。

        「おもろない新聞なんか、讀者に讀んで貰はれへん」といふのが言分です。

        それを東京で評價されるやうに

        「正論」路線で政經中心の硬派新聞にしたのは住田さんです。

        因みに「正論」路線とは、

        日本惡者史觀に立つ朝日新聞への對抗路線です。

(平成25年 6月29日執筆/7月28日補足)






      公私ともに最期まで活潑


      弔 辭 (友人代表)


辯護士

高池 勝彦


  住田良能君、お別れの言葉を述べます。

  僕が君と知合つたのは、昭和39年、君が大學一年のときでした。

  君は、僕が入つてゐた社會思想研究會の讀書會に參加して來ました。

  僕はそのとき大學三年でした。

  以來、考へてみれば49年、半世紀近い附合でした。


  昭和39年といへば、社會思想研究會の指導者であつた土屋清先生が、

  編輯責任者として朝日新聞から産經新聞に移つた年でした。

  僕もこの頃、とる新聞を朝日新聞から産經新聞にかへました。


  僕は大學院に進み、學者にならうとしましたが、途中で司法試驗を受驗し、

  辯護士となりました。

  その間君は、加藤寛先生のゼミに入り、多くの本を讀み、多くの人と議論し、

  多くの土地に旅行し、そのため五年間の學生生活を送り、

  土屋先生のをられた産經新聞に入りました。


  僕の方が二歳年上ですが、君は健康そのもので、實に活動家でした。

  夜中でも僕の下宿を訪れて、餃子を食べに行かうと誘ひに來ました。

  そして、活潑な議論をしました。

  君の幅廣い交友範圍の中に加へていただきました。


  君の産經新聞の初任地は宇都宮でした。

  當時僕は司法試驗の受驗準備をしてゐましたが、

  君はどこで勉強しても同じだと言つてほぼ毎月宇都宮に呼出されました。

  アポロの人類初の月面着陸をテレビで一緒に見たのも宇都宮でした。


  君の結婚は、昭和48年 2月でした。

  僕の結婚は、その年の 5月でした。

  僕の結婚式は、我々夫婦と、仲人の佐藤寛行くさん、僕と家内の兩親、

  それに君と君の奥さんの幾枝さんだけで明治神宮に參拝し、

  そのあと食事をしただけでした。

  ところが、僕の友人知人に聯絡するのが大變で、

  君に披露宴をやれといはれ、數ケ月後に披露宴だけを別にやりました。

  そのときの司會をしてくれたのが君でした。


  また、私共夫婦は新婚旅行をしなかつたといふので、

  君が僕の新婚旅行に同行するといふ口實で、

  角田吉彦君夫妻と當時まだ獨身だつた三木啓史君の七名で、

  その年の暮、トラック島へ行きました。

  まだ觀光客のほとんど行かなかつたころで、樂しい旅行でした。


  また、もちろん君が台灣に滯在して蔣介石秘録の編輯をしてゐたころには

  台灣に何度も行きましたし、

  君も僕もアメリカに住んでゐたときには二人とも子供連れで

  アメリカ中どこへ行つても 300ドルといふ飛行機の切符を買つて、

  アメリカ全土を旅行したこともあります。


  産經新聞における君の活躍については、僕はただ外から眺めてゐただけですが、

  あれよあれよといふ間に社長になり、新聞をかなり刷新しました。

  夕刊の廢止などかなりドラスティックな改革で、

  毀譽褒貶は世の常とはいひながら、批判をものともせず、改革に邁進しました。


  そして平成23年、社長をやめたときには、

  僕はもう少し長く社長かなと思つてゐただけにびつくりしました。


  このやうに、君は實に活動的で、頑健そのもので、活潑で、

  僕は寧ろひ弱な體質でした。

  その頑健な君が健康診斷で、骨髓腫といふめづらしい病氣に罹つてゐることを

