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『産經新聞』「日米衝突への道」4


     衝突不可避へ7つの契機(増訂版)


帝塚山大学名誉教授 伊原吉之助


「あの戦争」は私の生涯最大の出来事である。旧制中学四年生で敗戦を迎え、価値観が大転換した。爾来、あの戦争への考察を忘れたことがない。

相手が悪かった。若い帝国である米国が、日本に向けて西進してきたのである。米国は米洲を聖域にして中国の権益を日本と争い、自国の都合を押付けた。開戦までの契機が七つあって、後ほど衝突が避け難くなる。


第一の契機=ペリーによる日本開国。平和に暮していた日本を力づくで開国させた。これを「ペリーの日本強姦」と称したのは岸田秀である (『日本がアメリカを赦す日』毎日新聞社、2001年) 。深層心理に怨念が宿った。「日米百年戦争」が始まる。


第二の契機=李朝朝鮮とその宗主国清朝の李鴻章による「夷を以て夷を制する」対日政策。これが日本に日清・日露両戦争を戦わせ、「外征型」国づくりを強いた。近所迷惑甚だしい対応だった。


第三の契機=米国の太平洋国家化。1840年代に「明白なる天命」をふりかざしてインディアンとメキシコから土地を奪い、太平洋岸に達した米国は、1898年の米西戦争で海洋帝国化し、ハワイ・グアム・フィリピンを得て東アジアに進出する。ヘイ国務長官の門戸開放宣言は、モンロー・ドクトリンからウィルソン大統領の国務長官ブライアン、ランシングの二十一箇条不承認声明、フーヴァー大統領の国務長官スティムソンの満洲国不承認主義を経て、日米交渉のハル国務長官まで一貫する米帝国の西進宣言である。


 第四の契機=西海岸における排日移民運動とワシントン条約体制。1915年の二十一箇条問題から数えて、日本対米華三十年戦争の始まりである。在華基督教宣教師が伝える「親中反日」感情が米紙を通じて全米に拡がり、日米衝突の底流となる。


 第五の契機=世界大不況とブロック経済化。英米とも関税障壁を高めて日本の輸出を締め出した。このとき日本が英米から受けた理不尽な扱いについては、池田美智子『対日経済封鎖──日本を追いつめた12年』 (日経新聞社、1992年)に詳しい。ABCDラインによる日本締めつけの前哨戦だったといえるかも知れない。


   追記:このほか、次のような文献もある。

  石井 修『世界恐慌と日本の「経済外交」── 1930〜1936年』 (勁草書房, 1995)

  秋田茂・籠谷直人編『1930年代 の アジア国際秩序』 (溪水社, 平成13年)

安達宏昭『戦前期日本と東南アジア ──資源獲得の視点から』 (吉川弘文館, 2002)

  土井泰彦『対日経済戦争 1939-41』 (中央公論事業出版, 2002)


 第六の契機=反日親中大統領フランクリン・デラノ・ローズヴェルト(FDR)の登場。彼は母方の祖父が対清阿片貿易で儲けたことに罪悪感を抱き、大統領当選後、「私はシナに深く同情している。何が何でもスティムソンと共に日本を叩くのだ」と言放ってブレーンの学者を呆れさせた。


 第七の契機=中ソの謀略。蒋介石・国民政府は米英に日本を牽制させようとした。毛沢東・延安赤色軍閥政権は日本に蒋介石を叩かせようとした。スターリンは日中衝突を望んだ。三者の思惑が第二次上海事変で実り、日本は支那事変の泥沼にはまった。


 第五の契機まではまだ日米衝突は必然ではなかったが、FDRの登場と中ソの画策とにより不可避となった。


 「日米は戦うべきでなかった」という反省がある。日本が石油・屑鉄など重要資源を米国に依存し、日米の生産力格差が巨大だったことからして尤もな反省だが、米国の日本軽視の甚だしさや中ソの策謀を考えると、日本の「反省」だけでは片付かない。ジョージ・ケナンはいう、「我々は十年一日の如く……日本に嫌がらせをした」 (『アメリカ外交50年』岩波書店、同時代ライブラリー、76頁) 。日本の在華権益を尊重しなかった米国が相手では日本の努力は限られ、結局は敢然、戦うほかなかったろう。


 「負け戦は断じてすべきではなかった」という反省もある。三国干渉時のように臥薪嘗胆すればよかったというのである。でも、昭和十六年に満洲を含め、中国全土から撤兵できただろうか? 日清戦争当時の日本の実力では引っ込むほかなかったにしても、昭和に米国の言いなりになって臥薪嘗胆するのは無理だった。


 なぜ無理か? 軍部を含めて日本の各界が官僚制化し、指導者不在のまま「誰も責任をとらぬ」世の中になったからである。進出は指導者なしでもやれるが、撤退はそうは行かない。江戸時代に各藩は藩校で指導者教育をしたから指導者に事欠かなかったものの、近代化を担う専門家・技術者が払底していた。そこで開国後は指導者教育をやめ、技術者・専門家教育に専念した。帝国大学も陸海軍の大学校も、官僚・参謀教育であって指導者教育ではない。そこで日本は、帝大卒業生が政治家になる頃から、国家指導に問題が出てくる。第一次大戦に不用意な参戦をして「中国に返却するため青島を攻撃する」と言わざるを得なくなり、二十一箇条問題でも不用意な追加要求をして五四反日運動の原因を作った加藤高明がその代表である。大正デモクラシーが、国家運営弛緩の転機を示す。


 帝大や陸大・海大を卒業した官僚・参謀群は、自分らの思いのまま国家を運営すべく、天皇を祭り上げて輔弼者の進言をそのまま認可するよう誘導した。昭和天皇は、それが立憲君主の道と信じ込まされ、三回の例外を除き、終始「指導」を控えられたのである。


 これを嘆いた徳富蘇峰は戦後日記に書いている。明治天皇は要所々々でちゃんと御指導なされたのに、昭和天皇は御指導を控えられた。かくて中枢が空洞化し、官僚群がてんでばらばら国家運営に参画したから統一的戦争指導ができず、負けたのだと(『徳富蘇峰終戦後日記──頑蘇夢物語』講談社、二〇〇六年)。明治天皇は重要問題は納得するまで臣下を問い詰められた。だから臣下は周到な準備を心がけた。


 「あの戦争」で反省すべきは、正にこの「指導者不在」「中枢空洞化」「統制官僚の無責任な専制」に尽きる。

指導者教育の不在は、戦前より戦後に著しい。各組織の官僚制化・無責任化も戦後に著しい。国家百年の大計など、誰も考えていない。これでは集団は壊滅し、国家は亡びる。乃木凡將論が出て偉人を踏みにじり、平等思想が横行して下衆(げす)がのさばる世の中になった。これが「人民主権」の産物なら、「人民主権」とは下衆の政治である。


   追記:乃木將軍が凡將でないことを論じた簡にして要を得た論考は以下の通り。

重松正彦「乃木大將と昭和の將軍」 (ドゴール『剣の刃』葦書房, 平成5年,所収)


 日本は、辛勝だった日露戦争の問題点の反省を棚上げし、「彼を知り己を知る」ことを怠って昭和の敗戦を迎え、昭和の敗戦の反省 (指導者不在と組織の官僚化) を怠って経済成長に突っ走った。

現在、国家運営が迷走しているのは、反省不足の当然の報いである。