昭和天皇と大日本帝国の崩壊

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 以下は 『 関西師友 』 平成19年4月号に掲載した 「 世界の話題 」 ( 209 ) です。

少し補足してあります。書物の出版年だけの指示を、月日まで入れたとか。

伊原


 昭和天皇と大日本帝国の崩壊


伊原 吉之助


  明治帝国滅亡への道

 昭和は稀に見る長い治世です。裕仁天皇は明治34 ( 1901 ) .4.29誕生、昭和の御世は64年続きます。摂政から数えると在位実に68年! 大英帝国最盛時に君臨したヴィクトリア女王の在位64年に匹敵しますが、昭和前期は天下大乱の時代、昭和天皇は大日本帝国の滅亡に立ち会われました。

昭和天皇の御事跡を見る好文献は伊藤之雄 『 昭和天皇と立憲君主制の崩壊──睦仁・嘉仁から裕仁へ 』 ( 名古屋大学出版会、2005.5.10 ) です。その簡略版が同 「 昭和天皇と立憲君主制──近代日本の政治慣行と天皇の決断 」 ( 伊東之雄・川田稔編 『 二〇世紀日本の天皇と君主制──国際比較の視点から 1867〜1947 』 吉川弘文館、2004.3.20 所収 ) です。

昭和天皇が最初に直面する重大事が昭和3 ( 1928 ) .6.4発生した張作霖爆殺事件と、それを報告した政友会田中義一首相との軋轢です。時に裕仁天皇28歳。


  田中首相更迭の失敗

 田中首相は 「 事件の犯人は日本陸軍軍人が関与した疑いあり、その場合、軍法会議で処罰致します 」 と奏上します ( 原田熊雄述 『 西園寺公と政局 ( 1 ) 』 岩波書店、昭和25.6.30,10頁 ) 。しかしその後、政府は真相を伏せ、行政処分で済ますと決め、野党の了承もとりました。

 昭和天皇は、白川義則陸相が奏上したこの決定は認めます。立憲君主は、輔弼の臣の結論を拒めないのです。だが田中首相の食言は許さず、 「 お前のいうことは前と違う、二度と聴きたくない 」 「 辞表を出してはどうか 」 と辞任を迫りました。

 田中内閣の小川平吉鉄道相は 「 一国の政を総理に任せながら、政務に関して其の説明を聴かずとは明君の言動に非ず 」 と天皇の未熟さを批判し、倉富勇三郎枢密院議長も、天皇は政治責任を負わぬから、 「 独裁は避け遊ばされたきものなり 」 とぼやきました。陸軍・政友会・国粋派は、未熟な天皇の 「 越権 」 に首を傾 ( かし ) げます。

 天皇御自身も後に 「 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである 」 と述懐されます ( 『 昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記 』 文藝春秋、 1991.3.10,22頁 ) 。続けて 「 この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した 」 ( 同上、23頁 ) と言われるのは少し違います。ロンドン海軍軍縮条約の時、明治・大正両天皇になかった 「 強い政治関与 」 を再演されるからです。


  民政党内閣支援の咎

 天皇と宮廷派への不信感を決定的にするのが、ロンドン海軍軍縮条約を巡る上奏阻止問題と統帥権干犯問題です。

 前提が二つあります。

( 1 ) 昭和天皇は田中義一首相更迭により、好ましからざる政友会内閣を倒して、好ましい濱口雄幸民政党内閣に取替えたこと。

  ( 2 ) その濱口内閣が、補助艦に関するロンドン海軍軍縮会議に参加する際、天皇は首相に直接 「 世界の平和の為め早く纏める様努力せよ 」 と意思表明したこと ( 『 濱口雄幸日記 』 1930.3.27付 ) 。これで濱口内閣は条約締結に勇躍邁進します。


 日本が目指した三大原則──

  ( 1 ) 補助艦総括比率対米7割

   ( 2 ) 重巡洋艦も対米7割

   ( 3 ) 潜水艦は日本の現有7万8500トンを保持


 米英日の協定案──

   ( 1 ) 総括比率対米6割9分7厘5毛

   ( 2 ) 重巡洋艦は対米6割2厘

   ( 3 ) 潜水艦は各国一律5万2700トンへ


 代表団の請訓に対する回答を巡って論争が生じます。可とする海軍省 ( 海相事務管理=濱口首相、次官=山梨勝之進、軍務局長=堀悌吉 ) に対し、軍令部 ( 部長=加藤寛治、次長=末次信正 ) が、重巡洋艦の対米7割を満たさぬ限り、決裂も辞さぬと、強硬に反対するのです。

 加藤軍令部長は直接陛下に訴えようと、上奏を決意します。ところが陛下の御意向を知る鈴木貫太郎侍従長が、陛下はお忙しいと延期させ、上奏実現が回訓後になった。

 このため、回訓発送前に上奏して海軍の対米7割復活、せめて海軍の戦力維持に関する代替措置の確約を望んでいた軍令部の思惑が崩れました。

 かくて 「 上奏阻止問題 」 「 統帥権干犯問題 」 が政治問題化します。


  下剋上状態の出現

 ロンドン海軍軍縮条約と、そこから生じた統帥権干犯問題こそ、昭和史最大の問題でした。

 ここで歴史が大転換します。伊藤之雄は、立憲君主制の崩壊と言います。天皇と天皇側近に 「 公平な調停者 」 の役割を期待できないため、昭和史はこのあと、君側の奸に対する暗殺・クーデター と、中堅実力者の下剋上行動が、未遂を含めて頻発するのです。

 具体的には──

 昭和5年:濱口雄幸首相、東京駅頭で狙撃され、重傷

 昭和6年:三月事件・満洲事変・十月事件 ( 何れも陸軍 )

 昭和7年:五一五事件 ( 犬養毅首相暗殺・海軍 )

 昭和8年:国際聯盟脱退 ( 外務 )

 昭和9年:陸軍省、 『 国防の本義とその強化の提唱 』 ( 陸軍パンフレット ) 配布。高度国防国家構想を提示

 昭和10年:天皇機関説排撃・陸軍永田鐵山軍務局長、白昼斬殺

 昭和11年:海軍、軍縮会議脱退 ( 無条約時代へ ) ・二二六事件 ( 陸軍 )


 一体、何が起きたのか?

 天皇と天皇側近に期待できなくなった臣下 ( 実力組織の中堅 ) が、天皇の意向を無視ないし忖度して、勝手に国家を運営し始めたのです。国家意志の壊滅です。

 昭和天皇の責任というより、輔弼の失敗であり、明治憲政の機能不全です。


( 07.2.17 執筆/4.5 補筆 )