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李筱峰「流亡政權與台灣地位」
(「逃亡政權と台灣の地位」):
(自由廣場『自由時報』5.30,17面に掲載):
(作者 李筱峰=國立台北教育大學台灣文化研究所教授)
伊原註:
5月25日、大學教授の台灣本土派勢力を集めた「台灣教授協會」が
『中華民國流亡台灣六十年』といふ新刊書の發表會を台北で催しました。
その記者會見に招待された民主進歩黨主席蔡英文が挨拶の冒頭で
「中華民國は流亡政府 (亡命政權) である」
と言ひました。
更に續けて曰く、
「その流亡政府がこれまで數十年台灣を統治して來た。
「その間、權威主義的統治と中國性を押し付けて來たが、その後次第に變つて來て
「今や中國性と台灣性・台灣主體意識の發生が入り交じる微妙な段階に來てゐる。
「以前は中國性が主體、台灣性が客体だつたが、
「今や主客顚倒して、台灣主體意識が主流になつて來た。
「この主客顚倒の鍵を握る重大時期にあつて、
「更に族群關係のやうな深層の問題を處理せねばならない。
「外省族群の台灣本土化經驗や彼らの感情の identity を うまく扱はないと、
「次の段階で相互對抗・社會對立の局面を呼込んでしまふかも知れない」
云々。
この發言の冒頭の一句、「中華民國は流亡政府 (亡命政權) である」が、
中國國民黨の痛い所を衝いたので、青陣營が一大反撥し、大騒ぎになりました。
それに對する本土派からの擁護評論が、以下の文章です。
(伊原註、終り)
民進黨主席蔡英文が5月25日に發した一句
「中華民國は流亡政府である」
に、青陣營と統一派メディア が 泣き喚いてゐる。
蔡英文は言ひ間違ひでもしたのだらうか?
61年前の歴史情景を思ひ浮かべられたい。
1949.1.19, 正に南京の國民黨政權が共産革命に呑込まれかけてゐた時、
聯合軍總司令官 マッカーサー 曰く (1.19付 香港『大公報』東京電) 、
「台灣は現在なほ中國の正式の領土ではない。
「從つて南京陷落後も中共は台灣に入れない。
「米國は台灣人の獨立を支援し、國連に決定を委ねたい」
同時に米國は、國民黨にこう警告した (1.19付 ロイター社南京電) 。
「聯合軍總司令部は台灣に對し任務がある。
「故に南京は廣州に遷都してもよいが、台灣には遷都できない」
この年、中國國民黨の中華民國政府 (國府) は敗走を始めた。
先づ南の廣州に退き、次いで北の重慶に北走し、最後に12月に台灣に逃込んだ。
台灣は中華民國に屬さず、
中華民國憲法の前身『五五憲章』(1936.5.5) も台灣を中華民國の「固有領域」には入れてゐない。
終戰後の台灣は、國府軍が聯合國を代表して暫くの間、軍事管理しただけで、
中華民國の領土に入つた譯ではない。
この事實は、1945.10.25 中山堂で行はれた降伏式典の壇上に
中米英蘇 4ヶ國の國旗と 4ヶ國の領袖の肖像が掛けられてゐることからも判る。
台灣の國際的地位は、聯合國と日本との平和條約で領土の移轉が明記されて決るのである。
だから蔣介石は 1949年初めに陳誠に かう指示してゐる (1.12-13付 陳誠日記) 。
「台灣は對日平和條約が成立する迄は、我國が管理する地域に過ぎない」
あひにく、對日平和條約は 中華民國が大陸にある間に調印できなかつた!
中國國民黨政權は「中華民國」の名號を戴いた儘、國際的地位未定の台灣に逃込んだ。
米國はこの腐敗政權を見棄てる筈だつたが、
翌年 1950.6.25 朝鮮戰爭が始り、
台灣に逃込んだ中國國民黨政權を中共に對抗させる妙案を思ひついたのである。
中共の台灣侵入を防ぐため、トルーマン大統領は台灣地位未定論を唱へたのである。
「台灣の將來の地位は
「太平洋の安全が恢復し對日平和條約が締結される時、
「又は國連が決めるのを待つ」
對日平和條約は 1951年 サンフランシスコ で 調印された。
その翌年、台北平和條約 (日華平和條約) も 調印された。
後者は前者 (中華民國代表は參加せず) の不足を補完する條約である。
だが兩條約とも日本は台灣・澎湖諸島を放棄しただけで、その歸屬については言及してゐない。
1954.12.2 に米國が共同防衛條約を調印した時、
米國大統領 アイゼンハワー と 國務長官 ダレス は 重ねて かう言明した。
「台灣・澎湖諸島の法的地位は絶對中國の領土ではない」
「日本に對する主要戰勝國として
「米國は日本が以前占領してゐた島嶼 (台灣・澎湖諸島) に對する發言權を保有する」
台灣が中國に属さぬことが確定した後、1949年末に中華民國政府は台灣に敗退した。
これは「流亡」であつて「遷都」ではない。
伊原註:
當時、中國國民黨政權は台北を「臨時首都」と稱してゐた。
劉紹唐主編『民國大事日誌 (第二册)』 (台北、傳記文學出版社、1979.3.1再版) にかうある。
民國卅八年十二月八日 行政院緊急會議、決議遷都台北
(伊原註、終り)
この時の流亡は、蔣介石が直接明言してゐる (1950.3.13「復職的使命與目的」講演)。
「我が中華民國は昨年末に至り大陸失陥によつて滅亡した。
「我々は今や亡國の民である」
伊原註:
『先總統 蔣公全集 第二册』 (中國文化大學出版部、民國73.4.) 1956頁から、
原文を引用してをきます。
民國三十九年三月十三日 在陽明山莊 總理紀念周講
「復職的使命與目的──説明革命失敗的原因與今後成功的要旨」
……我們的中華民國到去年年終、就隨大陸淪陷、而幾乎已等於滅亡了!
我們今天都已成了亡國之民、而還不自覺、豈不可痛?
我們一般同志、如果今日還有氣節和血心、那就應該以「恢復中華民國」、
來做我們今後共同奮鬪的目標。……
(伊原註、終り)
亡國し、滅亡した國土を離れたのが流亡でないなら、何だといふのか?
國民黨政權は 1949年末台灣に流亡した。
これは常識である。
世界のあらゆる英語の著作は exile か escape を使つてゐる。
これは 流亡・逃亡の意味じやないのか?
權威ある大英百科全書 (Britannica Encyclopedia) が蔣介石をどう紹介してゐるか。
原文は、以下の通り。
soldier and statesman,
head of the National government in China from 1928 to 1949,
and subsequently head of the Chinese Nationalist government in exile on Taiwan.
最後の一句が事態を明確に示してゐる。
蔣介石は「台灣に流亡した中華民國の領袖だ」と。
實は、台灣に流亡したかどうかは問題ではない。
いかに根を本土 (當地=台灣) に下ろしたかが大事なのである。
歴史の常識を何處までも否定すれば、無知なばかりか、無恥である!
(2010.7.10 蔣介石の原文を追記)