『 從左到右六十年:曽永賢先生訪談録 』

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讀書紹介:



『 從左到右六十年:曽永賢先生訪談録 』

                    ( 台灣・國史館、2009.12. )   精裝  300元 ( 新台幣 )

                            口述者:曽永賢

                            訪問者:張炎憲・許瑞浩

                            記録整理:許瑞浩・王峙萍


  曽永賢さん ( 1924年12月生れ。1930年 3月生れの私より 5歳餘り上です。親しみ深いお兄さんといふ雰圍氣を

お持ちなので、さん付けで稱ばせて戴く ) とは、1973年春に東京で開いた第二回中國大陸問題研究會議で初めてお目にかかり、その年の夏に調査局を訪ねて中共資料の解説を親しく伺つて以來のお付合ひである。

  それ以後毎年、台北と東京で交互に開かれた 「 中國大陸問題研究會議 」 で必ずお目にかかつた。


  司法行政部調査局は中共も持つてゐない貴重な原資料を澤山持つてゐたから、江青の傳記資料を調べるため、1974年、政治大學國際問題研究所に一年留學して足繁く調査局に通つた時には、曽永賢さんを頼つて行つたのだつた。

  この資料室 ( 薈廬資料室といふ ) で、見てゐると腕が痒くなるといふ延安時代の中共の新聞 『 解放日報 』 から、王實味の 「 野百合花 」 を書き寫したことを懷かしく思ひ出す。

  國民黨は非公開の中共文件集に収録した 「 野百合花 」 からさへ、不都合な部分を省略してゐたから、原始文件に直接當る必要があつたのである。

  ( 中國人は、都合が惡いと好き勝手に改竄するし、平然と盗用することを知つたのも、台灣留學に於てであつた )


  曽永賢さんは、この調査局の薈廬資料室に37年も務めた。

  その間、所藏する中共文件の殆ど全部に目を通した ( 158頁 ) といふのだから凄い。

  文字通り、台灣の中共研究の第一人者である。

  台灣で多くの弟子を育てたほか、日米など外國の學者も指導した。

  ( 衞藤審吉・石川忠雄・徳田教之・若林正丈・Robert A.Scalapino 其他大勢 ) 。


  「 自序 」 に曰く、回想録を書くのは氣がひける。

    第一に、自己弁護や自慢が多い。

    第二に、共産黨の地下活動時期は記録なく、記憶も薄れてゐる。

    第三に、私は平凡な公務員に過ぎないと。

  だが今回はインタヴュー方式でやりやすい。そして訪問者の一人、許瑞浩先生が資料も集めてくれたので記録を正確に出來た。

  かくて本書が出來た。口述内容は、客觀・公正・正確であるよう心掛けたと。


  本書は三部分から成る。

    第一部分は日本時代と台灣共産黨に參加した時期。

    第二部分は調査局で中共研究に從事した時期。

    第三部分は調査局引退後、總統府で參議・國策顧問・資政を務めた時期。


  本書は奥付によれば昨年12月出版。

  私への獻辭に 2010.2.27 と自署して居られる。

  私は航空便で 3.8 に受取つた。


  ぼつぼつ讀み始め、4.6 午前 6時に徹夜で讀了。

  その日のうちに 『 關西師友 』 誌 5月號の 「 世界の話題 」 ( 245 ) に 「 中共の統戰と鳩山友愛 」 と題する中共の統一戰線工作に就いての紹介文を書いた。

  期せずしてこの日から、 『 産經新聞 』 の山本勲台北支局長が インタヴュー を含めて本書の紹介記事を三日連續で掲載した ( 4.6-8 「 國共の狹間に生きて  曽永賢回顧録 」 上中下 ) 。


  本書から教はつたことは多いが、以下、その若干を紹介して、讀者の參考に供する。


  先づ、曽永賢さんが共産黨員になるまで。

  1924.12. 苗栗縣の客家 ( ハッカ ) の農家生れ。

  「 富士公學校 」 を首席、通知簿は全甲といふ 「 前代未聞 」 の優秀な成績で卒業。

  新竹州知事の表彰を受け、賞状と賞品 『 國漢文辭典 』 を貰つた。

  1939年、 「 苗栗第一公學校 」 の高等科 ( 2年 ) を出たあと、15歳で2番目の兄、曽永安を頼つて東京に行き、 「 日本の台灣統治に強く反對し、頗る強烈な民族意識を持つ 」 台灣人の一群に投じた ( 18頁 ) 。

