『戰後史の正體  1945-2012』- 伊原教授の読書室

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      孫崎  享  ( まごさき うける )


  『 戰後史の正體  1945-2012 』


    ( 創元社、 「 戰後再發見 」 叢書 ( 1 ) ,2012.8.10 )   1500圓+税





  書店の店頭で見附け、直ちに買ひました。極めて重要な書物です。

  日本人必讀の文獻!

  戰後の日本が、米國の從屬國になつた經緯と展開を浮彫りにした書物です。


  これを書いた孫崎 享さんに絶大な敬意を捧げます。

  同時に、どうして今頃やつとかういふ書物が出たのか、

  これまでにどうして出てゐなかつたのかと、不思議に思ひます。


  著者 孫崎 享さんは、1943年生れ、1966年 東京大學法學部中退、外務省入省。

  駐ウズベキスタン大使、國際情報局局長、駐イラン大使を經て、

  2009年まで 防衛大學校 教授。

  著  書:

    『日米同盟の正體──迷走する安全保障』 ( 講談社現代新書 )

    『不愉快な現實──中國の大國化、米國の戰略轉換』 ( 講談社現代新書 )

    『日本の國境問題──尖閣・竹島・北方領土』 ( ちくま新書 )



  本書の骨格は、 「 はじめに 」 の冒頭にゴシックで書いてあります。


  日本の戰後史を動かす原動力は、


  米國に對する二つの外交路線です。


  「 二つの外交路線 」 とは、 「 米國からの壓力・裏工作 」 に追隨する路線と抵抗する路線です。

  末尾の 「 おはりに 」 に説明附きの一覧表があるので、これを紹介しませう。

  ここでは 「 自主派 」 「 對米追隨派 」 「 一部抵抗派 」 の三派に分けられてゐます。


( 1 ) 自主派 ( 積極的に現状を變へようと米國に働きかけた人達 )

    重光  葵 ( 降伏直後の軍事植民地化政策を阻止。後に米軍完全撤退案を米國に提示 )

    石橋湛山 ( 敗戰直後、膨大な米軍駐留經費の削減を求める )

    蘆田  均 ( 外相時代、米國に對し米軍の 「 有事駐留 」 案を示す )

    岸  信介 ( 從屬色の強い舊安保條約を改定。

            ( 更に米軍基地の治外法權を認めた行政協定の見直しも行はうとした )

    鳩山一郎 ( 對米自主路線を唱へ、米國が敵視するソ聯との國交恢復を實現 )

    佐藤榮作 ( ヴェトナム戰爭で沖繩の米軍基地の價値が高まる中、沖繩返還を實現 )

    田中角榮 ( 米國の強い反對を押切つて、日中國交恢復を實現 )

    福田赳夫 ( ASEAN外交を推進するなど、米國一邊倒でない外交を展開 )

    宮澤喜一 ( 基本的に對米協調。但しクリントン大統領に對しては對等以上の態度で交渉 )

    細川護煕 ( 「 樋口レポート 」 の作成を指示。 「 日米同盟 」 より 「 多角的安全保障 」 を重視 )

    鳩山由紀夫 ( 「 普天間基地の縣外・國外への移設 」 「 東アジア共同體 」 を提唱 )


( 2 ) 對米追隨派 ( 米國に從ひ、その信頼を得ることで國益を最大化しようとした人達 )

    吉田  茂 ( 安全保障と經濟の兩面で、極めて強い對米從屬路線をとる )

    池田勇人 ( 安保鬪爭以降、安全保障問題を封印し、經濟に特化 )

    三木武夫 ( 米國が嫌つた田中角榮を裁判で有罪にするため、特別な行動をとる )

    中曽根康弘 ( 安保面で 「 日本の不沈空母 」 發言、經濟面でプラザ合意で圓高基調形成 )

    小泉純一郎 ( 安保で自衛隊の海外派遣、經濟で郵政民營化など制度の米國化を推進 )