  告げられたのが、平成20年頃でした。


  そして、健康な骨髓移植の手術を受けたのが平成23年であると聞きました。

  ちやうど社長を辭めたころでした。

  健康な君にとつては初めての大病だつたのですが、

  これで病氣が直つたと思つてゐたところ、昨年の 8月、病状が進んでをり、

  あと數ケ月であると主治醫に告げられたのです。


  君はそれから身邊の整理を行ひ、僕も色々な相談を受けました。

  僕はそのころ何度か會ふ度に、そんなに死期が近いなどとは

  たうてい信じられませんでした。なぜなら、

  食事をしても僕の二倍は食べる程食慾はあり、

  樣々な指示についても的確だつたからです。

  そして數ケ月といはれた症状だつたのに、今年に入り、

  僕はこれで直るのではないか、惡くてもあと數年は大丈夫ではないかと

  思つたくらゐです。


  しかし、徐々に病状が惡化し、それにもかかはらず、5月の末には、

  下のお孃ちゃん華枝ちゃんの婚約の兩家の食事の席に車椅子で出て、

  君の好きな排骨麵を食べたとのことで

  僕は君の生命力の強さに感動しました。

  殘念ながら病状は好轉しませんでしたが、

  今月10日、11日と君に會つた柴田光廣君から

  君が挨拶のため手を上げて答へたといふ話を聞いて安堵してゐたその夜、

  君は突然行つてしまひました。


  年齢からいつても健康からいつても、

  僕は當然僕のはうが先に行くと思つてゐました。萬が一のときには、君に

  冥土の旅への手傳ひをお願ひしようと思つてをりました。

  それが逆になつてしまひました。


  しかし、君は、病氣勝ちの幾枝さんのこと、お孃さんのこと、その他、

  すべての殘務を整理して旅立ちました。柴田君は、

  君は諸問題を片附けて安心して、覺悟の上であちらの世界に移つたのだと思ふ、

  本格的な緩和ケアを初めて、たつた二日、我々にとつては少し急ぎ過ぎだけど、

  自分の尊嚴を守り、家族への負擔を避けた、彼らしい立派な最期だつたと思ふと

  言つてゐます。同感です。


  幾枝さん、二人のお孃さん、知與ちゃん、華枝ちゃんについては、

  できるだけ力になりたいと思つてゐます。

  どうか、今後とも我々の生き方を見守つてください。

  住田君、また會ふ日までさやうなら。



【追 記】

  社會思想研究會が實施してゐた夏の學生ゼミナールについて補足してをきます。


  慶應義塾大學經濟學部 1年生として初參加した夏の合宿の記念文集に、

  彼が感想文を書いてゐます (『富士見ゼミナール 記念文集 1964』19頁)。


  「富士見ゼミに榮光あれ」 慶應大學  經1  住田良能


  「富士見ゼミナールはたのしかつた」といふ言葉を先づ擧げて、

  以下私の感じた事を綴らうと思ひます。

  先づ私と先輩諸兄との力の差であります。

  餘りの違ひに些か恐怖の念を抱いた程です。

  が、このまま引下つては男が廢 (すた) る。

  來夏を見てくれといふが現在の心境です。


  次に諸先生、OBの方の獻身的な御指導と御協力により、

  參加者が一體となつて非常にたのしい雰圍氣を作り出した點です。

  開會の時、佐藤寛行事務局長が、

  「人の人たる所以 (ゆえん) は、人と人との結合にあり」

  といふ言葉 (伊原註:オットー・ギールケ の言葉。土屋清さんの愛用句) を引用して

  説かれた所のものが判りかけたやうな氣がします。


  最後に、來夏以後の富士見ゼミへの提言:

  テープレコーダーの活用・黒板持込は、諸先生の講義を完全なものとして保管するため、

  或はより效果的にするために、是否實現すべきと思ひます。


  富士見ゼミに榮光あれ!

