塩尻公明追悼文二つ - 伊原教授の読書室

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  塩  尻  公  明    追  悼  文  二  つ




伊原註:鹽尻公明 ( 塩尻公明 ) 先生の傳記を紹介した序に、追悼文を二つ、記録してをきます。

        一つは私の文章、もう一つは社會思想研究會關西支部で企劃實施した追悼座談會の文章。

        座談會の録音を文章化して纏めたのも私です。

        兩方とも、人の目に觸れることが尠いので、ここに採録してをきます。




          伊原吉之助

          「 エネルギッシュな求道心 」

              ( 『帝塚山大學新聞』追悼號/昭和44年6月24日、1面 )



  鹽尻公明先生が教育學部長になられて間もなく、私は學部長室を訪ねたことがある。

  「 勉強時間無き苦しみ 」 といふ一文を讀んでゐたので、先生から時間を奪ふことは憚られたが、

  一對一で親しく教へを乞ひたい氣持も強かつた。入らうか入るまいかと、

  扉の前を何度も行つたり來たりした揚句、遂に意を決してノックした。


  “どうぞ" といふ聲で中へ這入つたら、

  先生は椅子の上に胡座 ( 坐禪? ) をかいて坐り、

  瞑目して線香を手に持ち、その香りを嗅いでをられた。

    ( 「 毎日一時間の坐禪 」 を實行して居られたのです )


  その時何を問ひ掛けたかは記憶にないが、親身に應答して下さつた有難さは未だに忘れない。

  手持ち無沙汰を避けるために、謄寫版刷りの同人誌『黎明』に載せた 「 私の志望 」 といふ一文を、

  “お讀み下さい" と出したら、

  意外なことに“讀んで置くから、二、三日後にもう一度來なさい" と言はれた。


  半信半疑で再訪してみると、

  “君は文章がうまいですね" と評されたので、

  すつかり恐縮すると共に、多少の自信を得た。


  後から考へると、先生は他人を惡く言はれることは滅多になく、

  長所を見出しては褒められるのが常であつたから、

    ( 「 私は“感心音痴" で感心し過ぎる嫌ひがある 」 と反省してをられた位だ )

  褒められたからといつて喜ぶには當らなかつたのだけれど、

  先生に褒められると本當に嬉しくなつてしまふのは、

  先生の御人柄が滲み出てゐたからだらう。


  だから先生に接近した人は、誰もが

    「 自分こそ先生に最も親しくして戴いた人間だ 」

  と考へるやうになつた。


  私自身も、社會思想研究會を通じ、

  とりわけ“一の弟子" であつた柿木君を通じて鹽尻先生のお宅まで出入りするやうになり、

  この感を深めたが、

  私には 「 勉強時間無き苦しみ 」 の印象が深かつたため、

  努めて控へ目に接して來たつもりである。


  私にとつて、鹽尻先生は、河合榮治郎先生の對照的存在としても興味があつた。

  剛に對する柔、

  定言命法的理想主義に對する 「 手近の理想主義 」 、

  徹底した合理主義に對する宗教的人間理解などの點に於て。


  しかし、これらの對照點を超えて、この御二人には根本的な共通點があつた。


  御二人とも、異常なばかりのエネルギーの持主であつたことである。

  エネルギーで解り難ければ、執着といつてもよい。

  粘り強さといつてもよい。

  アクの強さといつてもよい。

  これこそ、御二人の理想主義 ( 求道 ) の原動力であつたのだ。


  河合先生の場合、アクの強さはかなり剥出 ( むきだ ) しに顯 ( あらは ) れたやうだ。

  鹽尻先生は内省型であつたため、それに氣附かぬ儘慕ひ寄つた愛讀者が多かつたやうだが、

  そのアクの強さは、人並みを絶してゐたやうに思ふ。


  私がそれに氣附いたのは、書かれた文章を通じてであつた。

  この原動力あつてこそ、

      「 全てを受取る 」 とか、

      「 六〇パーセント主義 」 とかが

意味を持ち得たのだと思ふ。

  江戸つ子職人型の淡白な人間では、あそこまで居直れた筈がない。


  鹽尻先生は、親鸞以上に、悟りの惡い人であつたと思ふ。

  そして悟りの惡さに徹底することで悟りを開いたのだ。

  凡人であることに於て非凡であつた人である。


  凡人にとつて最も近附き易さうに見えて、

  實は最も近附き難かつた存在が鹽尻公明先生ではなかつたかと、

  私は考へてゐる。

( 帝塚山大學助教授 )




              座談會:鹽尻公明先生を偲ぶ

              『社會思想研究』第21巻7號/1969年 7月號、21〜32頁


                                            出席者:音田  正巳 ( 理事・前大阪府立大學教授 )

                                                    伊原吉之助 ( 理事・帝塚山大學助教授 )

                                                    柿木健一郎 ( 會員・武庫川學院大學助教授 )

                                                    片上    明 ( 理事・大阪府立大學助教授 )


        教壇に倒れて逝去


音田  先程鹽尻公明さんの大學葬が終つた所で早速ですが、

      生前に關係の深かつた方々にお集まり頂き、

      鹽尻さんにとつても、鹽尻さんの恩師河合榮治郎先生にとつても想ひ出の深い、

      奈良博物館前の 「 わかくさ旅館 」 で故人を偲びたいと思ひます。

      この部屋は河合先生がよく使はれた部屋で、鹽尻さんも屡 ( しばしば ) 泊られ、

      床の間には鹽尻さんが河合先生を偲 ( しの ) んでお書きになつた軸も掛つてをります。

        ( 鹽尻公明『老春と青春』に収録された 「 河合先生の部屋 」 參照 )

