甘露寺受長 『 天皇さま 』

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  甘露寺受長 『 天皇さま 』

             ( 日輪閣、昭和40.11.1 )  定價 3300圓



 著者は 「 かんろじ おさなが 」 と讀みます。

 明治13年 ( 1880年 ) 、元公卿 甘露寺伯爵家の長男として東京に生れる。

 學習院を經て、東京帝國大學法科卒業。

 10歳の時から大正天皇の御學友として宮中に出仕。

 大學在學中を除き、昭和34年 5月 80歳まで宮中に仕へる。


 大正天皇・昭和天皇の東宮侍從。

 昭和14年 ( 1939年 )  侍從長。

 昭和21年 ( 1946年 ) 掌典長。

 皇太子殿下 ( 今上天皇 ) の美智子樣との御成婚の儀を最後に引退。


 本書には元版あり。

  『 背廣の天皇 』 ( 東西文明社、昭和32.9.21 )  定價 280圓

 これには、寫真が 1葉しかありません。

 その増補新版である本書の冒頭には數々の御寫真があつて、頗る貴重であります。

 御寫真だけで、裕仁陛下の御成長ぶりがよく判ります。


 身近に仕へた侍從の記録として、陛下の公的面より私生活面の紹介が多く、

 昭和天皇の御人柄がよく判ります。

 そして、數尠い公的面の紹介が、また貴重なのです。

 今回は、あとあとのため、意識的に 「 引用 」 を多用します。

 素直にお讀み下さい。


 昭和天皇の幼名は迪宮 ( みちのみや ) です。裕仁親王殿下。

 因 ( ちなみ ) に、御兄弟は以下の通り。

  淳宮 ( あつのみや ) 雍仁 ( やすひと ) 親王=秩父宮

  光宮 ( てるのみや ) 宣仁 ( のぶひと ) 親王=高松宮

  澄宮 ( すみのみや ) 崇仁 ( たかひと ) 親王=三笠宮


 昭和天皇の第一印象 ( 13-14頁 ) :

  「 なんといふおかはいい、氣品のある御方であらう 」 と驚嘆し、暫く立盡してゐた。

 この第一印象は終生變らなかつた、と。


  「 犯し難い氣品と、それでゐて何とも言へず御可愛い、人なつこい御方 」 とも ( 15頁 )


  「 思遣りの深い、御優しい御方 」 ( 27頁 )


 昭和天皇はまた、 「 誠實な御方 」 だつたやうです。

 39頁に曰く、

  迪宮樣は、お手先は不器用な御方で、洋服のボタンをおかけになるのにもなかなか時間が

 おかかりになる。傍で見てゐる方が苛々してつい手が出さうになるが、ジッと我慢して、最

 後迄傍觀してゐるのであつた。

  從つて圖畫や手工が不得意であられた。

  人一倍といふ言葉があるけれども、迪宮様は人の三倍位、時間がかかられた。

  しかし、どんなに長くかかつても必ず最後迄やり遂げられた。

  お下手はお下手なりに、最大の努力を傾倒されるのであつた。


 水泳と馬術は達人。

 水泳については、 「 浮身が完全に出來る 」 ( 62頁 )

