關東大震災の轍を踏むな-伊原教授の読書室

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      關東大震災の轍を踏むな



伊原註:以下は 『 關西師友 』 平成23年五月號に載せた 「 世界の話題 」 ( 257 ) です。

        いつもの通り、若干増補してあります。




            生き方を考へ直す好機


  3月11日に起きた三陸沖大震災・大津波は、未曾有の國難です。

  石原東京都知事は 「 天罰 」 と評して

  「 何故東北の人達だけが天罰を被らねばならぬのか 」

  と反撥を受け、撤回しましたが、

  私が痛感したのは 「 人類よ驕る勿れ 」 といふ天の聲です。


  西歐が開發した 「 エネルギー多用による省力化 」 といふ生産方法・生活樣式は、

  地球人口が 60億を超え、

  少數だつた先進國の浪費型生産・生活に

  中進國が次々追隨し始めた現在、

  文明の根本的な方向轉換を迫られてをります。


  戰中戰後の愼ましい生活 ( 出す塵〈ゴミ〉が尠かつた! ) を知る私らの世代は、

  御馳走でも平氣でばつさり捨てる戰後の風潮になじめません。


      伊原註:私ら昭和一桁世代は、驛辨を蓋の裏についた米粒から食べ始める世代です。

              「 お米はお百姓さんが汗水垂らして作つた貴重な食べ物だから、

              「 一粒でも無駄にするな 」

              と言聞かされて育ちました。


  大量生産品を直ぐ壞れるやう設計してどんどん買換へさす使捨て經濟も

  長續きしますまい。


      伊原註:某家電メーカー の 冷蔵庫設計主任から聽きました。

              「 モーターを含めて、全部が 5〜6年でへたるやうに設計せよ。

              「 消費者には 5〜6年で新品に買換へて貰ふのだ 」 と。


  今回の大災害は、

  「 人生の意味を考へ直せ、

  「 足るを知れ 」

  といふ天の聲ではないでせうか。


  關東大震災の時も、多くの人が精神が緩んだ我國への 「 天譴 」 と捉へました。

  しかし反省が足りなかつたのか、

  「 大正の間違ひ、昭和を殺す 」 形で我國は動亂と戰爭の末敗戰を迎へ、

  大日本帝國を滅ぼしました。


  その經緯は、以下の書物で判ります。


      岡田益吉 『 危ない昭和史 ( 上下 ) 』 ( 光人社、昭和56年 )

      高橋亀吉・森垣淑 『 昭和金融恐慌史 』 ( 講談社學術文庫、1993年/2009年 )

      池田美智子 『 對日經濟封鎖 』 ( 日本經濟新聞社、1992年 )


  もう一つ、日本現代史の問題點があります。

  日本は開國後、40年毎に浮沈を繰返して來ました。


  1868年/明治元年  明治維新:植民地化の危機 → 近代國家形成に出發

  1905年/明治38年  日露戰爭勝利:安全保障環境を確立して獨立を確保

  1945年/昭和20年  世界を敵にして戰ひ、敗戰:大日本帝國 滅亡。皇室が續いたため斷絶なし

  1985年/昭和60年  プラザ合意:貿易戰爭に日本が勝利 → ドル安圓高容認。日本、不況長期化へ


  では、それから 40年後の 2025年に、日本はどうなりませうか?