      かうした縁 ( ゆかり ) の深い奈良の宿の一室で、暫く鹽尻さんの思ひ出を語つて頂きます。

      鹽尻さんは 6月12日 ( 木 ) に講義の最中倒れられたのですが、

      その前後を伊原さん、お話下さい。


伊原  この講義は 「 現代社會制度の研究 」 と題して、午前11時10分から12時40分まで續きます。

      その日は少し遲れて入つて來られ、非常に御機嫌よく話し始められたさうです。

      いつも 「 クロマルをして 」 と言つて短い文章を口述筆記させ、そのあと説明を加へる遣り方を

      してをられたのですが、この日は 「 クロマル 」 二度言はれた。


      その一つが

        「 個性の伸長を意識的目標として忘れないことが唯一の方法なのではない。

        「 寧ろ害になることがある 」

              ( この時黒板に書かれた 「 意識的目標 」 といふ文字が絶筆となつた )

      もう一つが

        「 多面性の理想を掲げることによつて、人格主義は民主主義を基礎附け得る道コ哲學となる 」

      といふのです。


      このあと、多面的人間にならうとして以前自分は生活を三つに區分して考へたが、

      さうする必要は必ずしもない。


      その三つとは──

        ( 1 ) 市民として──これは朝の便所 ( 誰にも妨げられない最も自由な時間 ) で考へる。

              今最も緊要なことは、戰爭、特に核戰爭に反對することである。

        ( 2 ) 父親として──これは歸宅して夜寢るまでの間がさうである。

        ( 3 ) 教師として──殘りの時間。


      かういふ話をしてをられたが、少し疲れたと言はれて、學生が椅子を運んで來たら、

      それに腰掛けるやうにして倒れられた。

      發作で顔色が急變し、兩手をきつく握りしめて唸り聲を出された。

      これが11時40分頃。講義が約20分續いた後の出來事でした。

      知らせを受けた大學側は直ちに教壇に布團を敷いて寢かせ、

      二、三の先生 ( 特に責任者の熊澤安定學監や研究室にゐた私 ) 、

      醫學博士の先生 ( 畠山教授 ) が驅附けましたが、

      頭を低くして絶對安静にして置くほかないといふことで、教壇の上の布團に寢て居られました。


      私が聯絡を受けて驅附けた時には、まだ苦しさうな吐息をしてをられました。

        ( ハァーッ、ハァーッ、と苦しげに大きく息を吐いてをられました )

        ( 私には、この頃調子がいいと仰つてゐたのに…… )

      私と入れ代りに畠山教授が首を振つて ( もう駄目との意思表示 ) 教室を出て行き、

      あと私と熊澤學監の二人でひたすら醫者の到着を待ちました。


      熊澤學監は醫者の車が來ないかと教室の窓から玄關の方を見てゐる。

      私が枕頭で教壇に横たはる鹽尻先生の樣子を見守る。

      鹽尻先生は直ぐ靜かになられました。

      脈を取つて見たかつたのですが、絶對安靜といふことで憚られた。

      目が半眼だつたので、恢復後に失明してはいけないと思つて瞼を閉ぢることはしました。

      瞼 ( まぶた ) はまだ暖かかつたですね。


      何度か瞼を閉ぢたのですが、また少しすつと細目を開けられるのです。

      その時目が既にどんより曇つてゐましたから、ひよつとしたら駄目なのかと思ひました。

      醫者が來た時にはもう脈はないし、瞳孔も擴散してゐるといふことで、

      醫者が死亡を確認したのが11時55分でした。


音田  だから醫者が來る前にもう亡くなつてをられたんでせうね。

伊原  と思ひます。

音田  11時45分頃……

伊原  えゝ。

音田  病名は心筋梗塞ですね。

      それでお葬式は 6月14日の午後 2時から自宅で告別式が行はれ、

      本日19日午後 2時から奈良文化會館で帝塚山大學葬が營まれて1300人の會葬者があり、

      嚴肅なうちにも盛大にお葬式を濟ませました。


          鹽尻先生の歩んだ道


音田  鹽尻さんの經歴を見ますと、

      明治34年 ( 1901年 ) 11月 6日に岡山縣吉備郡水内村で生れて、

      岡山縣立岡山中學校を經て第一高等學校に入學、

      二年生の時に河合榮治郎先生の經濟學の講義を聽いて、河合先生中心の讀書會を創つた。

      その會員中に山際正道さん、高田正さん ( 河合先生の義弟 ) 、梶村敏樹さんが居り、

      同じクラスにゾルゲ事件の尾崎秀實さんも居た。

      それから東大法學部に入り、卒業後は一燈園に入つて奉仕の生活をしたり、

      越後の農村で讀書生活を送つたりしてをられます。


      昭和 4年 ( 1929年 ) に大阪天王寺の蜂屋賢喜代師の教へを受け、

      蜂屋さんが亡くなるまで毎月教行信證の講義を聽きに行かれた。

      ですから鹽尻さんにとつては、河合榮治郎先生と蜂屋賢喜代師のお二人が恩師ですね。


      昭和 5年 ( 1930年 ) に河合先生の紹介で高知高等學校の法制經濟の教師として赴任し、

      戰後神戸大學に移られるまで高知にをられた。

      昭和24年 ( 1949年 ) 7月に神戸大學教授に就任し、教育學部勤務になつてをります。

      これは柿木さん、初めは法學部勤務ぢゃなかつたのですか?