    ほかに、海部俊樹、小淵惠三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野田佳彦


( 3 ) 一部抵抗派 ( 特定の問題について米國からの壓力に抵抗した人達 )

    鈴木善幸 ( 米國からの防衛費増額要請を拒否。米國との軍事協力はしないと明言 )

    竹下  登 ( 金融面=協力。安保面=米國が世界的規模で自衛隊の協力を要請したことに抵抗 )

    橋本龍太郎 ( 長野五輪中の米軍の武力行使自肅を要求。 「 米國債を大幅賣りたい 」 發言 )

    福田康夫 ( アフガニスタンへの陸自大規模派遣要求を拒否。破綻寸前の米金融會社への巨額融資に抵抗 )



  本書は 「 高校生でも讀める 」 やうに企劃されました。

  でも、中身は極めて充實してゐます。

  日本が 「 獨立 」 した筈の戰後、如何に米國から折りに觸れて“奉仕" させられて來たか。

  それが生き生きした筆致で書かれてゐます。


  内容を逐一紹介したいところですが、詳しくは是非とも本書を直接讀んで戴くことにして、

  ここでは幾つかの項目を紹介するに留めます。



  第一、戰後日本の對米從屬路線の定着:

  私は、講和條約を結び、日本が 「 獨立 」 した時期の首相、吉田茂が、

  「 獨立 」 後も 「 占領體制 」 を持續したことを 「 大きな誤り 」 と考へて來ました。

  壓力をかける米軍 ( マッカーサー ) に果敢に抵抗した偉人との評價もありますが、

  日本を 「 獨立 」 させなかつた吉田茂は 「 罪萬死に値する 」 とまで考へてゐました。


伊原註:本書 146頁で孫崎 享さんも、かう書いてゐます。

        蘆田内閣の崩壞後、一年半ぶりに首相に返り咲いた吉田茂は、1951年の講和條約を挾ん

        で、1948年〜1954年の 6年間、政權を維持し續けました ( 第二次〜第五次 ) 。

          占領時代、日本の首相が米國のいふことを忠實に聽くのは已 ( や ) むを得ない事です。

        占領とはさういふものだからです。

          しかし、獨立したあとは別です。

          新しい指導者の下で、新しい出發をすべきだつたと思ひます。

          米國が 「 我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留さ

        せる權利を持つ 」 やうな條約を、獨立後も結ぶべきではなかつたのです。吉田首相自身、

        それが本來、獨立國が結ぶべき條約でないことをよく知つてゐました。日本側で署名し

        たのが吉田獨りだつた理由はそこにあつたのです。


  本書でも、吉田茂は、上記した如く岡崎勝男と共に、 「 對米追隨派第一號 」 に擧つてゐます。

  ところが、ここで 「 極めて重大な指摘 」 があるのです。


  對米追隨の第一の條件は、14頁にあるやうに、

  「 米國に“自主" 路線を貫くことがどれほど難しいか 」 です。

  だからこそ、大勢の追隨者が出るのです。利益も得られますから。

  でもそれは、 「 極めて重大な指摘 」 ではありません。


  86-87頁に 「 極めて重大な指摘 」 があります。

  「 戰後、我々は『天皇は象徴で政治に關與しない』と思つて來ました。

  「 しかし昭和天皇は戰後の日米關係の核心に深く關與してゐます 」


  終戰後、昭和天皇の側近となつた元外交官 寺崎英成が GHQ ( 占領軍總司令部 ) に接觸して

傳へた沖繩に關する極秘メッセージに曰く、


  「 マッカーサー元帥のための覺書  1947.9.20  マッカーサー司令部政治顧問 シーボルト


  天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖繩の將來に關する天皇の考へを私に傳へる目的で、時日を予約