  曽永賢さんはこの時初めて三民主義に接した。

  三民主義を 「 英國のフェビアニズムに似た立場 」 と言ふ ( 20頁 ) のは、河合榮治郎からフェビアニズムを學んだ私には興味深い指摘である。


  在日台灣人の民族主義が、

    「 重慶の蔣介石の中國に與するか、南京の汪精衛の中國に與するか 」

  で二つに分れた由。

  そして右派は直ちに中國に渡つた。

  左派 ( 中共派 ) は1949年の中華人民共和國建國を待つて1950年に續々中國へ渡つた。

  この話から、中國と中國人の纏まり難 ( にく ) さが窺へる。


  曽永賢さんは、東京の補習學校で英語と數學を學んだあと、

  台灣人が經營してゐた千葉縣の明倫中學の 4年に編入し、 5年で卒業して、

  1943年、早稻田大學專門部政治經濟科に入學する。

  當時、台灣人や朝鮮人が政治系に入學すると特高警察の監視對象になつた。

  曽永賢さんは家族が勸めた醫專を選ばず、敢へて政治經濟科に入つた。

  そして在學中、大學圖書館で午後 4時〜10時の間アルバイトし、その間にマルクスやレーニンの著作を讀んだ。

  「 私はマルクスは餘り氣に入らず、レーニンを貪り讀んだ 」 ( 26 頁 )


    伊原註: 「 マルクスよりレーニンを好んで讀んだ 」 といふのは、的確である。

          マルクス主義は革命思想といふより、書齋の學者の理論である。

          それに對してレーニン主義は、ナロードニキ の ニヒリズム ( 現状の全面否定 ) を受繼ぎ、

          「 共産主義 」 に仕立てた。

          レーニン主義が ナロードニキ から受繼いだものは、

              前衛黨組織論 ( 少數の インテリゲンツィヤ による指導。→特權階級による愚民指導に墮す )

              農民利用の革命 ( 勞農同盟論 )

              一擧に社會主義革命へ ( 資本主義段階を省略。→經濟合理性が欠落する )

              戰鬪的無神論

          と四つもあるが、マルクス主義から受繼いだのは

              階級鬪爭論と國際主義 ( 「 萬國の勞働者、團結せよ! 」 )

          のみである。

          要するに、マルクス主義は机上の革命論、レーニン主義 ( 共産主義 ) は現場の革命論だから、

          本氣で運動を考へてゐた曽永賢さんがマルクス主義に魅力を感ぜず、專らレーニン主義に取

          組んだのは 「 正解 」 だつた。


  この基礎的讀書が、後に調査局で大いに役立つたさうである。

  そして、台灣の中共研究者はマルクスやレーニンの著書は拾ひ讀みするだけで、基礎が出來てゐないと嘆いてゐる。

  早稻田大學の専門部で 1年生を終へたあと、

  1944.4. 編入試驗を受けて經濟學部政治學科 2年生になつたが、

  夏には學徒勤勞動員で横濱の三菱造船所に派遣され、

  大學生が 3人だけだつたので、勤勞中學生の勞務管理をした。

  1945年、台灣に徴兵が實施されたため、3.に 徴兵を受け、

  群馬縣にあつた前橋陸軍豫備士官學校に入學。

  8. 敗戰で大學に戻り、1946.3. 卒業。


  曽永賢さんが左傾したのは、先に内地に勉學に來てゐた 2番目の兄曽永安の影響があるが、それだけではない。

  兄のドイツ語教師堀井先生が 「 思想左傾・反戰人士 」 なので、大東亞戰爭勃發の翌年の1942年に早大を辭めて千葉縣臼井町 ( 曽永賢さんが通學してゐた明倫中學の近く ) に土地を買ひ、オートミールの工場を經營した。