柿木  そこんとこ、よく判らないんです。

伊原  私は昭和25年 ( 1950年 ) に神戸大學へ入學してゐるのですが、

      私の記憶では、法學部と教育學部の兩方で教へられることになつてゐた筈です。


音田  柿木さんが鹽尻さんを慕つて神戸大學法學部へ入つたのは、

      鹽尻さんが法學部に居られると思ひ込んでゐたからですか。

柿木  さうです。政治學・政治思想史ですから、當然法學部だと考へた……

音田  そして入つてみたら……

柿木  教育學部の教授でしたね、その時は。

音田  貴方の入學は何年?

柿木  昭和26年 ( 1951年 ) です。伊原君 ( 二回生 ) より一年あと ( 三回生 ) です。

伊原  創設時期なので教育學部が取つてしまつたんです。

音田  さうすると柿木さんはうつかりしてゐた譯だね。

柿木  後で法學部の教授に訊いた所、法學部の教授で來られたんだけれども、

      教育學部が師範學校から大學に昇格するためスタッフが大半抜けたのですね。

      それでそつちの強化策で向ふに行かれたといふ話です。

      そして間もなく學部長になられます。

音田  實質的には初代學部長ですね。そのあと 4期 8年間學部長の職にあつた。

      これは大變だつたでせうね。

柿木  後にはある種の自信を持つようになられました。

音田  鹽尻さんは、事務長以下、頗る良い職員が居たと言つてをられた。

柿木  先生を助けるスタッフは良かつたですね。

音田  教員の方もね。

柿木  それでも 4期の頃には先生の學部充實路線に外れる人も出て來て

      リコール運動が起こり掛け、大分苦勞されました。

      しかし非常におとなしいやうに見られてゐましたけれども、

      中原に駒を進め、思ひきり戰ひを挑むといふやうな大變なファイトをお持ちでしたね。

      見事なリーダーシップを振るはれた。


音田  成程。學部長や學長は、事務に堪能である必要はないんですね。部下さへ良ければね。

      鹽尻さんのやうな方が適任なのでせう。

      それで昭和34年 ( 1959年 ) 6月に任期滿了により教育學部長を辭められ、

      昭和36年 ( 1961年 ) 11月 6日に60歲に達して、19日に還暦の祝賀會がありました。

      そして昭和40年 ( 1965年 ) 3月に神戸大學を定年退官し、4月から帝塚山大學教授に就任。

      翌41年 ( 1966年 ) 7月に第一回の心筋梗塞、これは九死に一生を得て奇蹟的に恢復せられ、

      昭和42年 ( 1967年 ) 4月から講義されてゐたが、

      今年 ( 昭和44年/1969年 ) の今月 ( 6月 ) 12日に 2回目の心筋梗塞で惜しくも亡くなられた。

      これが鹽尻さんの凡その經歴です。


      私が初めて鹽尻さんにお目に掛つたのは昭和22年 ( 1947年 ) の冬、二・一ストの前後でした。

      鹽尻さんが成蹊高校に行かれる話がありましてね。

      今日弔辭を讀んだ木村健康さんの家に來られ、そこで紹介されました。

      その前に私は鹽尻さんの人生論の處女作『天分と愛情の問題』 ( 弘文堂 ) を、

      居候してゐた河合先生のお宅で讀み、

      實にユニークな人だなあと思つてゐた所なので、特に印象に殘つてをります。


      研究上の處女作は昭和14年 ( 1939年 ) に有斐閣から出た 「 經濟學名著翻譯叢書 」 の第四册

      『ベンサムとコールリッヂ』です。

      これを鹽尻さんが河合先生の指示で翻譯され、非常に良い研究論文を附けられた。


      この二册のあと、御承知の人生論、宗教論、教育論、或は隨想をお書きになつた譯ですが、

      鹽尻さんの最後の著書が、片上さん、柿木さん、星野さん ( 社會思想社編輯部 ) が

      熱心にお世話下さつた『民主主義の人間觀』 ( 社會思想社 ) です。

      これが出たのは昨年 ( 昭和43年/1968年 ) の 3月であります。


      さて、柿木さんは鹽尻さんと非常に交はりが深かつた譯ですが、

      先生と最初にお會ひになつた時分のお話を聞かせてくれませんか。


柿木  私は何しろ鹿兒島の田舎出でしたので、恐れ多くてなかなか傍に近附けませんでした。

      一年生の夏休みまでその儘で郷里に歸つてしまつた丁度その夏、

      鹿兒島縣知事の重成格さん、この方が先生の一高以來の親友で、

      その招きで鹿兒島縣の主要都市を講演して回られました。


      上海事變以來有名な特攻基地のあつた鹿屋に私ゐたものですから、

      新聞で鹽尻先生の講演があると知つて、意を決して旅館にお訪ねした譯なんです。


音田  柿木さん程の心臟でも、大學に入つて直ぐ面通しできなかつたのですか。

柿木  いや、それは當り前で ( 笑 ) 。先生に對してだけは最後まで心臟が出せなかつたです。

      それでまあ、學生手帳を示して、神戸大學の一學生としてお目に掛つただけで、

      その時は失禮しました。


      後期には教養課程の自治會の委員長をしたものですから、

      大學祭に講演をお願ひしようと教育學部長室にお訪ねした。

      その時に私が大學を受驗した動機を話したのです。

      丁度その頃私の母からも、同じ内容の長文の手紙が届いてゐたらしくて、

      先生、隨分びつくりされたやうな、坐りの惡い顔をしてをられました。

      そんな状態でずつと來たんです。

        ( 伊原註:この時、柿木君は 「 鹿兒島から遙々笈 ( きゆう ) を負ふて出て來たのに、

        ( 目指した法學部に居られなかつた 」 と恨み言をいふつもりであつたらしいが、

        ( 「 笊 ( ざる ) を負ふて 」 と言つたらしく、鹽尻先生は時に座談でその話を持出された。

        ( 因みに 「 笈 」 キュウ とは背に負ふ本箱。背嚢やランドセルの祖先。山伏がよく背負つた )