した上で訪ねて來た。寺崎氏は、米國が沖繩其他の琉球諸島の軍事占領を繼續するやう天皇が希

望してゐると言明した。

  更に天皇は、沖繩に對する米國の軍事占領は、日本に主權を殘した儘での長期租借──25年乃

至50年、或はそれ以上──の擬制に基づいてなさるべきだと考へてゐる 」


  この 「 天皇の マッカーサー への メッセージ 」 を 1979年に 米國の公文書館で發見したのは、進藤榮一筑

波大學助教授 ( 當時 ) で、雜誌『世界』四月號 ( 岩波書店 ) に 「 分割された領土 」 といふ論文に

發表してゐるのですが、學會も マスメディア も 「 全くの黙殺 」 で應じました。

  “都合の惡い眞實" は、慌てず騒がず 「 黙殺 」 して影響力を發揮させずに“消す" のです。


  昭和天皇が在日米軍の撤退は 「 不可 」 と仰せられたことを、重光外相が記録に留めてゐます。

    ( 『續  重光葵日記』1955年 8月20日附 )

  それに觸れた本書 167頁に、かうもあります。


    「 昭和天皇とマッカーサーの 11回に及ぶ會談を詳細に分析した豐下楢彦教授によると、

    「 吉田首相の米軍基地に關する極端な屬米路線には、

    「 かうした『在日米軍の撤退は絶對駄目だ』といふ昭和天皇の意向が影響してゐた

    「 公算が大きいさうです 」


  では、昭和天皇は、なぜ米軍の日本駐留の半永久化を望まれたのでせうか?


  この答を、私は出せます。

  I. 「 滿洲某重大事件 」 ( 張作霖爆殺事件 ) 以來の陸軍の勝手な振舞に愛想が盡きた

    この問題についての基本文獻は,次の書物です。

    伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壞──睦仁・嘉仁から裕仁へ』

      ( 名古屋大學出版會、2005.5.10 )   9500圓+税


  II.二二六事件で陸軍内に 「 秩父宮と交代させる 」 計劃があつた事への苦い思ひ

    これについては、例へば下記參照:

    鬼頭春樹『禁断  二二六事件』  ( 河出書房新社、2012.2.28 )   2400圓+税


  私が生れ育つた昭和時代は、日本の歴史に於て波瀾萬丈の時期なのであります。



  第二、北方領土で日ソを對立させた米國:


  本書 169頁に曰く、

  「 實は北方領土の北側の二島、國後島と擇捉島は第二次大戰末期に米國がソ聯に對し、

  「 對日戰爭に參加して貰ふ代償として與へた領土なのです。

  「 而 ( しか ) もその米國が冷戰勃發後、今度は國後・擇捉のソ聯への引渡しに反對し、

  「 わざと『北方領土問題』を解決できぬやうにしてゐるのです。

  「 理由は、日ソ間に紛爭の種を殘し、友好關係を作らせぬためです 」


  孫崎さんは、 「 驚きましたか? 」 と續けますが、別に驚くことはありません。


  日本が徹底的に戰つたことに恐れを抱いた米國は、日本占領政策で日本を骨抜きにすると共に

  戰後、獨立した日本が近隣諸國と仲良くなれぬやう、しつかり手を打ちました。


  「 滿洲事變以後 」 の領土變更を是正する筈の日米戰爭の大義名分に反して、

  滿洲のほかに、朝鮮も台灣も取上げ、南樺太と千島列島まで剥ぎ取りました。

  南樺太と千島列島をソ聯に與へたのは、孫崎さんによれば 「 對日戰爭參戰の代償 」 ですが、

  私は、戰後日本がソ聯と仲良くできぬやうに ローズヴェルト ( FDR ) が打つた布石だと考へます。

  FDR は ヤルタで、極東の歴史に疎かつた譯でも、頭がぼけてゐた譯でもないのです。


  そして朝鮮半島南半分 ( 韓國 ) を占領した米軍は、

  反日亡命者の兩班 ( ヤンパン ) 李承晩を大統領にし、徹底的に反日教育を施しました。

  政爭に明け暮れる兩班支配を打破して庶民が食べられるやうにした日本の朝鮮統治が

  朝鮮の人々から恨まれる筋合はありません。

  これ悉 ( コトゴト ) く米國占領軍の差し金であります。


  それと、日本に追放された時代錯誤の兩班が政權・言論統制に復歸するには、

  自分らを 「 日本の朝鮮支配に抵抗した愛國者 」 に見せかけねばなりませんでしたから、

  米國の反日政策は、彼ら兩班の利害に合致したのです。

  といふ譯で、韓國の反日は、米國の日本弱體化政策の一環なのです。


  台灣も、支那事變で痛めつけられて日本に怨み骨髄の筈の蔣介石に與へました。

  所が、蔣介石は台灣を重視せず、子分の陳儀に 「 恩賞 」 として與へました。

    ( 將來、自分が逃げ込む運命とは、この段階では思ひ到りませんでした )


  陳儀は支那軍閥の慣習通り、台灣をひん剥 ( む ) いたので、 228事件の叛亂が生じます。

  斯くて 「 日本の統治の方がまだマシだつた 」 との認識が、台灣人に普及しました。


  台灣民衆が親日化したのは、米國の誤算でした。

  日本の南方に、親日國が生れさうになつた。

  それは、日本を米國の権威下に置いてをきたい米國にとつて望む所ではありません。

  だから米國は、台灣獨立を“絶對認めない" で現在に到つてをります。


  朝鮮戰爭後、台灣の 「 中華民國 」 を 「 中國 」 の正式政府に祭り上げましたが、

  ソ聯と對抗するため共産中國と馴れ合ひ、國聯代表が入れ替つた上、國交まで結んだので、

  台灣に亡命した 「 中華民國 」 政權を認められなくなりました。

  ここで 「 中華民國 」 は 「 中共政權成立時に滅んだ 」 政權と化します。

  「 台灣 」 は國家ではない。 「 中華民國 」 は蔭が薄い幽靈政權である。

  この“現状" は公認できぬが、變へると中共が騒ぐので變へることも儘ならない。

  だから台灣は、れつきとした獨立國でありながら、

  1971年10月の國聯總會で中共と入れ替つて以來、國際社會に認められぬ儘、

  “日陰者" として存在し續けて現在に到つてゐるのです。


  國際社會とは、 「 力こそ正義 」 が罷り通る無法性が根本にあります。

  日本國憲法の前文は、お伽話に過ぎません。

  あれを守つてゐる限り、日本も蔭が薄いのです。


  日本を二度と米國に歯向かふやうな立場に立たせない政策の重要な目玉が、

  日中提携の阻止です。本書にありますやうに、米國が田中角榮を倒したのは、

  米國の意に反して日中國交恢復をしたからです。


  毛澤東は、第三次大戰必至、米國の中國侵略必至と信じてゐました。

  その際、日本が米軍の基地として使はれては困るので、戰後逸早く對日工作に入つてゐます。

  出來れば日本を抱き込む。それが叶はずとも、武裝蜂起させて米軍を牽制する。

  日本に 「 日中友好人士 」 が多いのは、米中の狹間で雙方から壓力を受ける日本の立場の反映に

  ほかなりません。


伊原註:田中首相が訪中した際、毛澤東は田中角榮に 「 反米日中同盟 」 を提案してゐます。

  「 どうですか、田中先生。組むなら徹底して組まうではありませんか 」

  ( 青木直人『田中角榮と毛澤東──日中外交暗闘の30年』講談社、2002.11.27,171頁 )

  毛澤東は、反ソ反米ではあつても、反日ではありませんでした。



  第三、日本に原發を持込んだ米國:


  174頁に曰く、

  「 日本で原子力開發が始つたのは、米國の意向を反映したものでした。

  「 その理由は、第五福龍丸の被爆によつて日本人が、

  「 急速に反原子力・反米に動くのを阻止することでした 」


  これは註釋の必要などありますまい。


  扨て、大分長くなりました。先を急ぎませう。



  第四、鈴木善幸首相の再評價:


  私は、當時のメディアの評價通り、鈴木首相を 「 暗愚の宰相 」 と思つてゐました。

  ところが本書によると、ちやんとした外交哲學を持つ まともな政治家でした。


  284頁に鈴木首相の言として曰く、

  「 我國の努力は、平和的手段のものに限られる。我國として各國に對する軍事的協力は

  「 行ひません 」


  行き違ひは、鈴木首相が 「 軍事面で變つたことなし 」 といふ意味で

  「 軍事的意味合ひはない 」 と言つたのが、

  「 日米同盟は軍事同盟ではない 」 と言つたと受取られ、 「 暗愚の宰相 」 と言はれたのだと。


  但しこの舞台裏で、レーガン政權は日本の海軍力をソ聯向けに使はうとしてゐたのだと、

  孫崎さんは書きます ( 288頁以下 ) 。

  P3C といふ對潜哨戒機を日本に大量に買はせ、オホーツク海に潜むソ聯原潛を探知させようとした。

  オホーツク海に潜むソ聯原潛は、米國を核攻撃する能力を持つのです。

  つまり米國は、自衛隊を米國防衛の下請けに使つたのです。

  P3C による自衛隊の哨戒は、專ら米國の安全にとつては不可欠の作業をしてゐる譯です。


  皆さん、そんなこと知つてゐましたか?

  軍事教育を施してゐない我國では、國民は戰術問題・戰略問題にまるで無知ですねえ……



  第五、プラザ合意後、米國は日本をこき使ふ:


  1985年 9月22日、NY の プラザホテルで先進 5ヶ國の藏相・中央銀行總裁會議で

  「 圓高ドル安 」 が合意されました。

  これ以後、日本は輸出不振に苦しみ、不況に呑み込まれます。


  それともう一つ、レーガン政權は日本經濟を米國經濟の草刈り場に變へて行くのです。

  その經緯は本書にも一通り書いてありますが、下記が判りやすいです。


    關岡英之『拒否できない日本:アメリカ の日本改造が進んでゐる』 ( 文春新書、平成16.4.20 )

    原田武夫『騙すアメリカ 騙される日本』 ( ちくま新書、2005.12.10 )

        關岡さんは、其後、續編も書いてゐます。



  第六、冷戰終結後、日本を敵視し始めた米國:


  312頁に、1991年、シカゴ外交評議會が行つた世論調査結果が載つてゐます。

  題目は 「 米國にとつて死活的脅威は何か 」 ( 複數回答 )

  結果は以下の通り。

      日本の經濟力:一般人 60%  指導者層 63%

      中國の大國化:      40%           16%

      ソ聯の軍事力:      33%           20%

      歐洲の經濟力:      30%           42%


  「 知らぬは日本人ばかりなり 」 でないことを望みます。

  このあと日本を見舞ふ 「 失はれた10年 」 の不況は、米國の壓力と無縁のものでは

  ありません。


  319頁に曰く、


  米國が日本を軍事面で使はうとしてゐる時、日本はどうしてゐたでせうか

  細川護煕政權の下で日本は日米同盟の重要性を輕減することを考へます

  そこで米國は細川政權を潰すための工作を仕掛けました


  322頁に曰く、


  CIAは日本の經濟力を米國の敵と位置づけ、對日工作を大々的に行ひます


  325頁に曰く、


  米國は露骨に自國の利益をごり押しするやうになり、……


  327頁に曰く、


  米國は 「 日本が米國の世界戰略と一體化して動くやう 」 新工作を始め、成功します


  ジョセフ・ナイ國防次官補が活躍し、新防衛大綱が策定されます。


  1995. 2.27  米國國防總省 「 東アジア戰略報告書 」 ( ナイ・イニシアティヴ ) :日米安保を再定義

      11.28  新防衛計劃大綱を閣議決定 ( 村山内閣 )