  兄の永安が工場の事務を手傳つたほか、左傾人士が 5家族、疎開して工場内に移り住んだ。

  彼らが時局や左派理論について談論風發するのを横で聽いてゐるうちに、曽永賢さんは 「 思想・行動共に大影響を受けた 」 ( 36頁 ) 。

  曽永賢さんが戰後、日共の共産黨組織 「 共産主義青年團 」 に入るのも、この人脈による。


  ここで、曽永賢さんが青年らしい 「 矛盾 」 を感じてゐる ( 37頁 ) 。

  「 堀井先生は反戰のため早稻田大學の教職を離れたのに、離職後に經營した工場が生産する オートミール を海軍に収めたため、窮屈な配給生活の中で、我々は、一般人が口に出來ぬものが食べられた。

  「 かくて物質生活では ( 反戰思想を持つ我々が、戰爭に協力する ) 一般人より遙かに惠まれてゐた 」

ことである。

  因に、曽永賢さんが毎朝、今なお朝食に オートミール を食べるのは、この時以來の習慣だといふ。


  曽永賢さんは、間もなく台灣に歸る。


  台灣では、 1947.2.の 二二八事件のあと中共に入黨し、謝雪紅とも接觸してゐる。

  そして 「 中共台灣省工作委員會 」 の一員として地下活動中、 1952.4. 國民黨政權の調査局に捕まつた。

  軍 ( 警備總司令部。 「 警備總部ヂンベイゾンブー 」 ) に捕まつてゐたら確實に殺されてゐた。

  調査局では逮捕した共産黨員を 「 中共工作 」 に使ふため、扱ひが親切だつたのである。

  留置室には 「 意外なことに 」 洗面用具から下着やタオルなどが置いてあつた。

  留置室には晝間は鍵を掛けず、夜間だけ施錠した。

  從つて晝間は自由に出入り出來、散歩や洗濯ができた。

  食事時には留置室の主任や監視者と同じテーブルで食事したのである ( 113頁 ) 。


  曽永賢さんは 1年 1ヶ月の取調べを受けた後、1953.6., 調査局第二處科員となつた。


  調査局は、陳立夫が創始した情報治安機關・中統局 ( 中國國民黨中央執行委員會調査統計局 ) の後身である。因に、もう一つの情報治安機關が戴笠の軍統局 ( 國民政府軍事委員會調査統計局 ) である。

  調査局は傳統的に 「 手先を浸透させる 」 「 以夷制夷 」 の二大策略を使ふ。

  だから、大陸を撤収する時、多くの手先を中共の各單位に埋めて來て效果を擧げた。

  曽永賢さんが調査局員になつたのは、あとの 「 共産黨を使つて共産黨を叩く 」 方策に取込まれたのである。


  さて、國民黨が中共に浸透すれば、相手の中共も當然、國民黨に浸透してゐる。

  表で武力による重壓をかけておいて、裏で浸透する。

  秘密派遣あり、大陸花嫁あり、統治高層への浸透あり。

  139頁にこんな話が書いてある ( 273-274頁には、許家屯の話として再述されてゐる ) 。

  陳立夫が曾てケ小平に手紙を書いて曰く、

    君らは絶對台灣に對して武力放棄を言つてはいかんよ、

    放棄を言つた途端、台灣は直ちに獨立するからなと。

  ケ小平は陳立夫の提言を高く評價し、陳の子息の事業に便宜を與へるなどの形で報ひたといふ。


  また曾て國防部總政治作戰部主任を務めた許歴農は、引退後頻繁に中國に赴き、文章でも抗日戰爭の勝利は 「 國共合作 」 のお蔭と書いたりしてゐる、云々。


  中共の最大の潜入者は、1964年から1978年まで14年間、調査局長だつた沈之岳だらう ( 212-214頁 ) 。

  沈之岳は、調査局長を辭めたあとも、1979年から94年まで蒋經國總統の國策顧問を務め、台灣の中共政策に大被害を與へた。

  引退後、中國に歸國し、歡待されてゐる。


  曽永賢さんは、調査局に37年務めるのだが、その間、薈廬資料室の資料の略全部に目を通した。

  この資料を讀んでゐるうちに 「 共産黨の真面目 」 を悟り、 「 轉向者 」 「 帝國主義の手先 」 との自責の念が雲散霧消したといふ ( 178-179頁 ) 。