音田  まるで戀を打明けるやうな調子ですね。

柿木  それよりも大分どきどきしました。

      其後 伊原君がよく一の弟子、一の弟子といふものですから、先生は弟子一人持たず候といふ

      親鸞の教へに忠實な方だつたのに、まあこの際は仕方なからうと諦 ( あきら ) められ、

      私がついて回るのを黙認してをられたやうです。


          人となりと思想


柿木  先生は最近、河合先生の夢をよく見ると仰つてゐました。どんな内容かは伺つてゐませんが。

      御自分の著書を一番愛讀したのは鹽尻先生御自身で、いつも書齋の手の届く所に著書を

      ずらつと並べてゐらしたんですけれども、最近はその本の前に河合榮治郎全集を並べ、

      それを取出して讀むのを樂しみにしてをられました。


音田  自分の著書を最も愛讀したといふのは、いかにも鹽尻さんらしいねえ。

柿木  自分の書いたもので一番勵ましを受けるのはやはり自分だとも書いて居られます。

音田  人に讀ませるよりも、自分自身を確かめ、自分の問題を解決するために書かれたのですね。

柿木  鹽尻先生は理想主義者だつたのですが、決して觀念論者ではなかつた。非常な實證派でした。

      これはもう徹底して、自分の身體と精神で確かめないとその實在を確信しないといふ點では、

      頗る附きの實證主義者だつた。

      而 ( しか ) も、世上一般の人々の問題がその儘先生御自身の問題になりましたから、

      普遍人間的な問題を抱 ( かか ) へ込み、社會的な擴 ( ひろが ) りがあつた。

      例の科學的な實證主義とは違ひますけどね。


音田  問題の取上げ方が生活に即してゐたといふことね。

柿木  はあ。他人の問題がその儘御自分の問題になつてしまふんです。

      場合によつては、本人以上に努力される。

音田  他人の惱みを自分の惱みとして惱む……

柿木  この間の河合榮治郎全集の月報に伊原君が 「 押附けられた眞理に滿足するよりは、

      自ら選び取つた誤謬に耐えた方がましだ 」 と書いて、

      あれは鹽尻先生の思想だと言つたのですけれども、さういふ面と共に、

      眞理と判れば押附けられてもそれをまともに受取り、その眞理性を確認して行くといふ、

      もう一つの側面もありました。


音田  先程鹽尻さんが鹿兒島に講演に行かれた時初めてお目通りしたと柿木さんが言はれたのですが、

      私と伊原君が勸進元になつて四國に講演旅行をしたことがあります。

      鹽尻公明さんと北野熊喜男さんと四人でした。

      伊原君が鹽尻さんと親しく交はるやうになつたのはその時分からですか。

伊原  抑 ( そもそも ) は、河合先生のお弟子さんとして先づお名前を知り、

      丁度その頃出た『自と他の問題』、『書齋の生活について』や『或る遺書について』を

      神戸大學へ行く前に讀んで感銘を受けてゐました。

      神戸大學に合格 ( 昭和25年/1950年 ) したあと、

      4月初めに神戸の大倉山のお宅に伺つたことがあります。

音田  社會思想研究會主催の公開講演會の交渉に行つたんでしたね。

伊原  いや、講演は依頼濟で、題目を伺ひに行つたのです。

      所が住吉學舎に居られず、お宅でも旅行中でお目にかかれず、傳言して歸りました。

      その時目のクリッとした若い女性が應待に出られたが、お手傳ひさんだつたのでせうね。

          ( 伊原註:後日面識を得る奥樣とは別人だつたやうに思ひます )

      結局、最初に對面したのは、神戸大學の講義を通じてのやうです。

      一般教養科目の政治學を持たれてゐましたから。

      やがて 5月 7日の日曜日に大阪の朝日講堂で社會思想研究會の講演會があり、

      鹽尻先生は 「 イギリスの功利主義 」 といふ題で話され、

      これはその年の 9月に弘文堂のアテネ文庫から出版された。

音田  その講演會は、木村健康さんもやつたね。

伊原  えゝ。

          鹽尻公明 「 イギリスの功利主義 」

          猪木正道 「 平和の條件──社會主義の發展不均等── 」

          木村健康 「 福祉國家について 」

      といふ顔ぶれでした。

音田  その講演の中で木村さんは、理想から言つても風貌から言つても、

      「 日本のジョン・スチュアート・ミル、此處に在り 」 と鹽尻さんを評したね。

          ( 伊原註:この時、一部から強い拍手が沸き起つた )

