歴史隨想と傳記隨想

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世界の話題(二七九)


    歴史隨想と傳記隨想




伊原註:これは『關西師友』平成25年3月號 8-9頁に載せた「世界の話題」279號です。

        若干増補してあります。





      現代史は謀略の巣窟



  定年退職後、書庫を維持し、新刊書も買入れ、いろんな本を讀んで來ました。

    追記:幼い頃から本を讀むのが好きでした。

          小學生の時、自轉車のハンドル上に本を置いて讀みながら自轉車を漕いだ覺えがあります。

          それを見て、通行中の大人が感嘆したやうに、「本が好きなんやなあ……」と呟いたことを

          覺えてゐます。

          戰後は、古本屋に通ふのが常でした。

          うどん屋は素より、喫茶店に入つたことなく、

          初めてのデートで喫茶店を指定され、戸惑つたことを覺えてゐます。

          何を注文したらよいのか、全く判らなかつたからです。


  今やつてゐる作業は大別して二つ、

      『台灣關係年表(實は日誌)覺書』の作成と、

      現代史の見直しです。

  註:台灣を中心にした東アジア國際關係の記事を書留めるのは、歴史の「流れ」を知るためです。


  冷戰時代は、中國の動きを中軸にして米ソの角逐を辿つてゐました。

  香港の主權返還交渉が終ると、「殘るは台灣だ」といふことで、

  台灣に關する論評や講演を頼まれるやうになつたので、

  台灣を中軸にして米中關係を探るやうになつて現在に到つてをります。


  現代史探求は、舊制中學四年生で迎へた敗戰の衝撃以來續く作業です。


  歴史は基本的に勝者の歴史であります。

  一皮めくると別の姿が見え、二皮めくるとまた別の姿が見えます。

  でも人は割と單純に洗腦され、皮を剥ぐ努力をせぬ儘、他人の獨斷と偏見を受入れてしまひ易い。

  相當の力量を鍛え、史料探求の飽くなき努力を重ねないと、歴史の眞實に迫れません。


  西尾幹二+現代史研究會(福地  惇・柏原龍一・福井雄三)

      『自ら歴史を貶(おとし)める日本人』(コ間書店、2012.12.31) 952圓+税 は、

  先づ現代史を歪める二つの力、即ち

      米國の壓力(宗教+人種偏見)と、

      ソ聯・コミンテルンによる共産化壓力(レーニンの「アジア迂回戰略」)

  を指摘します。


  共に日本の國體(國家の基本構造)の變革を迫る勢力です。


  そしてこの「眞實」を見損ねた三人の著者

      (加藤陽子『それでも、日本人は「戰爭」を選んだ』朝日出版社

      (半藤一利『昭和史』平凡社

      (北岡伸一『日中歴史共同研究』)

  を取上げ、その偏見と無知と獨斷を徹底批判してゐます。


  註:本書の目次によれば、

      第3章  加藤陽子『それでも、日本人は「戰爭」を選んだ』は青少年有害圖書

      第4章  半藤一利『昭和史』は紙芝居だ

      第5章  北岡伸一『日中歴史共同研究』は國辱ハレンチの報告書

      といふ見出しです。


  本書で西尾幹二は二つ、重大な問題提起をしてゐます。


  第一に「なぜ米國は自ら望んで日本に戰爭を仕掛けたか」

  第二に、あの戰爭(支那事變と大東亞戰爭)は、

          歐米の東亞侵略への防戰であつて、

          日本の“侵略" などでは全然ない。


  本書を讀んで俄然、私自身の日本現代史を書きたくなりました。


  註:ここで本書について、幾つか注目點を指摘して置きたい。

      第一に、本書で FDR (Franklin Delano Roosevelt) を

      專ら「フランクリン・ルーズベルト」と

      「デラノ」を飛ばして呼稱してゐるのは間違ひです。

      FDR は、性格や好みの上からして

    父系 (Franklin) よりは母系 (Delano) に屬する人物だつたので、

      「フランクリン」は省略してもよいが、「デラノ」を省略してはなりません。


      第二に、本書 102頁で「盧溝橋事件の背後にコミンテルンの指示」と小見出しを掲げ、

      103頁、240頁で

        「劉少奇配下の中國共産黨工作隊が日本軍を挑發した謀略事件が發端」

        「最初の發砲が中共の手の者から行はれたことは史實として證明濟」

      としてゐるのは間違ひです。

     

      必須文獻、山岡貞次郎『支那事變──その秘められた史實──』 (原書房、昭和50.8.15) 2200圓

      が參照されてゐない。

      本書によれば、盧溝橋事件の前から屢 支那軍との間で小競り合ひが起きており、

      騷ぎを起こしてゐたのは中共ではなく、蔣介石の手先藍衣社でした。

      盧溝橋事件は、蔣介石が日本と日本軍を侮つて挑發した出來事なのです。

      中共とその手先の大學生は、一旦停戰したあと、双方に向けて拳銃を發射して

      事件の再發を狙つた二次的挑發に過ぎません。

      勿論、コミンテルンも日支を戰はせようとしてゐました。

      でもその動きは、盧溝橋事件よりも西安事變の方がずつと大きい。

      そして、コミンテルン=ソ聯の存在は、


      蔣介石も日本との戰爭で十二分に勘定に入れてゐました。

      支那事變に關しては、

          拙稿「大東亞戰爭と支那事變」を參照されたし。

              (2011.8.11附で「讀書室」掲載濟です)