  ここの資料は、共産黨から奪取したもの、

  ( これが最多。ここにしかない資料も多い。中共からも 「 讓つて欲しい 」 との打診があつた由 )

  ソヴェト區や延安に人を派遣して買つたもの、

  黨内の同志から寄贈されたもの、から成る。

  戰後、買ひ集めたものも多い。


  ここでは資料の痛みを避けるためコピーさせないので、書き寫すほかない。

  曽永賢さんは、この資料を利用して、 『 毛澤東選集第四巻 』 の改竄を詳しく指摘した ( 本書に収録 ) 。

  毛澤東選集は、毛澤東が 「 全てを見通してゐた 」 ことを立證するため、書換へてあるのだ。


  曽永賢さんは、調査局に務めてゐた時、毎月少くとも一本 ( 1萬字前後 ) は中共研究の論文を書いてゐた。

  だが、國際關係研究センターの研究員は年2本書けばよかつた。

  そこで政治大學の校長は 「 2本で百餘萬元の給料、これは世界一高い原稿料だ! 」 と嘆いたさうである ( 162頁 ) 。

  曽永賢さんは、激務のため過勞となつて身體を壞し、禁煙した ( 165頁 ) 。


  さて、以上が曽永賢さんの人生の基礎事實である。


  私は毎年、台北と東京で交互に開かれる 「 中國大陸問題研究會議 」 でお目にかかり續けたのだが、本書を讀んで、いろんな發見があつた。

  以下、若干の注目點を指摘しておきたい。


  第一、台灣の中共研究第一人者が會議で 「 通譯 」 を始めた事情。

  1971年12月の第一回會議の時、外交部の亞太司から 4人が通譯として參加した。

  彼らの 「 日本語に問題は無かつた 」 が、マルクス・レーニン主義や共産黨の專門的術語を知らなかつた。

  もう一つ、台灣側研究者の言葉が聞取れなかつた。

  特に國際關係研究所副主任郭華倫の客家訛りの北京語と研究員李天民の四川訛りの北京語が聞取れなかつた。そこで台灣客家の曽永賢さんが通譯に當ることになつたのだと ( 251頁 ) 。

  國際會議に出てみるとよく判るのだが、通譯とは激務であり、高度な専門職である。

  そして研究者の言葉が明晰とは限らない。

  論理・論點の不明晰な研究者は珍しくない。

  これを的確に聞取り、的確に別の言葉に置換へる作業は、專門の知識と高度の集中力を要する。

  これを易々とこなし、會議を支へ續けた曽永賢さんに、衷心からの敬意を捧げる者である。


  なほ、郭華倫先生については、1984.8.4, 75歳で亡くなられたあと、私が追悼文を書いてゐる。

  ( 「 郭華倫先生を悼む 」 『 問題と研究 』 第14巻第1號/1984.10月號, 90-94頁 )