      今でも覺えてゐるんですが、そのあと猪木さんは歸つてしまつたけれども、

      鹽尻夫妻・木村夫妻・私と家内の六人で講演後、歌舞伎座へ行きましたよ。

伊原  さういふことで、講演會でもお目にかかつてゐるんですけれども、

      直接押しかけたのは學部長になられた直後です。

      「 勉強時間なき苦しみ 」 といふ御文章 ( 『自と他の問題』所収 ) を讀んで居ましたから、

      入らうか入るまいかと何度も學部長室の前を行つたり來たりした揚句、

      遂に意を決して中へ入りました。そしたら鹽尻先生は椅子の上に坐り込まれ、

      瞑目して線香の香りを嗅いで居られた。豫期しない情景に戸惑つたのですが、

      話掛けてみると氣さくに應答して下さつて、頗る親しみを覺えて出て來ました。

      その時、住んでゐた堺の地域で出してゐたガリ版刷りの同人雜誌『黎明』に載せた

      「 私の志望 」 といふ文章をお渡ししたら、

      意外にも、 「 讀んで置くから感想を聞きにもう一度來なさい 」 といふことで、

      一週間後に行くと 「 君はなかなか文章がうまい 」 と褒めた上で二、三批評されました。

      これですつかり滿足して、其後押掛けたことは一度もありません。

      御家庭にまで出入りするやうになつたのは、柿木君と知り合つてからです。

柿木  一緒に社會思想研究會の神戸大學支部をつくり、鹽尻先生を引つ張り出した……

伊原  その前に、社會思想研究會の讀書會で講師として出席された先生と

      かなり親しくお話するやうになつてゐましたけれど。

     

      柿木君と親しくなつたのは、昭和27年 ( 1952年 ) に

      私が專門課程に上がつて北野ゼミへ入つてからです。

      同じ北野ゼミの沖田君 ( 現姓二宮 ) が、姫路分校の寮で柿木君と親しかつた。

      彼が柿木君を仲介してくれたのです。

      そしてこれも朝日講堂の講演會で、沖田君の紹介状を持つてやつて來た、

      柿木健一郎と申します、どうぞよろしくつてね。


音田  それでどうですか、伊原さん。

      鹽尻さんの人生論的な著作から、どういふ點で教へられましたか。

伊原  私の場合は先づ河合先生の弟子でした。所が河合先生の理想主義はさう簡單には人を寄せ附けない。

      甚だとつつき難い點がある。そのとつつき難さ、つまり自分と河合理想主義のギャップを

      埋める作用を鹽尻理想主義が果してくれたやうに思ひます。

      例へば河合先生は真向大上段から理想主義の問ひを打出される。

          「 我如何にあるべきか 」

          「 我何を爲すべきか 」 と。

      この問ひに理路整然と答へられる人は餘程の秀才です。


      それを鹽尻先生は、自分は無力であり無能である、にも拘らず無ではない、

      自分にも僅か乍 ( なが ) らも出來る事がある、それを俟つて行かうと、

      河合先生と逆の方向から凡人に勇氣を持たせる形で持つて來られる。

          ( 「 六十パーセント主義 」 。

          ( 百パーセントを目指して挫折するより、着實に努力を積み重ねようといふ

          ( しぶとく現實主義的な立場。ある程度で滿足する妥協的立場ではない )


      實は鹽尻先生にも、凡人を寄附けぬ非凡な所があるんですが、

      表面的には鹽尻理想主義の方が凡人には遙かに取つ附き易い。

音田  河合さんの場合には結論が提示される。

      鹽尻さんは惡戰苦鬪の過程を開陳される。

柿木  ですから、思想の構造としては、河合先生は下部構造よりも、

      體系化し整理した上部構造が前面に出てゐる。

      鹽尻先生の場合は寧ろ下部構造を、河合先生の上部構造並に展開してみせた所がある。

音田  まあ、下部構造・上部構造といふ言葉が適當かどうか判らないけれどもね。

      私のやうに極めて單純な考へ方をしてゐる者には、河合先生の思想が一番ぴつたりする。

      途中の面倒臭い惡戰苦鬪の經過など、私は今まで必要としなかつた。

      だから河合先生の本を讀んで抵抗を感じたことは一度もないんです。

      極めて明快に問題を處理して我々に指針を與へてゐる。

柿木  河合・鹽尻兩先生は、お二人とも人格主義を思想の根幹に据ゑてをられるでせう。

      所が河合先生の人格の説明が僕にはずつと判らなかつた。

      直接のお弟子さんは河合先生のお人柄そのものから人格主義の根幹に觸れられたのでせうが、

      私達のやうに世代が後になると、この 「 人格 」 が判らない。

      鹽尻先生の惡戰苦鬪を辿ると、河合先生が前提された 「 人格 」 がはつきり浮び上つて來るのです。

      つまり弱かつたり迷つたり醜 ( みにく ) かつたりする生の人間ですね、

      さうであり乍ら何故人間が 「 人格 」 と考へられるかが、鹽尻先生ではずつと具體的、實感的に、

      然 ( しか ) も廣範に展開されてゐる。それを私は下部構造と稱 ( よ ) んだのです。

片上  確かにその通りですね。

柿木  私、25年間鹽尻先生の側に居ましたけれど、

      河合先生のことをお話される機會が次第に殖えて來ました。

      滅多に仰 ( おつしや ) いませんでしたけどね。

      河合先生の夢を見たとか、日記を讀直してゐるとか、やつぱり偉かつたとかを

      時々洩らされるのです。

      非常に人間的に親しいものを持つてをられた。

      ただその現れ方が、お二人では違つてをつた。


          真摯な求道者


音田  鹽尻さんは、思想家といふよりは求道者ですね。我々が見逃すやうな問題を深く追求された。

      讀書と求道の生活が鹽尻さんの生活の大部分を占めてゐたと思ふのですが、

      我々が日常茶飯事と思つてゐることが、鹽尻さんには非常に珍しいことなんだね。

      それを追求して普遍人間的な問題にまて高められた……

伊原  珍しいといふのではなく、執念深い方だつたんです。拘 ( こだは ) らざるを得ない。

音田  全てのことに?