 馬術については、馬が不測の動きをしても動ぜず御せられる ( 260頁 ) 。


 東郷元帥が健啖家だつたとは、本書で初めて知りました ( 104-105頁 ) 。

  「 年に似合はぬ大食家 」 「 我々が迚も及ばぬほどの健啖ぶり 」

 静岡の宿屋で全員食中りで上げ下ししたのに、東郷さん一人、何事もなし。

 全員、青菜に塩の中で 「 あのお年寄りが鰻丼を二杯も平げられた 」

 鈴木貫太郎さんも侍從長時代、八十近い身で、辨當を二人前づつ食べて居られた、と。


   因に、私 ( 伊原 ) の尊敬する河合學派も、師の河合榮治郎を初め、健啖家が多いです。

   私がよく知るのは、鹽尻公明、音田正巳のお二人。

   よく食べよく活動してばたつと死ぬのです。


 英國で王者の風格を御見せになつたこと ( 137頁以下 ) 。

 列車が ヴィクトリア驛に着いたら、豫告なしに英國皇帝 ジョージ五世が出迎へて居られた。

 驛頭で馬車に乘る時、皇帝が殿下に

  「 さあ、どうぞ 」 とお勸めになる。殿下も

  「 どうぞ、お先へ 」 とお讓りになる。

 最後に皇帝が、殿下のお身体を抱くやうにして馬車の中へ。

 この禮節に富んで和やかな光景に、群衆はホウッと感銘の溜息を漏らしたと。

 豫測せぬ事態に極めて自然に且つ和やかに對應されたのです。


 その後の公式行事に即席スピーチを含め、見事に對應されたので、ロンドンでは 「 今來て居られる日

 本の皇太子は本物ではなく、替玉だ 」 との評判が立つたさうです。


 大正天皇の健康惡化により、皇太子裕仁親王殿下が攝政に任ぜられたのは、

 大正10.11.26 からです。


 これは1921年で、その 5日前から ワシントン で 軍縮會議が開かれてゐました。

 米國が日本を孤立させ、中國と挾み撃ちにして追込んで行く始まりです。

 そして翌年の關東大震災。

 昭和の御代は、初めから風雲急でした。


 陛下が國民に仕へてをられること ( 219頁 ) ──


 戰後の新憲法は主權在民、戰前の帝國憲法の時代は國民が天皇にお仕へしてゐたといふが、

 果たしてさうか? と設問した甘露寺侍從は、

 戰前も、陛下は國民に仕へてをられた、と書きます。

 

  「 國家を統治する機關としての天皇には、八千萬の國民がお仕へしてゐたのであつたが、天

  「 皇御一身としては、逆に國民のためにのみお使ひになつてをられたと私は斷言できる。率

  「 直に言へば、どちらがお仕へしてゐるか判らぬ……と極言できる 」 と。


  「 私は明治・大正・今上三陛下にお仕へしたが、三陛下とも等しくさうであられた。

  「 世界中に果してかういふ君主がをられるかどうか 」


 扨、問題の二二六事件です。

 この部分の紹介をしたいため、本書を取上げました。


 昭和天皇が最初に二二六事件の勃發を聞いたのが、甘露寺侍從からの知らせです。

 大事な箇所なので、二頁に亙る全文を引用します ( 268-269頁 ) 。


 その朝は、私が當直侍從として、最初の電話を聞いたことでもあるし、終戰前夜と共に、生

涯忘れることのできない日である。


 その朝五時四十分、宮内省の當直から慌ただしく電話がかかつて來た。

 酷く急き込んでいふ受話器の聲に、私は我が耳を疑つた。

  「 當直侍從の方ですか? ──只今侍從長官舎から電話がありました、

  「 軍隊が官舎を襲撃しまして、侍從長は拳銃でお撃たれになつたさうです 」

  「 えつ、侍從長が? そして、生命は? 」

  「 重態ださうです 」

 これは容易ならぬことだ、緊急奏上しなければならぬが、

 その前に皇宮警察か警視廳に問合せて確かめてみなければ──と考へたところに、

 また電話。

 受話器を取ると、

  「 内大臣官舎からも電話です。内大臣は軍人に撃たれて、即死されましたッ 」

 これはもう問合せどころではない。私は早速 御寝中の陛下の御寝室に伺つた。

 そして陛下を御起し申上げ、その事實を手短に御報告した。

  ( 以下 269頁 )

 そのとき、陛下は、

  「 とうとうやつたか── 」

 と仰つた。

 その深い御悲しみを籠められた沈痛な御聲は、今もまだ耳底にある。

 陛下は、ややあつて、

  「 全く私の不徳の致す所だ── 」

 と、ひとこと、御口の中で仰つた。

 そして暫く御言葉もなく、御立ちになつてゐらつしやつた。


 私は、全身が震へるやうな衝動を覺えた。

 陛下に──私の不徳──と言はしめたのは一體何者だ。これほどの不忠があらうか。

 怒りともつかず、悲しみともつかぬ激情が衝き上げて來て、目が眩みさうになつた。

                                 ( 引用、終り )


 よく御注意下さい。

 昭和天皇は、二二六事件勃發を聞いて發せられた最初の御言葉が、

  「 朕の不徳の致す所だ 」

 だつたのです。

 これは、叛徒と雖も臣民、といふ發想です。

 これが、國論分裂を纏める大乘的立場だつたのです。

  「 御口の中で仰つた 」 のは、それが昭和天皇の真情だつたことを示します。


 但し、續いて270頁に、

  「 日頃、絶對御怒りにならない陛下が、このときばかりは本當に御怒りになつたやう

  「 に拝察してゐる 」

 ともあります。


 私はこの御怒りを、當面は蹶起將校に對してではあつても、基本的には、

 昭和の初めから勝手な振舞をするやうになつた 「 獨斷專行する陸軍全體 」 に向けられたもの、

 と解釋します。


 271頁で、甘露寺侍從もかう書いてゐます。

  「 この事件は、氷山の一角に過ぎなかつた。

  「 軍部の獨斷・政治干與・下剋上の氣風は、手のつけられぬほどの病巣になつてゐた 」


 對米戰爭の前に、陛下は散々御惱みでした。

  「 御苦惱は、傍の見る目も御痛はしいほど 」 ( 271頁 )