  第二、實事求是を貫いた曽永賢さんと、中華民國の不實・中華人民共和國の不實。

  1 ) 中華民國地圖を戰前の舊い儘据置いた事情。

  私が台灣へ行つて驚いたことの一つが、台灣の書店で賣つてゐる 「 中華民國全圖 」 が中華人民共和國建國以前の 「 35省行政區劃 」 の儘であることだつた。

  外蒙も中華民國の版圖に入つてゐる。

  曽永賢さんは本書で言ふ、

  「 ある時、内政部が中國の地圖に關して會議を開いた。

  「 私は調査局を代表して出席した。

  「 その時、私は中國の現在の實際状況に合せて地圖を書き換へるべしと發言したが、反對が多かつた。

  「 實際の地圖を見せれば、中華民國を否定して中華人民共和國を肯定することになるといふのだ。

  「 中華人民共和國の地圖は教師には見せるが、學生生徒には見せてはならぬと決つた 」

  かくて台灣の學生は、國外に出て初めて自分が 「 騙されてゐた 」 と悟る事態になつたと ( 193頁 ) 。


  2 ) 中共文件を禁書にしてゐたこと。

  台灣では蒋家獨裁時代、共産文件は禁書だつた。

  持つてゐると、直ちに逮捕投獄拷問政治犯、場合によつては死刑になつた。

  當時、台灣では半分冗談で ( といふことは半分真面目で ) かう言はれてゐた。

  「 憎い奴をやつつけるのは簡單、外國に出た時、 『 毛澤東選集 』 を航空郵便で送りつければよい。

  「 檢閲をしてゐる蒋政權は直ちに宛名の人物をひつ捉へて拷問の末、政治犯として閉込める 」

  曽永賢さんは、この禁書政策を 「 中共研究が重視されぬ 」 理由に擧げる ( 183頁 ) 。


  禁書政策について、私には二つの思ひ出がある。


  第一の思ひ出:私は中共研究のため訪台してゐたから、台灣では常に共産文件を讀んでゐた。

  外國人は共産文件を持つてゐても罰せられなかつたから平氣だつたが、台灣人が餘り怖がるものだから、何となく重壓は感じてゐた。

  だから調査のため香港へ飛ぶと、ほつとした。

  「 香港では共産文件所持は處罰對象にならない 」

  その代り、 「 ここではぼられるぞぉー! 」 と緊張した。

  香港ではホテルまで 「 日本人向け價格 」 があつて、一番高く設定されてゐるのである。


  第二の思ひ出: 「 大陸問題研究會議 」 でこう提言したことがある。

  張京育さんが國際關係研究センターの主任だつた時である。

  「 台灣では共産文獻を禁書にしてゐるが、これは解除した方がよい。

  「 情報統制では日本に苦い經驗がある。大東亞戰爭中の大本營發表である。

  「 戰況を僞ると、敵は實情を知つてゐるが、味方は知らないから、一方的に味方が不利となる。

  「 共産文獻は、日本では高校生でも讀む。

  「 台灣では、中共研究をする學生が、大學院に來て初めて讀む。

  「 中共では子供の時から讀まされてゐる。

  「 これでは出遲れも甚だしい。一刻も早く解禁すべきである 」

  張京育主任の回答:

  「 台灣は中國に比べて狹く小さいのです。

  「 自由にしたら、忽ち中共に席捲されてしまひます。

  「 だから情報統制をせざるを得ないのです 」


  台灣も幸ひ、今や情報統制はなくなつた。

  露店で 『 毛澤東選集 』 四册を賣つてゐるのを見て、今昔の感を久しうした覺えがある。

  しかしその反面、中共研究が衰微し、中共を知らぬ人だらけになつてゐるのは嘆かはしい限りである。


  3 ) 「 調査研究 」 「 實事求是 」 の立場から、中共の 「 調査研究 」 「 實事求是 」 を贋物と批判。

  中共が改革開放を實施して以來、中共人員の訪台は珍しくなくなつた。

  それらの中共人員を相手に曽永賢さんは、かう批判する ( 207頁 ) 。

  「 君らの台灣に關する調査研究は教條主義と主觀主義だ 」

  君らは台灣人の大多數が統一を望んでゐるといふが、君らの情報源が君らの望む答に沿つて 「 報告 」 してゐるからであつて、台灣の 「 實際状況 」 を正しく傳へてゐないからだと。

  この批判は、江澤民時代については全くこの通りである。

    cf. 拙稿 「 江澤民の談話記録 ( 邦譯と解説 ) 」 『 帝塚山論集 』 ( 第91號/平成12.3.30,14-91頁 )

  江澤民は、台灣からの訪問者沈君山の話に 「 判つた、判つた 」 と應じてゐるが、ちつとも判つてゐない。

  自分の思ひ込みを再確認してゐるだけである。

  唯我獨尊の典型は、香港の主權返還交渉時のケ小平だ。

  彼は、中英交渉に香港代表を參加させて 「 三者協議 」 にして欲しいと求めてゐた香港の立法評議會の議員二人を叱りとばして曰く、

  「 香港の代表など要らん。我々の決めることが香港住民にとつて最善なんだ。

  「 香港住民は、我々の決めたことに黙つて從つてゐればそれでいい 」

  これぞ中華世界の專制支配思想であり、中華思想の獨斷且つ獨善である。

  中共は、弱い野黨時代には 「 調査研究 」 と 「 實事求是 」 を本氣で追求せざるを得なかつたが、權力奪取後は 「 權力は腐敗する。絶對的權力は絶對的に腐敗する 」 過程を逃れられないでゐる。