伊原  天分と愛情を巡る人間關係に、ですね。

      大變な情念があつて、幾ら吹つ切りたいと思つても吹つ切れぬしつこい執念をお持ちだつた。

      本人自身やり切れぬと思ひながら、こだはつてこだはつて、こだはり抜いた、

      その惡戰苦鬪の記録が著書となり、或は厖大な原稿や日記として殘された。

柿木  さういふ點では、第二の倉田百三なんです、先生は。

音田  さつきのやうなことを言つたのは、『老春と青春』 ( 神戸近代社 ) の中に、

      例へば 「 バアの感想 」 なんていふのがあるんです。

      これは眞部さんが三度御案内したさうですが、我々行つても別に何も感じないんですけれどね。

      鹽尻さんには珍しかつた……

伊原  それは、バーの印象を書いたのではなく、バーの女給の話です。

      連れて行つてくれた論説委員に女給が言ふのです。

      「 あの人は眞面目な話の出來る人だ、私も一度眞面目な話がしたいから別の場所で會はせてよ 」

      と言つてゐる。さういふ風に人生問題が引掛つて來るんです。

音田  凡そ鹽尻さんが出會 ( でくは ) した問題は全部人生論になるんですね。

片上  さつき言はれたやうに、求道者ですからね。

音田  箸の上げ下げすら求道の機縁になつてるんじやないか。

柿木  あんまり求道求道と言つてしまふと……。

      木村健康さんは、鹽尻先生には sense of humour が無かつたと高知新聞に書いて居られました。

      冗談で言つたのに眞面目に取られて困つたことがあると。でも冗談の好きな先生でしたよ。

      尤 ( もつと ) も、先生がこれは面白いと思はれたことが、我々にはそんなに面白くなかつた……

音田  冗談を眞面目に受け取られる……?

