ゾルゲとゾルザ ( 續 ) -伊原教授の読書室

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    ゾルゲとゾルザ ( 續 )



      ──研究とは、無限の持續である──



持續と循環の大事さ


  「 ゾルゲとゾルザ 」 の再録をアップしたあと、大事なことを書き漏らしたと氣付きました。


  私の若い友人が嘗てつくづくと感じた風情で曰く、

  「 主婦の仕事つて、切れ目がないんですよね 」


  サラリーマンである友人は、休日に庭の草取りをした。

  一通り作業を終へて、やれやれと食卓の前に坐つてお茶を一服飲んだ。


  ところが、奥樣を見てゐると、休みなく働いている。

  ある仕事をしてゐたかと思ふと、次には別の仕事に取りかかつてゐる。

  「 仕事に切れ目がない。一服しない 」 といふのである。


  私はこの話を聞いた時、 「 生 」 ( セイ ) とはさういふもの、無限の循環だと思ひました。


  經濟も、生態も、無限の循環です。


  夏目漱石の猫は、人が何故煙草を吸ふのか、訝 ( イブカ ) りました。

  「 どうせ吐き出すのなら、初めから吸ひ込まなきやいいのに 」


  この猫の疑問はをかしい。

  「 人はなぜ呼吸するのか。どうせ吐くなら、初めから吸ひ込まなきやいいのに 」

  とは誰も思ひませんから。


  生とは、基本的に同じことの繰り返しです。

  一個人の人生も然り、世代の連なりも然り。


  私は、經濟學を教へてゐた時、人生も經濟も 「 循環 」 であることを、かう教へました。


  昔、家庭では毎日、掃除・洗濯をしてゐた。

  ちやうど毎日、三度三度御飯を調理したやうに。

    ( ここで註釋が要ります。

    ( シナでは、三度三度火を起して温かいものを食べます。

    ( 日本では、朝晩二回です。晝は冷や御飯で濟ませました。

    ( 蔣介石は 「 新生活運動 」 で、日本人を見習へと言ひました。

    ( 毎日三度、火を起して飯を炊くのは手間と燃料の浪費である。

    ( 日本人に見習つて晝は冷や御飯にすれば、一回分の手間と燃料が省ける、と。

    ( 又、日本統治時代の台灣で、小學校の先生が嘆きました。

    ( 「 晝前の時間は授業にならない。子供達の親が、熱い辨當を持つて來るから、

    ( その度に、子供達全員が窓の外を見る。

    ( これがクラスの子供全員の辨當が揃ふまで續くから、授業がお留守になる、と。

    ( 清朝末期に日本へ留學生が どつと押し寄せました。

    ( 彼らが下宿や他家で冷や飯を出されたとき、 「 冷遇 」 と感じて激怒した由です )

    ( 「 食事とは温かいもの 」 といふのが彼らの常識でした )


  掃除してもまた埃が溜る。洗濯してもまた汚れる。

  では、二日に一度にしたら、手數が半減する。

  一週間に一度にしたら、もつと手數が省ける。

  でも、それでは、一週間の大半を埃・汚れ物と同居して過ごさねばなりません。

  こまめに掃除・洗濯すると、綺麗さつぱりと氣持ち良く過ごせます。

  手抜きすると、不潔・不愉快な儘、過ごさねばなりません。


  長々と 「 循環 」 について話したのは、 「 研究 」 も亦同じ、と言ひたかつたからです。


  研究 ( インテリジェンス ) も、延々と續く作業です。

  論文や報告は、途中經過の纏めに過ぎません。


  私は論文の締切りの前夜、

  「 あと一週間あれば、もつと良い論文が書けるのに! 」

  と歎くことが屡 でした。

  「 せめてあと一日、いや、あと一時間あれば…… 」


  でも、期限があるから纏められるのですし、

  經過報告をして置くことで、次にはもう一段高い内容の報告が期待できます。


  「 寝ても醒めてもある題目を追求し續ける 」


  これしかないのが 「 探求 」 です。




閃きの大事さ


  ここまで來ると、もう一つ、大事なことに言及せねばなりません。


  新聞記者に 「 發明はどうしたら出來ますか? 」 と訊かれた エディソン、答へて曰く、


  「 99% の パースピレーションと、1% の インスピレーションだ 」 と。


  「 99% の 發汗と、1% の 閃き 」 が必要だ、との答です。


  記者は凡人なので、天才 エディソンも 「 努力の成果 」 なのだと解釋しました。


  エディソンの含意は正反對です。


  幾ら努力しても、1% の閃きがないと發明にならないよ、といふのです。

  99% の發汗は、1% の閃きを育て稔らすための努力です。

  1% の閃きがないと、育てようがありません。


  これは大事なことで、粘り強く探求しても、センスのない人には、他者を惹きつける

  魅力ある、或は意味ある、つまり内容のある 「 發見 」 「 探求 」 は出來ないのです。

  この 「 閃き 」 なるものを持つ ( 育てる ) には、平生から感性を磨いておかねばなりません。


  「 教養 」 が大事な所以です。

  文學部が寂れてゐる現状は、實に嘆かはしい。

  「 無駄 」 を許さぬ社會は駄目です。前途なし。


  抑 人間の存在自體が 「 無駄 」 そのものじやあありませんか。


  何も彼も 「 効率 」 で判斷してはいけません。

  皆さん、 「 趣味 」 を大事にされんことを!

( 平成23年/2011年 7月14日 )