  第三、日本語世代の斷絶。

  台灣にとつて、生存の基本を握る國は日米兩國である。

  日本から機械 ( 技術 ) と中間原材料を買つて加工し、米國に輸出して儲けるのが台灣經濟の基本構造であつた。

  その後、中國が大きな存在になつたが、中國は併呑を迫る敵性國だから、台灣としての存續の基盤が日米に大きく依存してゐる實情は、基本的には變つてゐない。

  ところが、その大事な對日工作を支へる人材が、日本時代に育つた世代が老ゆるにつれて途絶え、日本語を使ふ人材に 「 斷層 」 が生じた ( 234頁 ) 。

  これは、1973年以來、毎年のやうに台灣を訪問してゐる私にもはつきり判つた。


  曽永賢さんは嘆く。陳水扁總統時代に、多くの立法委員が對日工作に參加したがつた。

  それは公費で日本に行き、飲み食ひ觀光できるからだ。

  彼らのいふ 「 國會外交 」 なるものは、何人かの日本の國會議員と顔を合せて挨拶するだけ。

  當然、日本側は名だたる人は出て來ない。大體、台灣の立法委員でまともに本を讀め、時事問題を語れる者はさう多くない。

  日本の國會議員と對等に應酬できる者は寥々たるものだと ( 237-238頁 ) 。


  1993-1996年に駐日代表を務めた林金莖さんは、日本語がずば抜けて出來たため、部下を伴はず一人で出掛け、一人で交渉した。

  誰も連れて行かないから、工作報告は林金莖さん本人がするしかない。

  しかし本人は對日交渉を一人でやつてゐるから、忙しくて報告を書く暇がない。

  だから外交部長への報告が滞り、錢復外交部長は頗る立腹したと ( 244頁 ) 。


  2000-2004年に陳水扁民進黨政權の駐日代表を務めた羅福全さんは、曽永賢さんから高い評價を得てゐる。

  最近は駐日代表處の工作は改善した。羅福全ら日本通が揃つてゐて國會工作もよくやつてをり、 「 台灣觀光客ビザ免除特別法 」 の通過 ( 2005.8. ) に見るやうに業績を擧げてゐる、と ( 245頁 ) 。