  來夏の再會をたのしみにしてゐます。


伊原註:何年かあと、彼から直接聞いた話。

        「一年生の夏に富士見ゼミに出て、議論の面白さに目覺めた。

        「そのあとの大學の講義の退屈だつたこと!」

        住田良能さんは合宿ゼミに參加して、活學活用に目覺めたのです。


        翌年、彼は親戚の後藤慶太の東急電鐵が經營する白馬へゼミを導き、

        文集の編輯を買つて出ました。

        彼が編輯した『第五回 學生ゼミナール 白馬 1965』は、

        彼の編輯の才が縦横無盡に發揮されてゐて、

        例へば參加者の感想文には必ず

        別の參加者の短いコメントが附いてゐます。


        讀返すと當時の状況がありありと甦り、懷かしさが彌増します。

        この編輯の才能が、産經新聞社でも遺憾なく發揮されたやうです。




        感想文とコメントの一例:


        「今はただ眠りたい」 慶應義塾大學  經2  住田良能


        ゼミを通じての議論は、非常に有益であつたと思ふし、大變な刺戟も受けたのであるが、

        今一つ迫力を感ずる事ができなかつた。同感の士は決して少くないと思ふ。

        豫習の不備、稚拙な討論技術、鬪志や意欲の不足、そして實力の低さ等

        原因は色々と考へられるが、大いに反省し、成長の糧にしたい。


        今年のテーマの内、最大の關心はやはり「何のための成長か」にあつた。

        私はこのテーマの議論を通して、日頃、經濟成長といふものを考へる場合、

        ともすれば疎かにしがちな點を、その重要さと共に學ぶことができた。

        そして、經濟學は決して單にテクノロヂカルなものになつてはならず、

        「人間の究極の目的を最大の關心事」として展開さるべきものだと

        改めて痛感した。


        昨年の富士見に次いで、二度目の學生ゼミ參加であるが、

        私は學生ゼミが大好きである。

        自由時間のゲームや談笑は樂しい思ひ出となるだらう。

        長く續いて貰ひたい。


        この一週間、3時前に寢ることがなかつた

        (素より、これは事前の不勉強の裏返しである)

        にも拘らず、進行係の非情な叩き起しに、7時起床を嚴守し續けさせられた。

        今はただ眠りたい。思ひ切り眠りたい。


        コメント(根來由起子  帝塚山大學教養學部1年生):

        思ひ出すもの、コカ・コーラ、ヴェトコン帽、ヘビ、麻雀、青い萬年筆、青い車、

        ピンクのトイレット・ペーパー、赤シャツ、スルメ、少年サンデー、○○將棋、

        ×× (編集者註:公序良俗に反する表現のためカット致しました)、

        彼の最も興味のあるもの、ヴェトナム問題。

        彼から受けた感じ、坊や。

        彼に一言、選擧權をハナにかけるな!




        感想文とコメントのもう一例:


        有意義な「次郎」の塾  早稻田大學  法4  高池勝彦


        今回の合宿は『次郎物語』の次郎が先生に從つて

        塾の運動に參加活動したことを思ひ出させた。

        あの塾は、上からの押附ではなく、

        塾生の自主性によつて會の運營をしようといふものであつた。


        今年は僕が4年であつたこと、

        それに、例年行はれる晩の講師の講演がなかつたことから、

        時間の使ひ方、内容等を自分たちで考へなければならなかつたので、

        僕にそのやうな感じを起こさせたのである。


        そして、受動的であるよりも、積極的であることは難しいことを感じた。

        しかし、時間の使ひ方が稚拙であつたにしても、大いに有意義であつた。

        大學のサークルの運營とは違つた、

        全員の意志が徐々に、何となく決る形をとつたことが良かつたと思ふ。

        ピッタリしたスケヂュールで嚴格にやるのではないのが、

        このゼミの特徴でもあるからである。


        河原で石を投げ合つたり、○○將棋をやつたりすることが、

        ここでは少しもをかしくなく、樂しかつた。


        コメント(花房節子  帝塚山大學教養學部2年生):

        包容力ある彼、氣がおけず何でも喋り出しさう。

        戀人より寧ろ兄貴として父として演じてくれさう。

        暖かく親切で思ひつきり甘えられさうな彼であるが、

        一面物差では測れない影が感じられる。

        その氣になつて調子に乘つて行くと、強くはねつけられさうな、

        とにかく摑みにくい人だ。