  今度は沈没する番に當つてゐるのですが……


            敗戰を導ゐた關東大震災


  關東大震災後、日本が一直線に敗戰に突進した譯ではありませんが、

  大震災が國難の端緒になつたことは紛れもありません。


  關東大震災は、起きた時期が最惡でした。

  第一次大戰の好景氣が終り、戰後整理を準備中に起きました。

  これで震災手形を無條件で割引くことになり、バブルの水増し企業が生延びたのです。


  更に惡いことに、明治以來の弱小銀行も生延びた。

  これらが昭和の初めに破綻して金融恐慌を起し、

  世界大恐慌と重なつて酷い不況を招きました。


  二大政黨の民政黨も政友會も、適切な對應が出來ず、

  不況に苦しむ國民を尻目に、料亭で利權取引をして國民に見放されました。


  外交も、主役が英國から米國に變る激變が起きました。


  米國は 1920年代には

  カリフォルニア州の排日土地法・移民法・學童排斥により日本に屈辱を與へ、

  ワシントン條約體制で日英分斷、シナ支援・日本抑壓策を取り、

  1930年代にはやつと恢復した日本の輸出を排除する

  「 ブロック經濟 」 といふ利己的政策を採りました。


伊原註:米國の排日の實情については、例へば下記の書物を御覧あれ。

        在米  松枝保二著

        『 驚くべし 此の横暴 此の國辱    米國排日の實相 』

          ( 大日本雄辯會、大正14.5.18 發行 )     定價壹圓五拾錢

            序 文    19頁

            目 次      3頁

            本 文    306頁


  世界が資源・市場を持つ國と持たぬ國に分れて睨み合ひました。

  「 持てる國 」 the Haves と

  「 持たざる國 」 the Have-nots とに分れて

  對峙したのです。


  米國が日本と協調して日本の東アジア主導權を認めてゐたら、東アジアは遙かに安定し、

  周邊諸國も順調に經濟成長し始めてゐた筈です。


  敗戰後の 「 日本惡者史觀 」 は、

  日本の相手國が何をしたかを捨象した偏見です。


  そして米國は、自ら支援した國を、次々敵に回して叩く をかしな國です。

  シナ然り、ソ聯然り、イラク然り。


  さて話を元に戻して──


  第一次大戰後の東アジアの趨勢の中で、

  三陸沖大震災を迎へた私達が今見直してをくべきは、


  「 政治家の無能・洞察力の無さ 」 が國を滅ぼす


  といふ點です。


  當時の二大政黨は、先に言及した通り、政友會と民政黨です。


  民政黨は經濟政策を誤つて極端な不況と金の流出を招き、

  幣原軟弱外交でシナの侮日・排日・抗日を引出しました。


  政友會は積極政策で大戰後の引締時機を誤つた上、

  ロンドン軍縮會議後 「 統帥權干犯 」 を政爭の具にして

  政黨政治の自滅を導きました。


  ( 彼らは敗戰後、いかにも軍部の犠牲者のやうな顏をして復歸しましたが、

  ( 敗戰にどれだけ責任を感じてゐたでせうか?

  ( 我國ではこの 「 敗戰責任論 」 が充分論じられてをりません )


  政爭にかまけて時の問題解決を怠つた政治家が、

  敗戰を招いた第一の戰犯です。


  平成の今また、政治家が問題解決にもたついてゐます。

  洞察力・統率力・決斷力のある指導者を見付けて推戴しない限り、

  日本國も滅びるでせう。


      伊原註:危機に際して指導者が出て來ないのは、戰後の惡平等風潮が原因の一つです。

              司馬遼太郎の 「 乃木將軍愚將論 」 に見られる如く、

              偉い人も凡人も 「 平等 」 とやつたから、使命觀を持つ人が出なくなりました。

              上に立つ人は嚴しい批判に曝されます。

              それでも指導者たらんとする人には名譽を與へねばなりません。

              それを、乃木大將の殉死を 「 舊臭い 」 と嗤つた大正のインテリ以來、

              尊敬して來ませんでした。

              だから指導者がどんどん小粒化して來たのです。

              江戸時代の指導者教育を捨てた明治以來の日本の缺陥です。


  庶民がしつかりしてゐるだけでは、一國は生延びられないのです。


      伊原註:ノモンハン戰は獨ソ戰よりしんどかつたといふジューコフ元帥曰く、

              日本軍は、下士官・兵は立派、將校は普通、將軍と參謀が駄目だと。

              指導者を敬はず、指導者教育をしなかつた明治以來の日本の缺陷です。

              敗戰後、この缺陷は 「 惡平等主義 」 によりうんと擴大してゐます。


              記憶で上記を書いたあと、ジューコフの回想録を參照しました。


              ゲ・カ・ジューコフ著/清川 勇吉・相場 正三久・大澤 正 共譯

              『 ジューコフ元帥回想録 革命・大戰・平和 』

                ( 朝日新聞社、昭和45.1.20, 132-133頁 )


              1940年5月初め、私は歸還命令を受け、モスクワに歸還した。

              數日後、スターリンに直接引見され、質問を受けた。

              「 君は日本軍をどう評價するかね 」


              ジューコフ答へて曰く、

              「 我々とハルハ河で戰つた日本兵はよく訓練されてゐる。特に接近戰鬪でさうです 」

              「 彼らは戰鬪に規律を持ち、眞劍で頑強、特に防禦戰に強い。

              「 若い指揮官は極めて良く訓練され、狂信的な頑強さで戰ひます。

              「 若い指揮官は決つたやうに捕虜にならず、 『 腹切り 』 を躊躇しません。

              「 高級將校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないやうです。

              「 日本軍の技術は遲れてゐるやうに思ひます。……

              「 總じて我々が日本軍の皇軍部隊と稱ばれる精鋭と戰はねばならなかつたことは

              「 強調せねばなりません 」


( 2011.4.4 執筆/4.12 補筆/5.2 追加補筆 )