  1996. 4.17  「 日米安全保障共同宣言──21世紀に向けての同盟へ 」 クリントン大統領・橋本首相

              「 世界の平和と地域の安定並に繁榮に深甚且つ積極的な貢獻 」 を再確認

        6.    ガイドライン作成開始

  1997. 9.23  「 日米防衛協力の指針 」 ( 新ガイドライン ) を日米委員會が承認。日米同盟の再定義

  1999. 5.    周邊事態關連法の成立


  338頁に曰く、


  日本は 「 米國の戰爭 」 である イラク戰爭に參加しました。その理由は?

  「 米國に言はれたから 」   それ以外の理由はありません


  ここまでの 「 米國の對日操作 」 の流れは、以下の通り。


  ( 1 ) 大平首相:會談中に大平首相に 「 日米同盟關係 」 と言はせた

  ( 2 ) 鈴木首相:共同聲明に 「 日米同盟 」 を書込む。

      但し鈴木首相は 「 新たな軍事努力はしない 」 と言明

  ( 3 ) 中曽根首相:自ら 「 防衛責任の増強 」 を表明

  ( 4 ) 竹下首相:日米の役割分擔に 「 軍事分野は含まぬ 」 と明言

  ( 5 ) 小泉首相:中曽根時代と同じ 「 防衛責任の増強 」 に戻り、

      遂に イラク への自衛隊派遣を實行


  小泉首相は、訪朝でブッシュ ( 子 ) 政權に脅され、對米追隨を二つやります。


  一つ目は、2005年、日米同盟を 「 全世界を舞台にした日米軍事協力 」 に擴げたこと。

  二つ目は、日本の社會と經濟システムを米國流に變へたこと。

  これで日本は 「 競爭最優先 」 「 弱者切捨て 」 の冷酷な社會になります。


  小泉首相が對米屈從路線を歩んだのに對して、福田首相は果敢に米國の要求に抵抗しました。


  一つは、アフガニスタン戰爭への陸上自衛隊 C-130 及び CH-47 ヘリコプター 派遣要求を拒否。

  二つは、破産確實な米政府系住宅金融機關 2社 への巨額融資の依頼を拒否。


  福田首相は、辭任することで、辛ふじてこの要求をかはしたやうです。



  第七、米國が日本にTPPを迫る理由:


  第一の理由:日本の對中接近阻止

  第二の理由:米國經濟の深刻な不振の打開


  TPP は、米國が、日本國内にある富を吸上げるための仕組です。

  ですから、TPP推進論者は、米國追隨者なのです。


  文明化・民主化の美名の下、他民族の生活に介入し、収奪する米國の負の歴史を、

  日本と アメリカ先住民 ( インディアン ) を對比する形で描いた諷刺文を轉記してをきます ( 363頁 ) 。


  ○3年前、オバマ大統領は就任演説で、米國の偉大さと繁榮は 「 海を渡り、西部の原野に住み、

    大地を耕した 」 先人達により築かれたと言つて國民を鼓舞した。

  ○西部開拓は米國人の誇る建國物語だが、實はそれほど美しい話ではない。

    移住者達が耕した大地は 「 掃討と殖民 」 政策の下、先住民から収奪したものだからだ。

  ○先住民の部族の多くは、當時、採取・狩獵を中心に生活してをり、小集團に分かれて廣い

    領域を移動してゐた。物事を全體の コンセンサス で決める習慣だつたため、侵略者への對應も

    意見が分かれると纏まつて行動できず、よくそこに附け込まれた。

  ○米國の先住民人口は、20世紀初頭に 24萬人に減つてゐたが、殖民當初には 200萬人ゐた。

  ○チェロキー族は廣大な領域を讓る條約を次々結ばされ、文明開化路線 ( 農民化・洋服着用・宣教師

    受入・新聞發行 ) に轉じたが、結局他の部族同樣、1300キロ西の強制移住地に移住させられた。

  ○ペリーによる日本遠征は、そんな時期に計劃された。西に伸びる經濟權益確保のための大事業

    だつた。創刊直後の NY タイムズ は 「 日本には、鎖國の壁の中に寶物を隱す權利はない。米國が

    世界の夜明けを日本に理解させることは寧ろ義務である 」 と論じた。


  孫崎さんは、 「 鎖國の壁の中に寶物を隱す權利はない 」 とはよく言つた、この表現は

  今日の TPP にもぴつたり當てはまる、と書いてゐます。



  第八、戰後日米關係の重要ポイント三點:


( 1 ) 米國の對日政策は、飽くまで米國の利益のためにある。

    日本の利益とは必ずしも一致せず。


( 2 ) 米國の對日政策は、米國の環境變化により大きく變る。

    米國の對日政策は、少くとも二度、180度轉換した。

    第一は占領期。冷戰勃發により、懲罰的政策が育成策に變つた。

    第二は冷戰終結後。日本經濟を敵視し、米國の餌場に變へた。


( 3 ) 米國は自分の利益に基き、樣々な要求をする。

    それに立ち向かふのは大變なことである。

    しかし冷戰期のやうに、米國一邊倒といふ時代は既に20年前に終つた。

    いかに難しからうと、日本の讓れぬ國益は主張し、米國の理解を得る必要あり。



  第九、日本國内の米國の手先の存在:


  冒頭に、 「 對米自主派 」 「 對米追隨派 」 「 一部抵抗派 」 の三派の一覧表を掲げてをきました。

  孫崎さん曰く、對米追隨派は長期政權が多い。

  例:吉田茂、池田勇人、中曽根康弘、小泉純一郎。


  對米自主派は逆に短期政權が多い。

  それは、米國の直接間接の壓力で倒されるからだ。


  自主派追落しの幾つかのパターンは下記の通り。

  ( 1 ) 占領軍の指示による公職追放

      鳩山一郎、石橋湛山

  ( 2 ) 檢察が起訴し、メディアが大々的に報道し、政治生命を絶つ

      蘆田均、田中角榮、小澤一郎

  ( 3 ) 政權内の重要人物を切らせて内閣崩壞に導く

      片山哲、細川護煕

  ( 4 ) 米國が支持しないことを強調し、黨内反對派を強化する

      鳩山由紀夫、福田康夫

  ( 5 ) 選擧で敗北さす

      宮澤喜一

  ( 6 ) 大衆を動員し、政權を崩壞さす

      岸信介


  369頁で孫崎さんは、 「 占領期以降、日本社會の中に『自主派』の首相を引きずり下ろし、

  『對米追隨派』にすげ替える システム が埋め込んである、と書きます。


  孫崎さんが指摘するのは、以下の三勢力です。

  ( 1 ) 檢察:中でも特捜部は、GHQ の指揮下にあつた 「 隱匿退藏物資事件捜査部 」 である。

      日本が隱した 「 お寶 」 を探し出して GHQ に差し出すのがお役目の機關。

  ( 2 ) 報道機關:占領期以來、紐付きを養成濟だと。

  ( 3 ) 更に外務省・防衛省・財務省・大學などにも 「 米國の紐付き人物 」 を養成濟


  しかし、と孫崎さんは、石橋湛山の言葉に望みを繫ぎます。


  終戰直後、膨れ上る GHQ の駐留經費を削減しようとした石橋大藏大臣は、

  直ぐ公職追放になります。

  その時、石橋大藏大臣曰く、

  「 後に續く大藏大臣が、俺と同じ態度を採ることだな。

  「 忽ち追放されるかも知れぬが、それを二、三年續ければ、

  「 GHQ も何れ反省するだらう 」


  大事なのは 「 人物を育てること 」 なのです。

( 2012.8.6-7執筆 )