  このあとの許世楷さんも業績を擧げたが、曽永賢さんは目が惡くなつて引退したあとなので觸れてゐない。


  曽永賢さんは、憂慮して曰く、我國では外國で台灣のため活躍する學者が尠い。

  日本でも米國でも大勢ゐるのに、と。

  台灣籍で日本で活躍中なのは黄文雄只一人。

      伊原註:黄文雄さんはご存じの通り、毎月一册と思しきほどの猛スピードで著書を出してゐます。

              どの本も内容豐富でしつかりしたもの。評論家の書いたものでなく、學者の書いたもの

              で、根據が堅實。素晴しい人です。

  中國は留學後、日本や米國に留まり、中國の代辯をする學者が少なからずゐて、中國問題・中米問題・中日問題の解釋權を掌握してゐる。

  これは台灣にとつて極端に不利な状況だと ( 245頁 ) 。


  曽永賢さんは、1990年代初頭に政府から頼まれて駐日代表處駐在員の詳しい調査をした結果、

  「 不適任者多し 」 と、次のやうに缺陥を列擧してゐる。

  「 日本語が判らず、學ばうともせず閉籠る者あり。

  「 出歩かず、日本の關聯單位と接觸せぬ者あり。

  「 新聞雜誌の記事を翻譯して情報と稱してかき集め、業績にしてゐる者あり。

  「 やつてゐない宴會費など架空の經費を報告する者あり……等々 」


  曽永賢さんは錢復外交部長に、日本語人材養成法を三つ提案した ( 235頁 ) 。

  ( 1 ) 日本に倣ひ、講師以上の日本語教員を大使館・領事館で特別研究員として招聘し、

      學術活動と同時に外交を手傳つて貰う。これは即効性がある。

  ( 2 ) 毎年、外交官特別試驗合格者から日本に語學留學生を派遣し 2年間學ばせる。

  ( 3 ) 日本語を解し日本に興味を持つ科長・專門委員級の公務員を何名か選び、毎週一定の時間、

      日本語と日本事情 ( 政治・經濟・社會の現状 ) を紹介し、一年以上學ばせる。

      學習期間は最低 1年、できれば 2年。

  錢復外交部長は喜んで直ちに承諾し、提案通り實行すると約束した。

  しかし、一ヶ月過ぎても何の音沙汰もない。

  そこで訪ねて行つたら錢復曰く、曽永賢さんの提案は理想的なんだが實行が難しいのだと。

  特別研究員制度は經費がないし、學校も日本語教員を出したがらない。

  また日本と日本語を學びたい公務員も居ない。

  何しろ仕事が忙しくて學習時間がひねり出せず、また司長も處長も部下の科長を手放したがらない。

  曽永賢さんは、一週間から僅か半日をひねり出せぬ公務員がゐるとは信じられないと反論したのだが……。

  提案中、唯一實施できたのが、日本に行つて語學研修する案。

  それも第一期・第二期に二人送り、第三期に一人送つたら後が續かず。

  外交官特別試驗で日本語を選ぶ者が居なかつたからだと。

  かくて日本での語學研修も途絶えた。


  ここから判ることは、日台關係の將來の危ふさである。


  曽永賢さんは、日本の公安から知らされたこととして、

  「 駐日代表處の十幾人が常に中國大使館の工作人員と往來 」 してゐることを擧げる ( 234頁/259頁 ) 。

  台灣は、中共に弱いのだ。

  米國が最新兵器を台灣に賣らないのは、その秘密が中共に筒抜けになることを恐れてゐるからだと言はれるのも、この邊と關係があらう。

  何しろ軍の退役將官が 「 黄埔軍校同窓會 」 と稱して大擧して中國に行くのだから。

  台灣が フランス から買つた ラファイエット艦の設計圖が中共に流れたことは、周知の事實である。


  曽永賢さん曰く、我國の外交人員は、以下の三つを滿たす必要がある。

    第一、自國の状況を把握し、適時に相手側に求める資料を提供すること。

    第二、中國の状況を理解し、敏速に中國關聯の資料を熟知すること。

    第三、駐在國の状況を理解し、相手側と意見交換できるよう備へて置くこと。

  そして、任地の言葉が出來て當然、とつけ加へる。

  更に曰く、この三條件を具へてゐたら、自分から動いて台灣と中國の關係を理解させられる筈だし、相手側から會見を求めて來る筈だと。

  かうでないと台灣の對外關係は發展しない、とも。

  だが曽永賢さんは嘆く ( 261頁 ) 。

  「 一體、どれほどの外交人員が積極的に資料を見て研究を進めてゐるだらうか?

  「 大半は單なる事務屋であり、内交に專念し、飲み食ひにかまけてゐるだけではないか 」


  曽永賢さんは、佐藤優のやうな積極的人物を期待してゐるのだらうが、

  積極的人物は往々煙たがられて疎外されるのが世の習ひらしい。


  第四、中共の浸透。

  曽永賢さんが台灣の前途について、一番心配してゐるのが中共の浸透だ。

      ( 138-139頁/202-204頁/211頁以下など )

  曾て中共が香港の主權返還交渉を英國と始めた時、交渉を始める前に 3萬人から 6萬人の特務を香港に派遣したさうである。

  ( 當時の中國國民黨の機關紙 『 中央日報 』 の報道。私の 『 台灣の政治改革年表・覺書 』 のどこかに収録濟 )

  これら特務の任務は、一區劃づつ責任者を決め、騷ぎを起こしさうな人物を洗ひ出し、監視することだ。

  中共は、自分がやることを相手もやると信じて疑はないので、中英交渉がこじれたら、 「 飛ぶ鳥跡を濁す 」 を英國がやると信じて、暴動を事前に取締まる配備をしたのである。

  1981年現在で人口 500萬の香港に 3萬人ないし 6萬人 ( これは國民黨の推定 ) の特務を配備したのだから、人口2300萬人の台灣には當然、もつと多くの特務を潜入させてゐるに違ひない。