 御政務室から、部屋中をコツコツと歩き回つてゐられる御足音が聞えて來る ( 272頁 ) 。

 何か獨り言を仰るのも聞えて來る。

 こういふ時は、酷い御心配がある時なのだ……

 何時迄も止まない御足音。

 魂の奥までズキンズキンと重く突き刺さるやうな御足音──

 思はず耳を覆ひたくなる、云々


 276頁で甘露寺侍從は、かう問題提起します。

  「 陛下は、終戰のことをいつごろから御考へになつただらうか 」

 その答──それは昭和十六年十二月八日からだ。


 そして次に、昭和二十年三月に和平工作のため來日した繆斌が、

 東久邇宮稔彦殿下を通じて天皇に意を通じた話を記します ( 278頁 ) 。


 私が知つてゐる陛下の御決意の 「 決定的な時點 」 は、昭和二十年六月中旬です。

 日本政府の終戰工作は、五月十四日の最高戰爭指導會議の對ソ交渉方針決定とされますが、

天皇の 「 決意 」 が決定的に固まつたのは六月中旬だと思ひます。

 次の事實があるからです。


 6.12 海軍大將長谷川清、本土決戰のための海軍基地査察結果を天皇に報告。

 6.14-15 天皇、心痛の餘り倒れ、政務を休む。


 本土防衛の準備が碌に出來てゐなかつた實態の報告を受け、

 陛下が心痛の餘り倒れられたのです。

  ( 天皇が政務を休まれるのは、餘程のことです )

 そして政務に戻られた16日、

 陛下は木戸内相・東郷外相を個別に呼び、終戰希望を傳達されました。


 だから、 「 六月二十二日、陛下は鈴木首相・東郷外相・阿南陸相・米内海相・梅津參謀總長

・豊田軍令部總長の六名をお召しになつて、

  「 戰爭集結のことを全然考へないで徒らに日を送るのも考へものである。

  「 政府も、統帥部も、このことについて考へてゐるか 」

と御下問されたのです ( 280頁 ) 。


 だからこのあと、

 ポツダム宣言 ( 7.26發表 ) 受入れの御判斷にも御迷ひがなかつたと拝察します。


 甘露寺侍從曰く ( 281頁 ) 、

 ポツダム宣言の受諾については議論が沸騰したが、陛下の御考へは最初から

 ──受諾しなければ戰爭を繼續せねばならぬ。すると國民の犠牲は益々増大する。

   だから、受諾のほかない──

 といふ御決心であられたやうにお察ししてゐる、と。


 そして廣島・長崎に原爆投下、ソ聯の參戰。

 甘露寺侍從曰く ( 281-282頁 ) 、

 ここに到つて、飽くまでも焦土抗戰を叫ぶ軍首腦部の自暴自棄的な足掻きも、

 陛下の──國民の爲なら、自分の身はどうなつてもよい。

 ──といふ大勇猛心の聖斷の前にひれ伏さねばならなかつた。


 甘露寺侍從は、最後の御前會議での陛下の御言葉を、

 情報局總裁下村海南 『 終戰秘史 』 から全文引用してゐます。

 私はその精髄の部分を三箇所、以下に引用してをきます。


 私は世界の現状と國民の事情とを充分檢討した結果、

 これ以上戰爭を續けることは無理だと考へる。


 自分はいかにならうとも、萬民の生命を助けたい。

 この戰爭を續けては、結局我國が全く焦土となり、萬民にこれ以上苦惱を嘗めさせることは、

 私としては實に忍び難い。祖宗の靈に御應へできない。

 和平の手段によるとしても、もとより先方の遣り方に全幅の信頼を置き難いのは當然であるが、

 日本が全く無くなるといふ結果に較べて少しでも種子が殘りさへすれば、

 更にまた復興といふ光明も考へられる。

 私は、明治大帝が涙を飲んで思ひ切られた三國干渉當時の御苦衷を忍び、

 この際耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び、

 一致協力將來の恢復に立直りたいと思ふ。


 この際、私として成すべきことがあれば何でも厭はない。

                                      ( 引用終り )



 この陛下が在はせられて日本は存續し、戰後の復興も遂げられたのです。


 但し、占領軍が日本弱體化の時限爆彈を仕掛け、

 日本國内にそれを受け止め助長する反日分子が居て、

 現在の日本がかなり弱つて來てゐることは御覧の通り。


 この日本をどうするかは、今生きてゐる私達の責任であり任務であります。

( 2010.9.16記 )