柿木  前に心筋梗塞なすつたあと、固い本が讀めない時に、帝塚山大學の學生が漫畫をだいぶ持込んだ

      らしい。その漫畫の何處が面白いのかがさつぱり判らない。


      河合先生の場合は巨木でも地表部分が大きな理想主義體系として展開された。

      それだけに根も深かつたでせうが、地表で大きく繁ることがお得意だつた。

      鹽尻先生は根が大地を割つてずつと深く入つて行つた感じがします。

      根が伸びて行く先に問題があつた。

      その網の目に入らぬものには面白味を感じられなかつた。


音田  片上さん、『民主主義の人間觀』を讀まれてどういふ感想を持たれましたか。

片上  いやあ、正直言つてよく判らないんですね。

      民主主義とは何かといふことが、あの本を讀んでも判らないんです。

音田  民主主義の定義はしてゐないから。

片上  河合先生は寧ろ民主主義の定義から始められ、物の見事に割り切れてゐるけれども、

      「 人格 」 が判つて來ない。鹽尻先生の方は、人間そのものは見事に捕 ( つか ) まへ、

      あつと驚く論理が展開してゐて本當にびつくりすることが多いんですけれども、

      今度は河合流の科學的體系的な面がよく判らない。

      私にとつて兩方共ついて行けない、永遠に遠い人といふ感じが殘る譯ですねえ。


          鹽尻さんの人格主義


柿木  河合先生の場合は、人格といふのは明確な、思想の根源だつたので、

      自分の目で自分の肉眼が見られぬやうに、人格を自明の前提として思想を展開してゐる。

      鹽尻先生は自由と民主主義が好きで好きで溜らんとよく言つてをられました。

      そこで民主主義の定義から論理的に定義し直して行くことを自分の研究に必要とは

      感じられなかつたんぢやないか。

音田  河合さんは演繹的ですが、鹽尻さんは寧ろ人格とはかういふもんだと決めてかからずに、

      我々の生活、行動、人間性の實體を究めてそこから歸納してゐる。

      だから河合さんは演繹的といふ意味では觀念論なんだ。

      鹽尻さんは歸納的といふ意味で實證的なんだ。アプローチの仕方にかういふ違ひがある。

      でもお二人とも、晩年はいざ知らず、若い時はかなりの負けず嫌ひであり自信家だつた。

柿木  高知高校時代は恐ろしい教授だつたさうです。

音田  自分には能力がないと言つてをられるが、その裏には大變な自負がある。

      河合さんは勿論さうですがね。

柿木  さういふ自信は、河合門下は大體皆さん持つて居られるますよね。

      木村健康さんも、鹽尻先生以上に病的なほど自信と劣等感が同居してゐると、

      先生への手紙に書いてをられました。ただ鹽尻先生はそのこと自體を問題とされた譯です。

音田  さうさう、さうなんです。


      所で『民主主義の人間觀』では歐米の書物を隨分使つて居られますが、

      何かヨーロッパ的發想とまるで違つたものがあるのぢやないか。

      佛教的親鸞的なものが滲 ( にじ ) み出てゐる。

      民主主義の基礎附けの一つとして人間が平等であることを論證してをられる所で、

      全ての人に平等に備はる能力として愛他心を擧げてをられる。この發想は究めて佛教的だ。

伊原  私は『社會思想研究』に連載された時からどうも讀みにくくつて、

      本になつてからもまだ讀み通してないですけれども、

      この本には鹽尻先生の特徴が見事に出てゐますね。

      片上さんがついて行けぬと言はれた通り、この本はお釋迦さんなんです。

      森羅萬象を網羅してゐて餘す所がない。書かれてゐることは全てその通りで反論の餘地なし。

      内容が物凄く豊富だから、とても一氣には讀めない。

柿木  僕はあれを教科書に使つて惡戰苦鬪しました。一年かかつて十分の一位しか進まない。

      どの部分を取つても鹽尻先生の全思想が現れて來るからです。


      讀まれた本の量も相當なもので、手許の文獻だけでざつと五千册、

      處分されたのも相當ありますから、やつぱり吉田松陰ぢやないけれど、萬巻の書を讀まれた。

      お元氣な時は一日 8時間から10時間の勉強ですしね。

      去年やつと醫者に 1時間の讀書はいいと言はれた時、日記では 3時間になつてゐます。

      投下勞働何時間と克明に書いてをられる。


      で、簡單に讀めぬ理由としては、先生の思想の全貌がそこに現れてゐることと、

      使用文獻が厖大なこと、そのほかに、もう一つある。

      讀み易い本は、重要な要因を取上げ、他の要因は切捨てて明快な結論を出してゐる。

      所が先生のはさういふ要因が一應全部出て來る。

      それで氣輕に讀むと、カオス ( 混沌 ) に見えてしまふ。

      實は、その全ての要因を生かしながら、そこに一つの秩序、コスモスがあるのです。


      あれを讀んで、一番壓倒されるのはやはり先生の研究の幅と認識の深さですね。

      そこまで自分自身が成長してゐないといふ引け目をいつも感じました。


音田  ですからあの本は、我々自身が鹽尻さんと共に惡戰苦鬪して考へるためには良い本ですな。

片上  全くさうです。

音田  民主主義の哲學思想を學び取らうといふことでは、迚もしんどい。

      さういふ意味では極めて現代向きぢやない本ですなあ。

      けれどもまた、ああいふ觀點からの民主主義の再評價は必要でせうね。


      人間觀の次に道コ哲學、更に社會觀、社會哲學、歴史觀といふ民主主義の五部作を

      意圖してをられたのですが、殘念乍ら第一册が出て亡くなられた。


柿木  一番出して頂きたかつたのは道コ哲學ですね。つまりさつきから出てゐる

      河合先生に於る人格の問題ですが、私達二代目はいつもそこでひつかかる。

      ムーニエの『人格主義』 ( クセジュ文庫 ) ですね……

音田  あれ、讀みましたな、鹽尻さんと一緒に。大阪の天王寺圖書館でね。

柿木  その時私はまだ學生 ( 四年生 ) でした。全然判らなかつた。ムーニエで躓 ( つまづ ) いた所を

      鹽尻先生で基礎附けして、やつと河合先生の人格主義が解り出したのです。


      殆ど完成稿に近い『民主主義の道コ哲學』は、人格主義の正面切つた展開です。

      原稿にして千枚近くある。

音田  先程の、利他心が全ての人間に備はる能力だといふ命題に私は非常に教へられました。

      それで思ひ出すのですが、私達は昭和31年 ( 1956年 ) から毎年、千早で夏期合宿をやりました。

      それに鹽尻さんは毎年講師として參加して下さつた。

伊原  第五回まで、連續五回來て下さいました。

音田  五回目が昭和35年 ( 1960年 ) ですが、これで終つたのでしたか。

伊原  あと二回やつてゐますが、先生、お身體が惡くなつて……

音田  成程ね。この時に千早の 「 山の家 」 の小母さんの喜多敬子さんが私に言ふには、

      平泉澄さんの門下生達もあそこで夏に合宿する。その時平泉さんには特別の御膳が出る。

      先生には御馳走を食べさせなければいかんと言つてね。

      所が社會思想研究會の方は、鹽尻先生も皆と同じものを召し上がる、とね。

      だから私は、鹽尻さんの平等思想は本當に身についてゐると思ふんです。