  但し、任務は異る。騒動を事前に静めるためではなく、騒動を起こす人材である。

  騒動を起こして 「 祖國の人民解放軍に救援を求めさせる 」 ための人材である。

  但し、騒動を起こすのにさう多くの人數は要らない。

  人數が要るのは、世論工作のための人材である。

  そして幸ひ、台灣には 「 外省人 」 といふ統一工作要員が埋め込んである ( 埋めたのは蔣介石 ) 。

  それに メディア をほぼ獨占してゐる ( 212頁 ) 。

  中でも台灣の テレビ は 「 中共の代辯をするだけでなく、中共よりずつと中共的なのだ! 」

  「 台灣内に潜伏する内應力は、防がうとしても防ぎ切れない 」

  「 前から來る敵は防げるが、後から來る敵・隠れてゐる敵は防げない 」 ( 216頁 )


  けれども、こう警告すればするほど曽永賢さんは煙たがられ、疎外される ( 217頁 ) 。

  曾て郭華倫さんが引退後入院して健康診断してゐた時、曽永賢さんは見舞に行つて半日話し込んだ。

  その時、憂慮の餘り、

  「 台灣は何れ一夜にして五星紅旗が翻ることにならう 」

  と言つたら、元中共黨員で中共の統戰戰術を熟知する郭華倫さんが、暫く沈黙を續けた後、

  「 そこ迄は行かんだらう 」

  と答へたさうである ( 217頁 ) 。


  私は、曽永賢さんの憂慮は充分根據ありと信ずる者だが、普通の人には私も曽永賢さん同樣、浮き上がつて見えるだらう。

  だが、これは杞憂ではない!

  世人の方が、野蠻且つ狂暴な中共の危險について、無防備且つ無思慮過ぎるのだ。


  第五、重視されぬ中共研究。

  そして、曽永賢さんが一番嘆くのが、曽永賢さんが一生かけて、家庭生活を犧牲にしてまで没入して來た中共研究が重視されぬ台灣の現状である ( 183頁以下 ) 。

    伊原註:曽永賢さんが家庭生活を犧牲にした一例。奥樣と 「 定年退職後に世界一周旅行 」 を約束して

            ゐたのに、定年後も働き續けたため、遂にその機會を逸した由。

  曽永賢さん曰く、

  「 今や我國に私のやうな中共研究者は寥々たるものとなつた。

  「 然も彼らは引退すると中共研究から離れてしまふ 」 ( 180頁 ) 。


  曽永賢さんは、中共の 「 破壞性 」 「 残虐性 」 を強調する ( 181頁 ) 。

  「 中共を研究して半世紀を超えた私の中共認識は、一般人より遙かに深刻且つ正確である 」 ( 182頁 )

  所が一般人の中共觀は半知半解、學問的にきつちり學んだ人は尠く、思想教育で齧つた程度の素人が多い。

  だから私の中共研究や中共教學は少なからぬ困難に出くはした、と ( 183頁 ) 。


  曽永賢さんの嘆きは續く。

  學生はレーニンも毛澤東もケ小平も碌に讀まずに論文を書く。

  みつちり讀み込めば、共産黨の本音が手にとるやうに判るのに、それをせず、ひたすら安直を求めて撮み食ひしかしない ( 209頁 ) 。

  情報員は新聞雜誌記事を翻譯して能事終れりとする。

  學生は、膨大な文獻をみつちり讀込まねばならぬ上、學習後惠まれぬ中共研究には寄りつかず、もつと樂に稼げる方面に行く。

  教師も中共研究分野に來ない。

  そして、ソ聯崩壞後、とりわけこの傾向が深まつた。

  世人は、中共の兇暴性を知らぬばかりか、知らうともしない。

  中共の恐ろしさ、特に秘密浸透の恐ろしさを警告しても、注目されず、煙たがられるばかり。

  伊原思へらく、これでは台灣は、中共に對して無防備になるばかりではないか……?


  まだまだあるが、この邊で紹介を終る。

  本書は邦譯が出るのが望ましい良書である。


  最後に小さな訂正を一つ、240頁上の寫真の説明に 「 東京大學教授若林正丈 ( 左二 ) 」 とあるのは間違ひ。

  この人物は、産經新聞社の長谷川周人記者 ( 台北支局長經驗者 ) である。

( 平成22.4.15 )