國語習得の心得

> コラム > 伊原吉之助教授の読書室


  伊原註:以下は 「 世界の話題 」 234 の讀書室版です。少し増補してあります。




    國語習得の心得



       共同體、特に家族の再建


  國語教育の續きです。


  言葉が 「 思考の手段 」 であり 「 意思傳達の道具 」 であるからには、先ず言葉を遣り取りする基盤である共同體が前提となります。

  共同體の存在は、common sense ( 共通の感覚→共通の知識、つまり常識 ) の基盤なのですから。


  ところが日本では敗戰後、米軍の日本弱體化占領政策と、それを受容し便乗し維持擴大した反日日本人の傳統破壞努力により、

  「 家の解體 」

  「 町内會の解散 」

  「 個人の利己主義化・分散孤立化 」

  が進みました。


  人が集團生活をしてゐる限り、人は集團、とりわけ共同體 ( 家族+近隣社會 ) の中で育つのですが、日本の場合、民法改正・均分相續・核家族化により家庭が崩壞し、高度成長が近隣社會を破壞し、會社も經濟不況で擬似共同體であることを止め、今や日本の社會はばらばらの極に達しました。


  赤ん坊は先ず母親から言葉を學ぶのに、母親の國語力が低い上、多くの母親が子育てより自分の生活を重視して、子供と緊密な關係を作らない。


  かくて赤ん坊は 「 國語と疎遠 」 の儘育つことになりました。


       賢く育つための必修心得


  更に、親や先輩が頼りなくなつたため、子供に生きるため必要な躾けや生きる最小限の心得が傳はつてゐません。


  例へば 「 姿勢 」 、また 「 箸の持ち方 」 です。

  背筋をピンと伸ばす。

  前屈みにならない。

  これは呼吸を整へる上で先ず心掛けねばならぬ點なのに、姿勢の惡い子供が多い。


  箸の持ち方は、日本だけでなく、台灣・香港・中國でも頗る惡い。

  親からちやんと躾けられてゐないやうです。


  食事も、 「 咀嚼 」 の大事さを教へないから顎が發達せず、成長につれて歯を抜かないと亂杙歯になる。


  私達は、 「 やはらかいものでも呑み込むまでに百邊噛みなさい 」 と云はれて育ちました。


  咀嚼は腦の發達と直截關聯してゐます。

  軟いものを呑込む食事ばかりしてゐると、顎だけでなく、腦の發達が遲れます。


  更に、日教組の反對で團體訓練を施してゐないから、他人とうまく共同作業が出來ず、從つて共感も育たない、等々。


  要するに、集團生活をする基礎訓練がまるで出來てゐないのです。


       國語習得の基本的道筋


  さて、前回から續きの國語習得法です。

  石井勲先生は、世間で普通漢字で表記する語句は初めから漢字で教へなさいと言ひます。

  「 がつこう 」 など、世間では使はないから、初めから 「 學校 」 と漢字で教へればよい。

  必要なら振假名をつければ足りる、と。

  事實、ある幼稚園で子供たちの名札を全部漢字表記にしたら、子供たちは忽ち覺えて讀むやうになつたさうです。


  石井先生は、平假名から教へるのは最惡だと言ひます。子供には識別し難いからです。

  漢字も、畫 ( クワク ) の多いものは難しいと思ふのは大人の偏見に過ぎません。

  子供には畫の多いものほど識別しやすく、讀みやすい。

  だから書くのは後回しにして、とにかく讀上げて行けば、子供はちやんとついて來る。

  かうして、先づは多くの漢字に慣れるのが大切です。


  私が大學で教へてゐて閉口したのが 「 誤字・當字 」 の氾濫でした。

  假名から教へるから、誤字や當字が殖えるのです。

  石井先生のいふやうに、初めから漢字で教へれば、誤字も當字も激減する筈です。


  明治まで、漢文讀下し文は男のもの、平假名は女のものでした。

  片假名は、漢文を讀下す際につける符丁から發達したものです。

  法令など官廳用語が片假名書きであつたのは、漢字讀下し文に由來します。


  明治になつて先輩が苦勞の末、現代文を創り出しました。

  漢文と國文を巧みに混ぜ合はせ、話言葉と融合して渾然一體化したのです。


  それなら、私達が國語を身につけるには、漢文と國文を習はねばなりません。


  そして言葉を身につける一番大事な作業は、朗讀です。

  言葉は先づ音、文字は音を記録するための符號に過ぎません。

  ( シナ語は漢字を作つてそれを並べて讀み上げたといふ特異な人工語です。先づ 「 文字ありき 」 だつたのです。それに對して、シナの方言は音から始つてゐます。だから台灣語にも廣東語にも、音だけあつて字のない言葉があります )


  「 讀經 」 といふ言葉から判るやうに、本を 「 讀む 」 とは讀上げることです。

  「 黙讀 」 とは形容矛盾で、 「 聲に出さずに朗讀する 」 といふ無理な表現です。

  黙って本を讀むのは 「 見る 」 を使ふべきで、昔の人は 「 書見 」 と言ひました。


  幼兒に讀聞かせてやると、必ず讀書好きになり、語彙も殖えますし、自分でどんどん讀むやうになります。

  朗讀で 「 口調の善さ 」 が身につきます。新聞の文章が間延びして口調が惡いのは、讀上げなくなつたせいです。

( 09.4.20/6.1 補筆 )