      勿論、我々は、鹽尻さんだからと言つて──河合さんでも──別のお膳を出さうとは

      こつちも思はんしね。これが社會思想研究會の特色でもあり、

      またそこでいろいろ仕事をして頂いた鹽尻さんのお考へでもあつたと思ひます。

伊原  私にはさういふ逸話的な思ひ出はありませんが、親身になつて聞いて頂いた經驗は、

      これはもう話し手を迚も感激させますね。だから鹽尻先生と話した者は皆、

      「 ここに我が師あり 」 と感じ、弟子意識を持つたんぢやないでせうか。

音田  聞き上手なんですね。でもどうですか、柿木さん。

      鹽尻さんは相談を受けた時、はつきりした指示を出されましたか。

柿木  私自身は先生に指示や助言をおねだりしたことはありません。しかし思ひ餘つて行つた人には、

      かなり微に入り細を穿つ助言をなさつたやうです。例へば、親の反對で結婚できぬ男女には、

      「 わかくさ 」 旅館に驅落ちさせる位のことはなさる先生です。

音田  私が鹽尻さんと話した場合、積極的に意見を述べられたことがないので、鹽尻さんは人の惱みを

      聞いてあげることでその惱みの解決に貢獻されたのかと思つてゐました。河合さんは

      「 あの人と結婚すべきじやない 」 とか、 「 この人と結婚せよ 」 とかはつきり指示しましたね。

伊原  私の場合は、いざとなつたら鹽尻先生の所へ相談に行けばよいと考へてゐるだけで解決しました。

柿木  長男の道雄君が同じやうなことを言ひました。進學や自分の生き方について大分苦しんでゐたので、

      その時は神戸高校三年生でしたが、 「 高校には親身に相談できる先生はゐないのか 」 と訊くと、


      「 ゐないこともないが、愈 ( いよいよ ) となると親父がをる 」 と言ひました。

音田  世間には鹽尻信者が澤山居ますが、惱める人を惹き附ける人間的魅力があり、

      またそれによつてかなり救はれた人もゐるんでせうね。

柿木  話を聞いて貰へばそこに暫くでも預けられますからね。大分澤山預つてをられたやうです。

      福岡事件といふ死刑囚の減刑運動に、頭痛持ちで苦しい中を何遍も自費で熊本まで行き、

      長い手紙や文章を書いたり、上京して法務大臣 ( 先生の同期生 ) に會つたりしてをられました。

音田  今までのお話を伺つてゐて、鹽尻公明がどういふ人物か、判らなくなつて來ました。

      自分が考へてゐた以上にスケールの大きい人ぢやないか……。

      河合先生の場合は凡そ摑めましたが、鹽尻さんは摑み難 ( にく ) い。

      私のタイプが全く違ふからかも知れません。


          現代に殘るもの


音田  片上さん、レジャーブームやテレビの所爲 ( せゐ ) で人間の生活、特に若い人の生活が輕薄化

      しつつある一方、鹽尻さんが惱まれたやうな問題を惱む人も殖えるんぢやありませんか。

片上  さういふことは確かにありませうね。

音田  今は鹽尻さんの本の賣行きは惡いかも知れないが、社會思想社がうまく編輯して出せば、

      靜かなブームが起 ( おこ ) るかも知れません。外國では禪がはやつてゐるでせう。

柿木  鹽尻先生は、人間性について論ずる場合、よく永久的普遍的人間性と時代的社會的人間性を分けられ

      ました。河合先生は永久的普遍的人間性は御自分の性格に委ねて、時代の問題に肉薄した。

      鹽尻先生は時代の問題もかなり論じたし興味もお持ちでしたが、何と言つても永久的普遍的人間性の

      方に興味が深かつた。ですからソクラテス的な人間への問掛けが起る時には、やつぱり二、三のもの

      は古典として殘るんぢやないか。

      倉田百三さんの『愛と認識との出發』 ( これは餘り良い本とは思ひませんけど ) や『絶對的生活』は

      今の大學生でもかなり讀んでゐます。それと似たものが今後殘るでせう。

音田  ですから少し裝丁も立派にして選集を出せば、或る程度普及するんぢやないでせうか。

伊原  六册位の選集にすれば賣れますよ。

音田  良いものを精選すれば六册も要らんかも知れない。

伊原  先程、塩尻・河合兩理想主義は補完的だと言ひましたが、もう一つ、お二人に共通點があります。

      エネルギーの強さ、執着心の強さです。大變粘り強い原動力です。

      河合先生はこれを功名心と言ひ、鹽尻先生は強迫觀念と言はれた。

      塩尻先生に於ては 「 天分と愛情の問題 」 、つまり能力と人間關係に於る劣等感の問題が中心です。

      劣等感は昔から人間に附き纏 ( まと ) つて來た問題で、だからこそ塩尻ファンが多かつたのだが、

      これからの社會では益々切實になりませう。


      といふのは、これまでは貧しい社會で、物不足が人間の能力發揮に對する重大な阻害要因でした。

      だから貧乏追放を唱へる社會主義がヒューマニズムとして通用したのです。

      富の獨占を打破し、人々全部がちやんと暮らせるやうに財を再配分すること。

      かくて 「 自由の王國 」 が築ける、と。


      所が大量生産−大量消費時代は、物の豐さを實現してしまつた。


      さうすると今度は、殘る心の問題にまともに直面せざるを得ない。

      貧しい家庭に生れたからとか、資本主義體制が惡いとかいつた責任轉嫁や自慰に逃げられず、

      眞正面から人間問題に取組まざるを得ない。奇麗事では片附かず、奮鬪して會得するまで惱みが續く。

      今は一億總評論家時代、要領良く問題を割り切り、面白く讀ませる評論が横行してゐますが、

      これでは暇潰 ( つぶ ) しや退屈凌 ( しの ) ぎにはなつても、惱み、共に考へる思考タイプでないと

      問題を解決できない。だから塩尻先生の著作は、今後確實に讀まれて行く筈です。

音田  確かに、劣等感は塩尻さんの著書を讀むと脱却できますね。


柿木  河合先生との相似點は、健啖家だつたことです。そりや大變な健啖家でした。

      私も食事する度にびつくりしました。亡くなられる一週間前も、サンドウィッチを全部召上つた後で

      私の持つてゐたおにぎりを三つ、稻荷鮨 ( いなりずし ) を二つ食べてミルクを一本飲まれた。

      鰻を食べに行つても、ちよつと殘すと 「 君、要らんの 」 とか言つてパッと取つてね ( 笑 ) 。

      心臟はお弱かつたが、あとの内臟は丈夫でした。

      これが、思索の粘り強さの肉體的土台になつてゐると思ひます。

          ( 伊原註:この 「 食慾旺盛 」 は 「 奮鬪死 」 と共に、河合學派の共通點である )


音田  もう一つは、雑事は切捨てて、一つに集中したことでせうね。

柿木  僕はやつぱり、先生の中で殘るのは、親鸞的部分だと思ひます。結局それに盡きる。

      銘々自分の個性を持ちながら、それに自信が持てないでゐる。

      所が、その儘の個性で良いんだといふことが先生によつて保證されてゐる。

      それで良いんだ。だからそれを土台にして伸びて行け、と。

音田  今日はまだ大學葬が濟んだばかりで、いろいろ複雜な氣持を持つてをられませうが、

      塩尻さんの思ひ出を語る座談會をこれで終りたいと思ひます。

( 昭和44年/1969年 6月19日、奈良市わかくさ旅館 「 河合先生の間 」 で )