      第三に、本書 119頁で

          「ソ聯とコミンテルンによる世界共産化戰略」

      の深刻な禍害を擧げ、

      日本の學者研究者にこの認識が殆どないことを歎いてゐますが、

      それは、日本の學者研究者の殆どが「赤化に汚染された存在」だつたからです。

      若き青年への赤化は、陸海軍の青年將校にまで及んでゐました。

      中川八洋は、近衞文麿を含む當時の要人の多くが「赤」の手先だつた書いてゐます。

      ロシヤ革命以來、赤化の波は、世界中を席捲しました。

      ソ聯が崩壞した現在も、一見穩健に見える「改革派」の形で

      現存秩序の破壞魔が到る處に盤踞してゐます。


      第四に、本書 134頁で

          「あの戰爭は國民擧げての防衛戰爭だつた」

      といふのは全く正しいことであります。

      加藤陽子が大東亞戰爭について語る日本人に「加害者の視點がない」と書いてゐるのを叱り、

      あの戰爭の加害者は米國であり FDR であつて、日本は全くの被害者だと言つてゐるのは

      全くその通りです。

      歴史をちやんと見直せば、歐米白人國が、特に米國が、

      どれほど日本を含めた有色人種を迫害して來たことか。

      これが解らぬ鈍感でとんちんかんな者は、現代史を學ぶ資格なし、と言ひたいです。

      これが解らぬ鈍感者が、米國の壓迫に我慢に我慢を重ねた上、

      敢然と戰つた父祖を平氣で貶 (おとし) め、

      國旗に敬禮せず、國歌を歌はず、靖國神社參拝にケチを附けるのです。


      第五に、本書 13頁、245頁にかうあります。

        「岩波書店『近代日本綜合年表』には平成に入るまで通州事件は掲載なし」

        「岩波書店の『近代日本綜合年表』には通州事件を載せてゐませんでした。

        「我々が抗議して、漸く掲載された」

      ノーです。

      岩波書店は 7.29 の通州事件を今なほ載せてをりません。そればかりか、

      その前に起きた 7.25 の廊坊事件、7.26 の廣安門事件 (何れも支那軍の對日不法事件) を

      載せない儘、いきなり

          7.26  日本軍中央、支那駐屯軍に武力行使を指示

          7.27  日本政府、内地 3個師團に華北派遣命令

          7.28  日本軍、華北で總攻撃開始

      といふ記事を載せているのです。

      「日本軍の一方的武力行使」といふ「印象」を與へるためです。

      岩波書店は、明かに「反日書店」です。



      自己確認には傳記も大事



  突然記憶を喪失すれば、自分が何者か判らなくなり、行動不能になつて立ち往生します。

  國家も同じで、歴史を確認できてこそ存立でき、明日の方針も立つのです。


  その歴史(日本現代史)が、

  敗戰と米國の占領政策や唯物史觀によつて曲(ねぢま)げられ洗腦された儘、

  現在に到つてゐます。


  歴史は無數の些事(さじ)の堆積です。

  無數の些事に通ずるのは至難の業なので、無知・曲解・偏見が罷(まか)り通ります。

  良い歴史・良い傳記を讀んで、無知・曲解・偏見から遠ざからぬと、明日への道を誤ります。


  一昨年、NHKのBSプレミアム、

  辛亥革命百周年記念番組「近代中國に君臨した女たち」の第四篇

  「江青:マダム毛澤東の孤獨と欲望」に出演して、久しぶりに江青の傳記を見直し、

  曾て「江青評傳稿」を書いた時の惡戰苦鬪を思ひ出しました。


  當時は資料が無くて苦しみましたが、四人組裁判後の今は、資料に困らない。

  今や「どう描き出すか」といふ史觀が問はれます。


  昔は研究者として、直接引用と註が一杯ついた學術書を書きたかつた。

  それでないと信用されないと考へたからです。


  でも今は、

    「自分の言葉で語つた註無しの、すらすら讀める江青評傳エッセイ」

  を書きたいですね。


  最近偶(たまた)ま

    工藤美代子『夢の途上  ラフカディオ・ハーンの生涯【アメリカ編】』

      (集英社、1997.2.25) 2060圓

  を讀み、深い感動を覺えました。


  すいすい讀めて深い感動が得られる。

  筆力とはかういふものか!


  自分にこれだけの筆力があるかどうか判らぬが、

  こんなタッチで江青を描き出してみたい。


  尤も、毛澤東も江青も中國現代史も殘虐や憎惡、殺戮に滿ち滿ちてゐて、

  とても「輕(かろ)やか」には描き出せないのですけれども。

(平成25年2月4日執筆/同4月7日増補)